第31話 不穏分子

「──峠道が塞がっている、だと?」


 息急き切って戻った武官からの報告に、ミケランゼロは険しい顔になった。

 件の峠道は、国境から総督府までの最短経路であり、現在ミットー公爵が率いているであろうベルンハルト王国軍の一行もここを通ってやってくる計画なのだ。

 四日前、要塞の手前の山道も塞がっていて苦労をしたが、あれは前日に降った雨が原因だった。しかし……


「自然災害ではなく、人為的な要因でしょう。おそらくは破城槌のようなもので崖を崩したのではないかと推測されます」


 現場を見てきた武官の言葉に、総督府の長官執務室に集まった面々──ベルンハルト王国軍元帥ミケランゼロを筆頭とした、大佐以下総督府に赴任中の将校、そしてラーガスト革命軍幹部を含めた十数名は重々しい雰囲気になった。

 何のために、わざわざ崖を崩して峠道を塞いだのか、推測するのは容易だった。


「ベルンハルト王国軍の到着を遅らせ、その隙に総督府に入った革命軍を奇襲するためだろうな」


 そう呟いたミケランゼロはこの中では最年少だが、他の者達の意見も一致している。

 敵は、ラーガスト王国軍の残党と考えて間違いないだろう。

 本日総督府にて、ベルンハルト王子と革命軍の代表が会談を行うという情報が、どこから漏れたのかはわからないが……


「私が残党の立場ならば、ベルンハルト王国軍が峠道を迂回している間に、革命軍の代表を暗殺するとともに総督府を占拠する。そして、何も知らずに遅れてやってきたベルンハルト王子を拿捕、あるいは葬るだろうな」

「奴らが、今回我々が会談する目的を知っているとすれば……唯一の王家の生き残りであるトライアンを奪い、王家復興の旗印に据えるつもりやもしれません」


 ミケランゼロと革命軍代表の言葉に、部屋の空気はますます重くなった。

 そんな中、前者が後者に問う。


「残党を率いている者に心当たりは?」

「考えられるのは、親衛隊の生き残りでしょうか。ラーガスト王国軍の将官の生き残りはほぼ全員、戦後は革命軍側に回っておりますから。実際にベルンハルト王国軍と対戦した彼らは、無謀な戦争をしかけた国王に辟易しておりました」


 なお、そう言う革命軍代表も、元々はラーガスト王国軍の准将だった。

 皮肉なことに、妹を国王に差し出してのし上がった結果だ。


「何にしろ、いつ総督府が奇襲にあってもおかしくない。今すぐ全域に警戒体制を布き、戦えない者は建物内に避難させよう。門は、ベルンハルト王国軍が到着するまで閉じ──」


 ミケランゼロがそう言いかけた時だった。

 ヒヒン、という馬のいななきがその耳に届く。

 彼にとっては聞き慣れた何の変哲もないそれに、いやに興味を引かれた。


「殿下、いかがなされましたか?」


 大佐に不思議そうな顔をされつつ、ミケランゼロは吸い寄せられるように窓辺に移動する。

 三階の真ん中にある長官執務室からは、正門までが一望できる。

 ミケランゼロが階下を見下ろした時、ちょうど荷馬車が門を潜ったところだった。

 荷は、麦わらのようだ。総督府の敷地内で飼われている牛や馬の飼料や寝床として重宝される。

 ちょうど小麦の収穫が終わった時期であるため、真新しいものが一定量ずつ筒状に束ねられ、荷車の上に整然と積まれていた。


「一束は、ちょうど人一人分くらいの大きさだな……」


 そう呟いた瞬間、ミケランゼロははっとする。

 王都を出発した日の夜のこと──宿営地の領主屋敷にて、珠子の提案により、絨毯に包まれて姿を隠すことで肉食令嬢の目を欺いたことを思い出したのだった。




 ヒヒン、という馬のいななきが、遠くから聞こえた。

 総督府に危険が迫っていることなど、この時は知る由もなかった私とネコは、一階の奥まった場所にあるカタリナさんのための部屋でベルンハルト王国軍の到着を待っていた。

 中尉は仕事に戻り、メイドの少女は私とカタリナさんにお茶を淹れてくれてから、満を持してといった様子でネコを抱っこする。


「わあ、ネコ殿の毛、ふわふわ……いい匂い……好き……」

『むふふ、くるしゅうない。しかし、お前も結構抱えとるなぁ』


 彼女はカタリナさんの侍女仲間の娘で、幼い頃から献身的に母親を支えるトラちゃんを見ていたそうだ。

 戦時中に肉親を亡くして天涯孤独となり、トラちゃんの代わりにずっとカタリナさんに寄り添ってきた彼女もまた、言葉に尽くせない思いを抱えているだろう。

 ネコがその頬をザリザリと舐め回しながら、俄然張り切り始める。


『よーしよし! 存分にモフるがよいぞ! お前の澱みも、我がみーんな食ろうとやるわいっ!』

「わああっ、ザラザラしていて痛いっ! その舌、どうなってるんですか!?」


 ついさっきカタリナさんから膨大な量を摂取してパンパンだったはずのネコのお腹は、いつの間にか引っ込んでいた。

 十数年ぶりに正気を取り戻したカタリナさんは、息子と同い年の少女がネコの舌の洗礼を受けているのを感慨深げに眺めている。

 儚げな雰囲気はそのままだが、表情はいくらか柔らかくなり、トラちゃんと同じ金色の瞳にも光が戻ったように見えた。

 彼女と並んでソファに座った私は、おずおずと声をかける。


「あの、さっきはその……差し出がましいことを言ってしまいましたけど……」


 すると、私に視線を移したカタリナさんが、ゆるゆると首を横に振った。


「私も混乱していて……ひどい言葉を口にしてしまったことを、後悔しているんです。あなたに、トライアンの前ではいけないと教えてもらえて、よかった……」


 カタリナさんは、正気を失っていた間の記憶が何もないわけではないらしい。

 最初は、トラちゃんを産んだばかりの頃の少女のようだったが、心が落ち着くにつれて顔つきも話し方も年相応に変化していった。

 そうして今、ネコと戯れるメイドの少女を見守り、一人息子に思いを馳せる表情は、母親のそれになっている。


「私はずっと、自分だけが不幸だと思っていたんです。でも、一番辛い思いをしたのは、母親さえも頼りにできなかったトライアンだわ。あの子には、本当に申し訳ないことをしてしまいました……」

「やり直す時間は、これからたくさんありますよ。もうすぐトラちゃんも到着するでしょうから、どうかたくさん労ってあげてください」

「その……〝トラちゃん〟って呼び方……」

「あっ、すみません! 息子さんに対して、馴れ馴れしかったですね!」


 慌てる私に、カタリナさんはまた首を横に振った。


「そうやって、あの子を呼んでもらえていたんだと思うと……私が言うのは烏滸がましいかもしれませんが、うれしいんです。私は、今までほとんどあの子の名を呼べていませんから」


 消沈して言うのを見て、心を病んでいたのだから仕方がない、と思いかけたが……


「トライアンというのは……陛下が付けてくださった名前なんです。私は、陛下に身を委ねること自体が本意ではなかったものですから、トライアンの名前も素直に受け入れることができませんでしたが……」


 それを聞いて、私の体が強張る。

 カタリナさんは、そんな私に気づかないまま続けた。


「陛下が……父親があの子にくださった、たった一つの贈りものですもの。私も、大事にしないといけませんね」

「そう……ですね……」


 平静を装うものの、どうしても声が震えてしまう。

 すると、ネコがのしのしと膝の上に乗ってきた。


『こらぁ、珠子! なーに、辛気臭い顔をしとるんじゃ!』


 にゃーおっ! と大きな声で窘めるみたいにネコが鳴く。

 それから、私の胸に前足を突いて後ろ足で立ち上がると、有無を言わせずこちらの顔を舐め始めた。


「わわっ……いきなり、なにー?」

『なにー、じゃないわい! しゃきっとせい! しゃきっと!!』

「ううーん、痛い痛い痛い……なんで、舌がザラザラのところまで猫を再現しちゃったのかな」

『知るかい。お前の中の〝猫とは〟が反映された結果なんじゃ。珠子のせいじゃろーが』


 そうだった。

 私にとって猫とは、モフモフのふわふわで、いい匂いがして、舌がザラザラで、可愛くて愛おしくて、ツンデレで──そして、側にいると癒される尊い存在だ。


「ふふ……確かに、忠実すぎるくらい、忠実に猫だよね。前の世界で、私を癒やしてくれた猫、そのものだ……」

『そうじゃぞ! わかったなら、我の気が済むまで舐めさせろ!』


 さらに激しくベロベロされる私を見て、カタリナさんが小さく声を立てて笑った。


「ふふ……その子は、あなたのことがとても好きなのね」

「好き……? ネコって……私のこと、好きなの?」


 そう問う私に、ネコがはんっ! と鼻を鳴らした。

 

『あったりまえじゃろうが! 珠子は、このキュートなおネコ様の一の娘じゃぞ! 弱っちかろうが、生意気だろうが、陰キャだろうが、母は全力で愛す! なんか、文句あるかっ!?』


 一気に捲し立てられたかと思ったら、ベシッと鼻に猫パンチを食らう。

 ぷにぷにの肉球は、ちゃんとポップコーンみたいな匂いがした。

 母猫が子猫を舐めるのは愛情表現だ。

 ネコもその習性を忠実に再現しているとするならば……


「私は今、お母さんに愛されているんだ……」


 私はとたんにくすぐったい心地になる。

 だらしなく緩みそうになるのを隠したくて、ネコの毛に顔を埋めようとした、その時だった。

 

「──みなさま、すぐに移動をお願いします!」


 案内役をしてくれていた中尉が険しい表情をして駆け込んでくる。

 ただごとではない様子に、カタリナさんとメイドの少女が怯えた顔をして身を寄せ合った。


「総督府内に、すでに不穏分子が入り込んでいることが判明しました! 非戦闘員は、即刻上階の安全な部屋に避難するよう指示が出ております! みなさまは、私がご案内を……」


 メイドの少女に手を引かれて立ち上がるカタリナさんや、ネコを抱っこした私に向かって状況を説明していた中尉の顔色が、さっと変わった。


「何者ですか! 止まりなさい!」


 彼女は鋭い声を上げ、腰に提げていた剣に手を掛ける。

 答えたのは、聞き覚えのない男性の嘲りを含んだ声だった。



「──ベルンハルトの女が命令するな。ここは、ラーガストだぞ」



 見知らぬ男性が、いきなり掃き出し窓を押し開けて入ってくる。

 准将や革命軍のリーダー、それからカタリナさんと同じくらいの年頃だろうか。

 長い銀髪が目を惹き、端正な顔立ちをしているが、最高に疲れている時のミケよりもまだひどい隈をこしらえていて、とにかく不健康そうに見える。

 ベルンハルト王国軍のものとは違う濃紺の軍服を着た彼は、抜き身の剣をすっとこちらに向けると、片頬を引き攣らせた嫌な笑いを浮かべて言った。


「久しぶりだな──カタリナ」


 そのとたん、カタリナさんがガタガタと震え出す。

 そうして、絞り出すような声で答えた。


「──殿下……王太子、殿下」

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