第3話 父




楓乃かの


 私の名前を呼ぶ父の声。ゾワリ、と体が震える。


「ご飯は?」


 荒々しく、鞄と、少し雨に濡れたスーツをソファに放り投げて、ネクタイを緩める父。


「お母さんと食べたんじゃないの?」


 震える声で、答える。父の機嫌が悪い。


「あぁ? 食ってねぇよ」


 ぞんざいな口調で、否定する父。母と喧嘩をしたのだろう。


 よくあることだ。週に何回行われるかは、両手で数えなければいけない程度には。


「それで、ご飯は?」


「母さんと食べると思って、作ってない……」


「あ゛!? ふざけるなよ!」


 顔を赤くして、叫んでくる。


「お前は、俺に養われてるんだぞ! 料理を作らないでどうする! お前の服も、食事も、学校に行かせてやってるのも、なにもかも全部、俺の金なんだぞ! お前を育ててやったのに、なんだその薄情な態度は!」


 吐き捨てるように、彼は言い続ける。


「だいたいお前は!」


 こちらに目を向け、近寄って来る。あぁ、いつものように殴られるのかな? それともなんて思ってると、彼は私の首を押さえてきた。


 そうか、今日はこのパターンか。


 グッ、と喉奥に親指を押し込まれる。伸びた爪が引っかかって痛い。


「お前は……くそっ」


 彼は、何かに気付いたのか、それとも我に帰ったのか、私の首から手を離して、部屋を出ていく。


 向かったのは洗面所だろう。


 私は、首を触って傷の様子を確認する。少し触れた程度では痛みを感じない。


 内出血はしていないだろう。後で鏡を見ようと思いながら、途中で止まっていた食器の片付けを再開する。


 キュッ

    キュッ

        ジャァァァァァァ


 冷たい水が手に染みる。初冬も過ぎて、冬に入ってきた、最近。夜も冷えてきて、外は手がかじかむほどの寒さになる。


 水切り台に洗った食器を乗せ、息を一息吐く。


 なんてことない毎日。変わらない毎日。親に縛られる毎日。学校に囚われる毎日。


 何のために生きているのか、それが、わからない。いや、この悩みは多くの人が、何千も前から考えてきて、それでもなお、答えることができない問いだ。私が、そう簡単に答えるなんて、自惚れてはいない。


 それでも、


「楓乃。ごめんな」


 父の弱々しい声が聞こえてきた。あぁ、こうなるのか。と、心のどこかで私の声がする。


「すまん」


 台所の前に立つ私の背に立ち、肩を抱いてくる。


 彼の頬から伝う涙が、肩に落ちる。


「ごめんな」


 私の首筋に顔を埋め、泣いて謝る。


「許してくれるよな?」


 ダミ声で、それでいてせがむような声。


「……はい」


 私はいつものように彼を受け入れた。ずっと昔から、そうしているように。



 翌日、父はもういなかった。仕事に出たのだろう。


 時計は7時を指している。


 だるく、重い体を上げて、辺りを見回す。私は、父の部屋に横たわっていた。


 今日は、薬を使わなくてよかったかな、そう思いながら、私は、いそいそと学校に出る準備をしはじめた。




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