第4話 ヨシュア
異様な光景であった。
確実に死んでいたはずの男。噎せ返るほどに充満している血の臭い。切り落とされたばかりの大蛇の首が、ほんの数歩分離れたところでピクピクと蠢いている。
背後にはきっとヘビの胴体が転がっているのだろうが、リリエリは振り向くことができなかった。状況を迅速に確認しなければ、という思いよりも、眼の前の男に対する恐怖の方が上回っていた。
動くことが出来ないリリエリを見下ろしている男は、おもむろに仕込杖を振るった。血振りに似た動作だったが、肝心の刃がその先にはない。……いつの間にやら折れてしまったようだ。
「……すまない。壊した」
「あ、いや、そんなことは別にいいんです。そんなことより、……血が、」
「血?」
男はリリエリの視線の先を……つまりは自身の身体に目を向けた。一般的な冒険者の軽装、その殆どが赤褐色に染まっている。とりわけ鮮明な赤色の部分は先程リリエリが切り開いた胸元だが……リリエリは目を疑った。
自分は確かにこの男の胸元を、この男の怪我も厭わずに切り裂いたはずだ。それなのに、あるはずの場所に、傷がない。
「……これは、……返り血」
嘘が下手すぎる。リリエリは他人を懐疑的な視点で見ない方の人間だが、今回ばかりは確信を持って言えた。それほどまでに男の申告は挙動不審であった。
しかし、返り血が嘘なのだとしたら、全て自分の血だということになるが。……そんなこと、あり得るのか?
「……いや、返り血じゃないところもある、けど、俺はそういう体質というか、とにかく心配するようなことはなにもない。アンタのお陰で助かったんだ」
「そ、れならいいんです、けど」
いいのか?
漠然とした不安がリリエリの頭を掠める。
しかし、当の本人が喋り、動き、なんならこちらを案じる素振りすら見せているのだ。今はとにかく死んだ人間がいなかったことを喜ぶべきだろう。
「アンタこそ、大丈夫か。その……立てるか」
男は膝をつき、リリエリに手を差し出した。男が近づいたことでわかったが、目元にはくっきりと隈が浮いていた。差し出された手も、がっしりとした様子の割にえらく節くれだっており、日頃からろくな栄養を摂れていないことが伺えた。
「えーと、怪我とか、そういう意味では大丈夫です。ただ、その、」
リリエリは男の手に握られたままの仕込杖に視線をやった。つられて男も自分の手元に目を落とす。無惨にも先端が折れた仕込杖。
杖の用途といえば、まず浮かぶのが魔法を行使する際の補助具だ。魔法使いであれば、わざわざ刃を仕込む必要はない。次に浮かぶ用途は歩行の補助。……歩行用の杖が、半壊している。
「歩けなくなってしまって」
「……すまない」
男は項垂れた様子を見せた。その姿はどこか大型犬にも似た哀愁を漂わせていた。
□ ■ □
男は名をヨシュアといった。
西の方、どこか別の都市からこのエルナトの地まで移動してきたらしい。自身を冒険者だと言っているが、鎧や防具はおろか武器の一つも身に着けていない様子は、明らかに異常だった。
この世界の都市は浮島のように分断されている。都市から離れるほどに魔物の脅威は増し、地形植生分布その他様々な情報が急速に欠落していく。
都市から都市への歩行移動は、優れた冒険者であっても過酷なものとなる。この世界で生活する人間の都市間移動は、もっぱら転移結晶によってなされるのが常であった。
わざわざ壁外を、ろくな装備も持たない状態で移動するなんて、常識的な人間ならばまず実行しない。
……つまり、この男にはそれをしなければいけないほどの理由があった、ということだ。
「俺は元々トーヘッドという都市で冒険者をしていて、あるパーティに属していたんだが、……色々あって、都市を出ることにしたんだ。それで、ここに」
「トーヘッド、ですか。すみませんが、聞いたことがない都市です」
都市間の移動に制限があるのは何も人だけではない。転移結晶の利用には限りがある。人も、者も、情報も、物理的に距離があるほど伝わりにくくなっていく。
リリエリはトーヘッドという都市を知らない。だが、知らないなりに遠くの都市であろうことは推測できた。
「それより、こういう聞き方は気を悪くされると思うのですが、……その色々って、倫理的に大丈夫な色々ですか?」
「……アンタが不安に思うのも当然だと思う。ここから一番近いギルドで、冒険者の身分を確認して貰えれば、証明できるんだが」
冒険者は国家に所属する正当な職業である。ある程度の特権を有する分、その素行は厳格に監視されており、不適切な振る舞いがあれば迅速に冒険者としての身分が剥奪される。
冒険者であるということは、それだけで信用に値する人間である証左なのだ。
せめてもの担保に、とヨシュアはリリエリに冒険者としての身分を示す金属性のカードを差し出した。
血や泥や錆に塗れて判然としないが、微かに露出している色味は銀。B級の冒険者だろう。ある程度の実力があり、いくつもの依頼をこなしてきた証だ。冒険者証は等級に応じて異なる金属が用いられていて、リリエリの属するC級は赤銅色をしている。
このカードを差し出せるというだけで十分な誠意は感じとれる。それに、結果として彼はこの大蛇から私の身を守ってくれたわけだし、とリリエリは自身の眼の前に横たわる巨大なヘビの魔物を眺めた。リリエリは他人を積極的に信じる方の人間であった。
「ひとまず、あなたが冒険者で、エルナトに向かいたいということは理解しました。私はエルナト所属の冒険者です。エルナトはすぐそこですし、ご案内しますよ」
「本当に助かる。恩に着る」
「その代わりといってはなんですが、エルナトまでの移動を助けてもらっても良いでしょうか。杖がなくても多少の移動はできるんですけど、それだと日が暮れてしまいそうで」
「もちろん、俺ができることであれば。アンタにはずっと助けられている」
ヨシュアは地面に座り込んだ姿勢のまま、深々と頭を下げた。その手には温かいスープが握られている。先程リリエリが拵えたものだ。
少しの香辛料と、干した穀物が入っているだけの質素なスープ。それでもヨシュアにとっては十分な食事であった。……聞くところによると、ここ3日はろくに食事を摂っていなかったらしい。
殆ど白湯のようなスープを、ヨシュアは大層美味そうに飲んでいたが、リリエリはその様子を見てはいなかった。彼女の視線はただ一心に死んだヘビへと向けられていた。
「それにしても、どうしてそんなに血だらけになっているんです?」
「そんな深い話じゃないんだ。空腹で意識を飛ばしていたところを襲われてしまって。そこからは逃げて、休んでの繰り返しだった。アンタが起こしてくれたから、アンタの剣があったから応戦できた」
「起こしたというか、切ったというか。……すみません、確実に死んでいると思ってて」
落ちた大蛇の牙の付け根にナイフ――ヨシュアの胸元を切り裂いたものと同じナイフだ――を差し込み、捻じるようにして切り落とす。グレイサーペントの一種のようで、その牙はリリエリの頭部ほどもある。この辺りで見かけるのは珍しいが、毒を持たないことを知っている程度にはありふれた種でもあった。
「というか、普通は死んでいますよ、その血の量」
「俺は、その、治癒魔法が得意なんだ。自分にしか使えないが」
「そうなんですね。なにはともあれ、命があって良かった。本当に」
「……そうだな。そうだといいな」
もう一本の牙も同様に切り落とし、リリエリは一対の牙を丁寧に麻布で包んだ。次は皮だ。ヨシュアが一発で仕留めてくれたから、状態はかなり良い。やることが多い、多いが充実感がある。こんな大物、リリエリにとっては久方ぶりなのだ。
「ところで、さっきから何をやってるんだ?」
「解体です。取れるとこ全部取って売ります。コイツが来たせいか、どうもこの森の小動物が逃げ出してしまったようで、元々受けていた依頼が未達でして」
「……すまない」
ヨシュアは再び申し訳無さそうな表情を見せた。リリエリは気づかない。ただただグレイサーペントに夢中であった。
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