第5話 酔いしれる
三週間後。
その夜は、碇グループの食品系の関連会社の二十周年記念パーティーが船上で開催されていた。
「お客様、招待状をご用意いただいて、あちらの受付で……」
「彼女は私の連れだ」
会場の入口付近に立っていた私の後ろから、彼が声をかける。
「成貴さん! 失礼しました」
予想外の人物に受付の男性が慌てていて、少し気の毒だ。
「本当に大丈夫か?」
小さく深呼吸をして彼の腕に手を添える。
今日の私は艶のあるネイビーの、タイトで大人っぽいドレスを身にまとい、髪をアップにしている。
「似合ってる」
彼に見つめられ、微笑まれる。
船内の会場はきらびやかなシャンデリアが吹き抜けの中央に輝き、その下には二階へと続く流線形の大きな階段があった。
そんな会場で、ゲストがみな真っ先に挨拶に向かい、一際注目を集めている人物がいる。
「わかりやすいな。あそこだ」
彼の言葉に、どうしても緊張して肩に力が入ってしまう。七年振りに会う、最も会いたくない人物。
「成貴? 来ていたの」
彼のお母様、碇
「珍しいじゃない、あなたがグループ会社のパーティーに出席するなん——」
上品ながらも迫力のある薄紫色の着物姿の彼女が、成貴さんの隣の私に気づく。
「ご無沙汰しております」
私は彼女の目を見据えて挨拶をした。
「どうしてあなたがここにいるの?」
一瞬で、瞳が怒りを孕んだのがわかる。
「覚えていていただけたとは、思いませんでした」
私はわざとニッコリと笑う。
「彼女に改めてプロポーズしたんだ」
彼が私の肩を抱くと、私たちを取り囲んでいた人ごみがどよっと騒めく。
こうして先手を打ってしまえば、パーティー会場では揉め事を起こし難い。
「そう」
彼女は冷たい声でそれだけ言って、私たちの前から去った。
「大丈夫か? 花音」
「う、うん……心臓がドキドキしてるけど」
再会は思ったよりあっさりしていた。七年経って、彼女も何か変わったのかもしれない。
それから私は、彼の知り合いに挨拶をして回った。
ふと、傍から英語での会話が耳に入る。
視線をやると、薄紫の着物が目に入る。
彼女は他のゲストと話しながら、私の方を見てクスクスと笑っていた。
「……vulgar……」
耳に入ってきたワードにため息をつく。
また小さく深呼吸して彼の腕から離れ、まっすぐ彼女のもとへ向かう。
「七年経っても、何も変わっていないんですね」
彼女の目を見る。
「どういう意味?」
私が堂々と声をかけたことに、彼女は少し驚いている。
「私はこの七年でマナーを徹底的に学びました。美しい姿勢や所作も勉強して身につけました。あなたの前で背筋を伸ばして立つために」
この場で、何も恥じずにまっすぐ立っていられるだけの武器を身につけた。
「英語も……まだ流暢に話せるようにはなっていませんけど、聞き取ることはできるようになったんですよ」
〝vulgar〟は〝家柄が悪い〟〝卑しい〟そんな意味だ。
「七年前の私に英語がわからなかったのはむしろ幸運でした。こんなくだらない陰口で余計に傷つかなくて済んだんだから」
「あなたの家柄が悪いのは事実でしょう? 成貴と釣り合うなんて思わないでちょうだい。私はあなたを〝碇の嫁〟とは絶対に認めませんからね」
彼女は吐き捨てるように言う。
「あなたなんかに認めてもらわなくて結構です」
「なんか、ですって?」
「ええ。家柄なんていう運で手に入れたようなものにしがみついて、まるでアップデートできていないような人ですから」
できるだけ冷静な顔で笑ってみせる。
「私があなたより劣っているとでも言うつもり? マナー? 所作? 語学? そんなもの、私にとっては身についていて当然です」
それはあなたが〝良い家柄〟で生きてきたから。
「では、立ち飲み屋のマナーはご存知ですか? 居酒屋でどんなお酒が飲まれているかご存知ですか?」
「そんなもの卑しい人間の——」
「碇の会社を支えているのは、そういう〝普通の〟人たちです。あなたのくだらない優越感じゃない」
彼女をまっすぐ見据える。
「あなたは……私がこれまでに出会った誰よりも品性が下劣な人間です」
こんな人の言葉に傷ついて泣いていたなんてバカみたい。
そんなこともわからないくらい、あの時の私は子どもだった。
「パンッ」と音が鳴って、一瞬意識が飛ぶ。
「花音!」
成貴さんの声がする。周りのざわっという声も聞こえた。
そこでようやく、彼女に頬を叩かれたんだと気づく。
「大丈夫か?」
私は頬を押さえて無言で頷く。
「成貴! そんな女との結婚は絶対に認めませんからね。結婚するというなら碇は継がせません」
「それで構わない」
「成貴!」
「花音を認めないというなら、碇ビールの社長も降りる」
成貴さんの冷たい声に、周りがより一層動揺してざわついている。
「彼女の言った通り、碇の会社も家も、あなたのくだらないプライドのためにあるわけじゃない。俺だってあなたの駒になるのはごめんだ」
声だけでなく、表情も今までに見たことがないくらい冷ややかだ。
「あらそう。なら——」
「咲織」
成貴さんのお母様の後ろから、白髪交じりの男性が声をかける。
「父さん」
初めて会う、彼のお父様だった。
「碇は君の家だが、成貴を辞めさせるなんて勝手なことは私が許さない」
「何を言っているのよ」
「君は、会社の業績にもまるで興味が無いんだな」
お父様は呆れた表情でため息をつく。
「成貴が社長になってから、碇ビールは業績がずっと伸び続けている。彼を解任すれば社内外から反発が出るだろう。困るのは我々の方だ」
お父様が成貴さんと私を見る。
「成貴、それに花音さん、すまなかった。こうなってしまったのは、彼女の横暴な行動から今まで目を背けていた私の責任だ」
そう言って、彼は立場のある人間だというのに深々と頭を下げた。
「軽々しく〝家柄が大切でない〟とは言えないが、家柄だけでどうにかなるような時代でもない。君たちは、そういう時代に合った生き方をすれば良い」
「父さん……」
「花音さん。彼女がなんと言おうと、私はあなたを迎えたい。〝碇の嫁〟などではなく、花音さんという一人の人間として」
お父様の言葉に、私と成貴さんは実感の無い喜びで顔を見合わせた。
「勝手なことばかり……言わないでちょうだい」
お母様はそう言うと、会場を出て行ってしまった。
「控え室にでも籠っているだろうから、後で私から言って聞かせるよ。時間はかかるだろうが、彼女も理解しなくてはいけない」
お父様は「やれやれ」と、またため息をついた。
「この家も変わる時期だ」
◇
パーティー会場が騒ぎになってしまい、なんとなく気まずくなってしまった私たちは船のデッキにいた。
先ほどまでの騒がしさが嘘のようで、波の音がときどき「トプン」と聞こえる。
「新聞に載るかもな、『お家騒動』なんて見出しで」
彼が面倒そうに言う。手にはシャンパングラスを持っている。
「でも頑張ったな、花音」
彼は私の叩かれた頬を指の背で撫でる。
「まだドキドキしていて、現実味もないけど」
彼に笑みを向けた瞬間、潮風が通り抜ける。
心の傷が癒えたわけではないけど、少しだけ軽くなった気がする。
「あなたに一つ、聞きたかったの」
「ん?」
「私が七年間勉強したことを知っていて私を秘書にしたの?」
私はこの七年間、パーティーなどのマナーだけでなくビジネスマナーも必死に勉強して、語学や秘書の資格もいくつか取っていた。
「もちろん君の仕事ぶりの調査やヒアリングは行って、君のことは調べた。たしかにもう〝あの頃の君〟ではなかった」
彼は笑う。
「潰れそうな会社で燻らせておくわけにはいかないと思ったし、悪い虫が付きかけていたみたいだな」
「……」
『なんか俺、嫉妬されてるのかなって感じだったし』
海棠さん、正解……。
「君は、本当ははじめから自信があったんだよな? 社長秘書になることに」
「え?」
「耳に髪をかける仕草は、君が嘘をつくときの癖だ」
「……え!?」
思わず耳に触れる。
「やっぱり気づいてなかったのか」
彼は「あはは」と可笑しそうに笑った。
「その癖のおかげで、結婚もしていないし、決まった相手もいないんだとすぐにわかった」
「そうだったの……」
「嬉しかったよ」
なんとなく悔しくて、つい不満げな顔をする私に彼が笑う。
「久しぶりにあの人に会ってわかったの。意識していたわけではなかったけど……きっと辛くて悔しかっただけじゃなくて、いつかこうやってあの人を見返したいってずっと思ってたんだ、って」
彼の目を見る。
「つまり……いつかまたこうやってあなたの横に立つ日が来ることを、どこかで願ってたってことよね。七年間も」
彼を思い出してしまうアルコール業界から離れなかったのも、きっとそれが理由。
「あなたにこだわって、執着していたのは私の方」
気恥ずかしくて眉を下げて笑う。
「舐めてもらっては困るな。執着なら俺も負けない」
そう言って笑うと、私たちはシャンパンで乾杯した。
「もう絶対に離さないから」
それから、甘く酔いしれるような口づけを交わす。
fin.
その執着は、花をも酔わす 〜別れた御曹司に迫られて〜 ねじまきねずみ @nejinejineznez
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