第六章 ネコが全てを解決する

第30話 トライアンの母

「トラちゃんのお母さんが総督府に保護されてるって話は、前にミケから聞いてたけど……」

『うむ……確か、あの小僧の軟禁部屋で、お前と王子が昼飯を食った日じゃったな』


 トラちゃんの母親カタリナさんは、王太子の侍女をしている時にその父親であるラーガスト国王に見初められてトラちゃんを産んだ。

 しかし、後ろ盾となる実家が地方領主であったため、身分の高い妃達にひどくいじめられて心を病んだという。

 そんな彼女が負の感情に塗れているのは、なんら驚くべきことではないが……


「それにしても……すごい量だね、ネコ。さすがにあれは食べきれないんじゃない?」

『たわけ! 任せろと言ったからには、今更できませんなどと言えるかいっ!』


 ネコはそう啖呵を切ると、私の腕からぴょんと飛び下りる。

 そうして、カタリナさんが座っている──ただし、私達の目には巨大な黒い綿毛が乗っかっているようにしか見えない、窓辺のソファへたったか駆けていった。


『見とれよぉ、珠子! 母が本気を出したら、このくらい朝飯前じゃあ!』


 にゃおん! と一つ高らかに鳴き、ネコが黒い綿毛の塊に突入する。

 そのまま、凄まじい勢いでそれを食べ始めた。


『ぬおおっ! これはまた! 濃厚な味わいじゃわい! 嫌悪感と! 絶望が! 凝り固まってっ……うひひひひっ!』

「ちょ、ちょっと、ネコ? 大丈夫なの!?」


 カタリナさんが何年も抱えていたであろう負の感情は、量だけではなく内容も相当なようで、元々ぶっ飛んでいるネコがさらにおかしなテンションになっている。

 とはいえ、負の感情が視認できない人には、ネコがカタリナさんにひたすら戯れついているように見えるのだろう。


「わあああ! いいなぁ! カタリナ様、いいなぁ! 私もネコ殿にハムハムされたいなぁ!」

「はわわわわ! おネコ様っ……尊い! モフモフしたぁああいっ!」


 固唾を吞んで見守る私の隣では、メイドの少女と中尉がメロメロになっていた。


『むぐうっ……さすがに! これは! 胃にもたれるぞいっ……!』


 文句を言いつつも、ネコの爆食は続く。

 やがて、巨大な黒い綿毛の間からブロンドの髪が覗き始めた。

 さらには人間のシルエットが現れ、それはほっそりとした女性の後ろ姿になる。

 トラちゃんの母親カタリナさんの本来の姿が、ようやく私の目にも見えるようになってきた。


「ネコ……? だ、大丈夫……?」


 おそるおそるソファの前に回ってみれば、彼女の膝の上に真っ白い毛玉が乗っかっていた。

 お腹をパンパンに膨らませて仰向けに倒れ込んだ、ネコだ。

 有言実行。ネコは、カタリナさんが溜め込んでいたあの凄まじい量の負の感情を食べ尽くしたのだった。


『どうじゃあ……珠子ぉ……見たかぁ……母の、本気をぉ……』

「う、うんっ……すごいね! が、頑張ったね!」


 ネコが、よろよろとカタリナさんの膝から下りる。

 私は手を伸ばしてそれを支えようとしたが……


『おえーっ!!』

「ぎゃーっ、いきなり吐いた! って、大丈夫、任せて! 猫が吐くのには慣れてるっ!」


 元猫カフェ店員の本領発揮とばかりに張り切るも、ネコが吐いた負の感情は、猫が戻した食べ物や毛玉みたいに床を汚すことはなく、落ち切る前に消え去った。


『うう……キモチ悪い……胃がひっくり返ったぞい……』

「もう、無理しないでよ。別に一気に食べ切らなくたって……」


 私は床に膝を突き、吐き疲れてぐったりとしたネコを抱っこする。

 そんな中、ふいに視線を感じて顔を上げ……


「あ、こ、こんにちは……はじめまして……」


 トラちゃんと似た金色の瞳が、瞬きもせずに私とネコを見つめているのに気づいた。

 カタリナさんは、美しい人だった。

 長年心を病んでいたという通り、生気に乏しく痩せてはいるものの、その儚げな雰囲気が庇護欲をそそる。

 とはいえ、彼女の心を蝕んでいた負の感情は、ネコが食い尽くしたのだ。

 間もなく、カタリナさんに劇的な変化が現れる。


「ううっ……」

「まあ、カタリナ様っ!?」


 ふいに、カタリナさんが両手で顔を覆って嗚咽を上げた。

 慌てて駆け寄ってきたメイドの少女に、信じられないと言いたげな表情をした中尉が続く。

 何が何だかわからず、私は床に座り込んだままネコと顔を見合わせた。

 側に膝を突いた中尉が、興奮を抑えきれない様子で呟く。


「もう半年の付き合いになりますが、彼女が感情を表すのは初めて……自発的に動いたのも声を発したのも、これが初めてです!」

「そ、そうなんですか!?」

「これもおネコ様のお力でしょうか! すごい……奇跡ですっ!!」

『むっふっふっ、悪い気はせんなぁ』


 カタリナさんは、やがてわんわんと声を上げて泣き始めた。

 トラちゃんを産んで以降精神を病んでいったということだから、半年どころか十数年は正気ではなかったのだろう。

 その間に肥大していた負の感情をネコが取り除いたことで、これまで堰き止められていた自我が一気に溢れ出したのかもしれない。

 幼子のように泣きじゃく彼女の側で、世話係のメイドの少女も涙ぐんでいる。

 そうこうしているうちに、開きっぱなしの扉の向こうからバタバタと足音が聞こえてきた。


「カタリナ! お前、正気に戻ったのか!」


 ほどなく、准将と同じ年頃の男性が部屋の中に駆け込んできたかと思ったら、いきなりカタリナさんを抱き締めた。

 続いて現れたのは、ミケと大佐だ。

 上官のお出ましに、中尉が慌てて立ち上がって敬礼をした。


「タマ、ネコ、何があった?」


 中尉と入れ替わるように側に膝を突いたミケに、私はネコを指差して言う。


「ミケ、ネコがトラちゃんのお母さんを泣かせました!」

『こらぁ、珠子ぉ! 泣いたのは我のせいじゃないわいっ! 人聞きが悪いことを言うなっ! このっ、このこのこのっ!!』

「よしよし、じゃれるなじゃれるな」


 私に繰り出された猫パンチを、ミケが掴んで止める。

 ネコのパンパンに膨らんだお腹を撫でながら彼が言うには、カタリナさんを抱き締めているのはその兄らしい。

 つまり、今回トラちゃんを引き渡すよう願い出た、ラーガスト革命軍の代表だ。


「トライアンに刺されたタマに、伯父として一言謝りたいと言うので連れてきたんだが……」


 ラーガスト革命軍の代表と、十数年ぶりに正気を取り戻したカタリナさん。

 しかし、そんな兄妹の対面は、感動の再会とはいかなかった。


「離してっ! あっちへ行って! 兄さんなんか……私を陛下に差し出して利を得ようとした兄さんなんか、大嫌いよっ!」

「そ、それは……」


 カタリナさんは、革命軍の代表の腕の中で我武者らにもがいた。

 どうやら、地方領主の跡継ぎであることに満足していなかったこの兄は、見目麗しい妹を差し出すことで、国王に取り入ろうとした時期があったらしい。

 事情を知ったメイドの少女と中尉の冷たい視線が彼に突き刺さる。


『ほーう? それが今や、国王を処刑した革命軍の代表じゃとう? ぐふふふ……手のひら返しもいいところじゃなぁ』


 ネコも鋭く目を細め、嘲るように言った。


「そ、それについては、すまなかった! だが、陛下も、お前をいじめた妃達ももういない! 王家で残ったのは、お前と、お前の息子であるトラ……」

「いやっ……!」


 革命軍の代表を名乗っている人間も、どうやら聖人君子には程遠そうだ。

 カタリナさんは泣きじゃくりながら、身勝手な兄をめちゃくちゃに殴りつける。

 私は、ミケと顔を見合わせた。お互いに苦々しい表情になっている。

 そんな中、カタリナさんはついに兄を突き飛ばして叫んだ。


「陛下の子供なんて、産みたくなかった! あの子が生まれたせいで、私の人生はめちゃくちゃになったんだわ! 全部……全部全部、あの子のせいよっ!」

「──いや、さすがにその言い草はないんじゃないか?」


 あまりの発言に、ミケが眉を顰めて口を挟む。

 しかし、相手がベルンハルト王子などとは知らないカタリナさんは聞く耳を持たず、なおも続けようとして……


「トライアンなんて、生まれてこなければよかっ──」


 気がつけば、私は両手で彼女の口を塞いでいた。

 その場にいた人々が揃って口を噤み、部屋の中がしんと静まり返る。 

 初対面の相手に口を塞がれたカタリナさんも、その兄も。

 はらはらしながら見守っていた中尉とメイドの少女、それから大佐も。

 そんな中、一人と一匹が私の名を呼んだ。


「タマ」

『珠子』


 ミケとネコの声に、背中を押された気分になる。

 私は両目をぱちくりさせているカタリナさんを見つめて口を開いた。


「あなたが、ラーガストの王宮で辛い思いをなさったのは聞き及んでおります。そのことで、あなたが誰かを恨んだり、糾弾したりするのを止めるつもりも、その権利が自分にないこともわかっています」


 ミケが、トラちゃんを襲おうとしたベルンハルトの武官を諭した時のことを思い出す。

 あれは結局演技だったらしいが、トラちゃんだってなす術もなく戦争に巻き込まれた被害者の一人であり、行き場のない怒りや憎しみをぶつけるべき相手ではない、とラーガスト王国への蟠りを抱く者達に気づかせた。

 理不尽な人生を強いられたカタリナさんもまた、怒りや憎しみを抱くのは当然だ。


「あなたがどんな思いを抱こうと自由です。心の中で誰を詰ろうと、誰も口出しできません。けれど──」


 トラちゃんに、それをぶつけるのだけは看過できなかった。

 人は、この世に生まれ出た瞬間から一個人であり、親であろうと誰であろうと、傷つける権利など持っていないのだから。


「どうか、お願いします。トラちゃんを……息子さんを否定する言葉だけは、彼の前では絶対に口にしないでください」


 私はそう告げると、カタリナさんの口から両手を離した。

 そうして床の上に正座をし、ぐっと頭を下げて言う。


「お願いします」


 丸まった私の背を、ミケがそっと撫でてくれた。

 ネコは私の膝に体を擦り付け、にゃあんとかわい子ぶった声を上げる。

 ツン、と鼻の奥が痛んだ。

 しばしの沈黙の後、ようやくカタリナさんが口を開く。


「……あなたは、だぁれ?」


 その口調はいとけなく、まるで少女のようだ。

 十数年正気を失っていたということは、もしかしたら彼女の精神はトラちゃんを産んだ辺りで時を止めてしまっているのかもしれない。

 カタリナさんは十五でトラちゃんを産んだという。ちょうど、今の彼と同じ年だ。

 私は、年下の女の子を相手にしているつもりで、答えた。


「私は、トライアン王子のお友達ですよ」

「……トライアンの、お友達?」

「はい。だから、彼が生まれてきてくれてうれしいんです。カタリナさんが、彼を産んでくれたことに感謝しているんです」

「かん、しゃ……? 私が、トライアンを産んだこと、に……?」


 私が大きく頷くと、カタリナさんはまた顔を覆って泣き出してしまった。


「そんなこと、初めて言ってもらった……! 兄さんでさえ、自分がのし上がるための駒ができたと喜んだだけだったのにっ……!」

「カ、カタリナ……すまない……」


 妹の言葉により、かつての己のクズっぷりを突きつけられた兄は真っ青になる。

 中尉とメイドの少女が彼に向ける目は、もはやゴミを見るようなそれだった。

 ネコはというと、床に座り込んだままの私の肩に駆け上がり、鬼の首を取ったように笑う。


『ぎゃーはははっ! 珠子が泣かせたー! おい、見たか王子? 今、珠子が泣かせたな!?』

「ち、違う! 私は、そんなつもりじゃ……」


 慌てて反論しようと顔を上げた私の髪を、ネコはクリームパンみたいな前足でかき回してぐしゃぐしゃにした。


『まあ、あの女が泣こうが喚こうが、我は正直どーでもよいがな! だが、我の子が──珠子が泣かされたなら、この母は黙ってはおらんぞっ!』

「それについては、完全に同意する」


 ネコが乱した私の髪を整えつつ、ミケも大真面目な顔で頷く。

 私は慌てて、わずかに滲んでいた涙をぬぐい、彼らに笑顔を向けた。


 早馬が、よくない知らせを持って総督府の門を潜ったのは、そんな時だった。

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