第3話 邂逅


「……じゃあ、探しにいくか。原因」


 ちょっとその辺を見るだけ。ヤバそうだったら早めに撤退。リリエリはなんとなく自分にそう言い訳をして、杖を拾い上げ立ち上がった。


 ヤドクヒメウサギを始めとした小動物は軒並みこの森から姿を消している。何らかの原因によって逃げ出したのなら、逃げた方向の逆を辿っていけばその原因がわかるはず。


 そういう視点で森の中を見ると、推測通り獣の足跡や痕跡は決まった方向に向かっているようであった。皆一様に南西、小エルナト森林の外に向いている。


「森の奥から何か来た、とか?」


 リリエリは北東の方向、エルナト森林深部に続く獣道を見つめた。


 C級冒険者の森林深部への立ち入りは許可されていない。ましてや戦いなんて一切できないリリエリが、周辺の小動物の習性すら変えるほどに強い"何か"から敵意を向けられたならば、明日の朝日を拝むことは到底望めないだろう。


 それはそれとして。


 中腹と深部の境なんて曖昧だし、見張りが立っているわけでもない。それに、小都市エルナトにほど近い森林に強大な魔物がいうるという情報は、うまくすれば金にできるかもしれない。

 ギリギリ中腹だと言い訳できる程度まで森の奥に進み、魔物の痕跡を確認・記録してから撤退する。……完璧な作戦だ。


 そうと決まれば話は早い。

 リリエリは意気揚々と森の奥へと足を踏み出した。遠くの空から、火筒鳥の鳴く声が聞こえていた。



□ ■ □



 痕跡は意外にもすぐに見つかった。

 森林奥へと歩みを進めて十分ほど。草花の隙間、僅かに見えている地表部分に、ズルズルと這いずるような軌跡が残っている。


 ここいらに生息する獣がつける跡ではない、と思う。次いで周辺を確認すると、這いずる痕跡を追いかけるようにして木々の高い位置――リリエリの身長より更に頭二つ分ほどの場所に、泥のようなものがついていた。


 この森に何か普段とは違う生き物がいるのはどうも確からしい。問題はそれがどういった存在なのかという点だ。爪痕でも抜け毛でも、特徴的な証拠品を見つけることができればいいのだが。


「小エルナト森林に何か強いのがいそうです、だけじゃろくな情報にならないもんなぁ」


 這いずるような痕跡、高い樹の幹に泥、周辺環境への影響の小ささ。これらを鑑みるに、厄介な来訪者は巨大なヘビといったところか。


 脅威となりうるヘビ系の魔物のうち、最もヤバいケースは五大厄災が一つ邪龍ヒュドラだ。だが最悪を想定する必要はないだろう。アレは存在するだけで辺り一面を腐敗させるという噂を聞くほど、周囲に及ぼす影響が大きい。そんなものが小エルナト森林なんぞに現れたら、とっくに森も都市も消滅している。


 次点でバジリスク、シャクヤナギ、アダラーなど。ただ、コレらは揃いも揃ってデカい魔物だ。先程見つけた痕跡はせいぜいリリエリの胴程度の直径しかなく、この場にいるのはもっと弱い種と見るのが妥当だろう。


 今のところ周囲に生物の気配はない。もう少し踏み込んでもいい、はず。


 這いずる痕跡は森のちょうど西の方へと向かっていた。些細な証拠も見逃さないよう、地面を注視しながらゆっくりとその跡を追う。鱗の一つでも落ちていれば儲けものなんだけど、などと考えながら歩みを進めること早数分。


 まず気がついたのは臭いだった。ある程度冒険者をやっている者なら否応なく嗅ぎ慣れてしまう臭いが微かに鼻の奥に届く。

 血だ。覚えのありすぎる金属臭は、一歩一歩踏み進めるたびに濃くなり、やがて夥しい量の出血を想起させるほどになっていく。


 戦う力のないリリエリの処世術は、そもそも接敵しないことである。

 五感によって得られるありとあらゆる情報からいち早く魔物の気配を察知し、迅速にその場を離れる。そうしたことの繰り返しで今日まで生き延びてきた。


 直感がガンガンと警鐘を鳴らす。これはかなり不味い状況だ。

 ある程度の脅威が想定される魔物、そしてそれによる犠牲が確実に近距離に存在している上に、近づけば近づくほどに嗅覚情報が潰されていく。これ以上は危険、いや、なんならもうとっくにボーダーラインは過ぎているのかも。引き返すべきだ、今すぐに!


 早鐘のように心音が耳奥に響いている。じわりと滲み出す恐怖によって、怯えた手足が強張っていく。

 だけど引けない。ここで引くわけにはいかなかった。


 だって、今すぐそばで流れている血は、人間のものかもしれないのに。


 リリエリは杖の柄の部分を捻り、ゆっくりと柄を引き抜いた。ギラリと鈍い光が、久方ぶりとばかりに顔を出す。いざというときのための仕込杖。役に立ったことはほとんどない、気休め程度の付け焼き刃。


 刃を地面に突き立てながら、死臭の立ち込める森を進む。枝葉をそっとかき分けた先、リリエリは始めソレを"ソレ"だと認識できなかった。あまりにも赤かったためである。


「…………死、っ……?」


 人だ。


 全身から血を流した男が、大樹に背を預けるようにして座り込んでいる。

 まだ視界に捉えただけの段階だが、死んでいると断言することができた。それほどまでに血が流れ出ていたのだ。

 

 であれは、リリエリにできることは一つだった。

 リリエリは自身の右足に魔力を込めた。有事の際のとっておき。右足に巻きつけたベルトに刻んだ紋章が、一時的にリリエリの足に力を満たす。


 紋章魔術。

 右足の不自由な少女が、たった一人でも冒険者を続けてこれたのは、この技術のおかげだ。


 リリエリは自身にできる最大の速度で死んだ男に駆け寄った。冒険者であればドッグタグを持っているはずだ。タグを取れ、彼の名だけでも持ち帰れ。彼の生き様を、こんな場所で朽ち果てさせてはいけない。


 まず手首を見た。タグはない。次に首元。リリエリは仕込杖を手放し、腰元に携えた小さなナイフで男の襟元を切り裂いた。

 自身も危険な状況下だ、何よりも時間が惜しかった。だから死体に傷がつくことも厭わず、かなり強引に切ったのだ。


 そこにドッグタグがあったかどうかは、わからない。

 わかったことは、今自分が尻もちをついているということ。そして、事切れていたはずの男がリリエリが手放した仕込杖を振り抜いているということ。

 

 ドサリ、と大蛇の頭部がリリエリの視界の端で跳ねる。一拍遅れて、まるでヘビの巨体が崩れ落ちたかのような鈍い音が背後から鳴り響く。

 ばたばたと血の雨が降り落ちる中、つい先程まで死体であった男が言った。


「ありがとう。あんたのお陰で目が覚めた」


 ロマンチックの欠片もない。

 "邪龍憑き"ヨシュアとの物語は、溢れる血と、落ちる大蛇と、恐怖にも似た勇気の中でその幕を開けたのである。


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