第39話 珠子という名前
珠子と私に名付けたのは、海女をしていた父方の曽祖母だった。
真珠のように美しく輝く娘であれ、という願いが込められているそうだ。
小さい頃から、タマ、タマ、と猫みたいに呼ばれていたが……
「母には……一度も、名前を呼ばれたことがありませんでした」
蹄の音と馬車の車輪の音で、私の話は密着しているミケとネコにしか聞こえていないだろう。
そうであったほしいと思った。
自分が実の母に愛されていなかったなんて、あまり人に聞かれたい話ではないから。
「……一度も、か?」
「はい、一度もです」
ショックを受けたようなミケの問いに、私は頷く。
ネコは珍しく無言のまま、ザラザラの舌で私の頬をしきりに舐めた。
慰めてくれているのだろうか。
「曽祖母は、父方の一族のボスで──しかも、暴君でした。父も、彼女には逆らえなかったんです」
父は母と二人で別の名前を考えていたにもかかわらず、曽祖母に命じられるままに出生届を提出してしまう。
帝王切開で私を産んだ母が入院中の出来事だ。
「母は、曽祖母の独断で決められた〝珠子〟という名前も……それを付けられた私自身も、受け入れられなかったんです」
「……勝手に名前を決められて、受け入れられない気持ちはわかる。だが、それがなぜ、我が子まで拒絶する理由になるのかは、理解できんのだが……」
「きっとそれまでも、曽祖母関連で嫌な思いをしていたんでしょうね。そんな曽祖母に名前を付けられた私は、母の中では自分のものではなく、曽祖母のものという位置付けになってしまったんだと思います」
「……なるほど。やはり、理解できん」
憮然とした様子で、理解できないと繰り返すミケに、私は苦笑いを浮かべる。
ネコはまだ無言のまま、私の頬を舐めていた。
ザラザラの舌に同じところを舐め続けられると痛いのだが、私はそれを拒もうとは思わなかった。
「当時、母は……おそらく、産後うつの傾向にあったのだと思います」
メンタルも体調も最悪の状況で、父の裏切りともとれる行為に絶望したのだろう。
私の出産という記憶をリセットすることで、母は自分を守ろうとしたのかもしれない。
ただ名前が気に入らないだけなら、手続きをすれば改名はできたはずなのだから。
「母は、私をいないものとして扱いました。父方の祖父母が育児の手伝いに入っていたので、しばらくは問題なく過ごせていたようですが……」
状況が悪くなったのは、私が三歳になった頃──弟が生まれたのがきっかけだった。
母が、父方の曽祖母のみならず、祖父母や他の親戚が関わることまで激しく拒絶した結果、私は父以外のサポートを受けられなくなってしまう。
なお、母方の祖父母は私の人生にはまったく関わっておらず、生きているのか死んでいるかすら知らない。
とにかく、弟が生まれた後の私の命綱は父だけとなったわけだが……
「父は、私の名前のことで負い目があるでしょ? だから、母の味方だったんですよね」
「……なんてことだ」
ミケの深いため息が、私のつむじをくすぐった。
家族の中で孤立した私は、両親に愛される弟と、愛されない自分の格差に気づいていく。
ネコが私の顎の下にスリスリと顔を擦り付けながら、ここでようやくため息交じりに口を開いた。
『珠子の人見知りは、その生い立ちが大きく関わっとるんじゃな。親から存在を否定されてきたから、自分に自信が持てなかったんじゃろうよ』
「うん……そうかも……」
父が世間体を気にする人間だったおかげで、衣食住を取り上げられることはなかったし、高校にも短大にも行かせてもらえた。
ただ、遠方の短大に合格して、私が家を出ると決まった時の父の顔は忘れられない。
「やっと、厄介払いができるって顔をしてて……私は二度と、この家に帰ってこない方がいいんだって思いました」
「……すまない、タマ。もういい。辛い話をさせて、悪かった」
私よりもよほど苦しそうな声で、ミケが言う。
ここで初めて、私は後ろを振り返った。
ミケが、わずかに目を見張る。
めちゃくちゃ重い話をしていたというのに、私が案外平気そうな顔をしていたからだろう。
しかし、別段強がっているわけではなかった。
「私は別に、家族を……母を、憎んでいるわけではないんですよね」
「ああ……」
「でも、好きかって聞かれると……頷くのは、難しいです」
「そうか……」
ミケが、髪を撫でてくれる。
元の世界で、終ぞ母からは与えてもらえなかった優しさだ。
ネコも、また私の顎の下にしきりに顔を擦り付けてきた。
私は前を向き直し、語り続ける。
「産んでもらったからって無条件で親を愛さなければいけないのか、何があっても受け入れないといけないのか、ってトラちゃんに聞かれたんです」
あの時、私とトラちゃんがいたテラスの真上の階に居合わせ、ミケもこの話を聞いていた。
「どうしたいのかは自分で決めていいし、愛さないのも受け入れないのも生まれ持った権利だよって伝えたんですけど……あれは結局、私自身が言ってほしい言葉だったんですよね」
我が子の名付けを横取りされた母を、気の毒に思う。
腹が立っただろうし悔しかっただろう。
当時の彼女の気持ちを想像することは難しくない。
それでも……
「どんな理由があろうと、子供を蔑ろにしていいはずがない」
『そうじゃ! 珠子は、己が受けた理不尽な仕打ちも──母親も、許さんでいい!』
ミケが、ネコが、きっぱりとそう言い切ってくれる。
母は、私の名付けに関しては被害者だったかもしれないが、私の人生に対しては加害者だった。
「それでも、大人になるまで家には置いてもらえたわけですし……将来、父や母が年をとって動けなくなったりしたら助けるべきなのかなって、考えたりもしていたんですけど……でも、もう元の世界には帰れないんだよね?」
ちょん、とネコと鼻キスをしながら問う。
ネコは、そんな私の鼻もザリザリと舐めて答えた。
『うむ! 我としては不本意じゃがな! 元の世界どころか、他のどの世界にもゆけん! 我も、珠子も、きょうだい達も、みーんな仲良くこの世界に永住じゃいっ!!』
「ってなわけですので、私には二度と家に帰れない理由ができてしまいました──おかげで、ほっとしています」
「そうか、それはよかった……まあ、そんな理由がなかったとしても、生き辛い思いをさせた世界になど、タマは絶対に返さんつもりでいたがな」
そういえば、猫カフェ店員時代の辛い体験を打ち明けた時も、ミケは同じようなことを言っていた。
異世界で出会った心強い味方に背中を預け、ほっと安堵の息をつく。
(私には、もう母と分かり合えるチャンスも、それを望む気持ちもない……)
それは、父を愛しながらも憎み、ついにはヒバート家自体を潰そうと決意してしまったメルさんも同じだ。
だから、まだ時間も希望もあるトラちゃんには、できれば母カタリナさんと関係をやり直す方向に進んでもらいたい。
そう願うのはエゴだという自覚があるから、彼に伝えるつもりはないが。
ともあれ……
「全部しゃべって、スッキリしちゃった! 湿っぽい話を聞かせてしまったミケとネコには、申し訳ないですけど……」
「いや、元はと言えば、私がタマに尋ねたんだしな……って、ネコ! タマの鼻、舐めすぎだぞ! 赤くなっとるだろうが! タマも、やられっぱなしになってるんじゃないっ!」
『やーかましいわっ! 珠子がこの年まで享受し損ねた愛情は、我がまとめて与えてやるんじゃいっ! 珠子珠子珠子! ほれ、こっち向け! この母の愛をしかと受け止めよっ!!』
自分を挟んで言い合いするのがおかしくて、私は声を立てて笑う。
何事だ、と言いたげに、馬がちらりとこちらを振り返った。
「珠子って名前……本当言うと、大嫌いだったんですよね。この名前のせいで、母に嫌われてしまいましたから」
私の名前を連呼していたミケとネコが、うっと呻いて口を噤む。
異世界転移に巻き込まれたこの体は、ネコの細胞が混ざり、髪色の変化や不思議な特性を得て生まれ変わった。
世界と世界の狭間で、私は細胞レベルまでバラバラになって──
「この世界に来た時には服も全部消し飛んでて、残されたのは私の人生を狂わせたこの名前だけだったなんて……皮肉ですよね」
馬は足を進めつつ、打って変わって静かになった主人とモフモフを気にしているようだ。
私は、自分の前で手綱を握るミケの手と、上目遣いでじっと見つめてくるネコの毛並みを撫でて、でも、と続けた。
「この世界に来たら、ミケも、ネコも……ロメリアさんとかメルさんとかトラちゃんとか、いろんな人がたくさん名前を呼んでくれるじゃないですか。そしたら、何だかうれしくて……そのうち、自分の名前が好きになってきたんです」
「タマ……」
『珠子ぉ……』
ミケとネコが、私を挟むようにしてぎゅっとくっついてくる。
この世界では、もう孤独に苛まれることはないだろう、と私は確信めいたものを感じた。
「曽祖母も、きっと愛情をもって私にこの名前をくれたんだと思うんです。なので、これからもいっぱい呼んでくださいね、ミケ」
「ああ、タマ」
「ネコも」
『任せとけい、珠子!』
やがて小麦畑が終わり、王都の入り口が見えてくる。
ミケと一緒に無事に帰る、という国王様との約束を果たすことができた私は、馬上で胸を張った。
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