第4話 解ける

それから、仕事が終わると居酒屋やコンビニなどで今まで以上に熱心にアルコール飲料を研究しては、家で企画書の作成を続けた。

「雪中さん、新商品コンペに出すんだ」

私のデスクの上の募集要項のプリントを見た柳さんに聞かれる。

「ダメ元ですけどね」

「選ばれるといいね」

「はい」

素人だから、選んでもらえたら奇跡って感じだけど。



コンペ参加を勧められてから一か月後。

自分が碇ビールの社員であることにも、彼の秘書であることにも随分と慣れた頃、私はガチガチに緊張した顔でイスに座っていた。

今日が商品企画のプレゼンの日だから。

会議室で商品開発部の部長やチーフに向けて、プレゼンを行う。

次は私の番だ。

小さく深呼吸をする。

「ここ数年はストロング系のアルコール飲料が主流でしたが、ブームは落ち着いて、度数の低いアルコール飲料が流行り始めています——」

企画のプロには当たり前の情報かもしれないけど、それでも精一杯誠実にリサーチしたことを伝える。

「そこで今回、スイーツにも合わせられるような、シードルやスパークリングワインのような感覚のフルーツビールを——」

ターゲット顧客、商品を飲むシチュエーション、それから自分ならこんな展開をする……というキャンペーンの企画も考えてみた。

「私の企画は以上です。ご静聴いただきありがとうございました」

今日の審査を通過したら、重役の審査があるらしい。それを通過してやっと商品開発のテーブルに乗せてもらえる。



それからさらにひと月ほど。

「十八時からの小田牧おだまき様との会食ですが——」

企画コンペのことはひとまず忘れて、日々秘書の業務をこなしている。

「花音、今度改めて食事に付き合ってもらえないか? ゆっくり話がしたい」

真剣な顔で言う彼に、私は首を横に振る。

「名前で呼ぶのはやめてください。私には話はありません」

だけど、就職の件は彼が裏から手を回していたのではないのかもしれない……そう思うようになって、彼との接し方がよくわからなくなってしまった。

〝あのパーティーに彼は来なかった〟

〝あの日、飛行機の便は早められていた〟

信用しそうになっても、辛い記憶は曲げようのない事実だ。



「そこで止めてくれ」

ある日の仕事が終わる頃、彼が運転席に向かって言った。

「え……ここって」

「少しくらい、付き合えるだろ?」

私は首を横に振る。

「今夜は用事が……」

場所を察して、落ち着かずに髪を触る。

「一軒で帰す」

「でも……」

「企画には知識が必要だとわかっただろ? 社長命令の市場調査だ」

昔から、〝NO〟を封じるのが上手くて腹立たしい。

七年振りに訪れたのは、彼と初めて行ったパブだった。

以前と変わらず半地下で仄暗く、私にはよくわからないけどUKロックが流れている。

彼と別れてからは一度も近づくことが無かった。

「グリーンネックIPA」

私は苦味の強いクラフトビールを注文した。彼が注文したのは黒ビールの一種のスタウト。

私はまた、渋々の表情で乾杯をする。今日は美味しくても、口元が緩むのを我慢した。

「そんなに警戒しないでくれないか? 今日はべつに、君と昔の話をするつもりじゃない」

彼は苦笑い。

「ならどうして?」

「君と初めてこの店に来た日のことをよく思い出す」

「やっぱり昔の話」

私は眉を寄せる。彼はまた苦笑い。

「あの時の君は、ビールに興味が無かっただろ?」

確かに〝どれでも同じ〟だと思っていた。

「それをあの日、覆すことができたのが嬉しくて、今でも俺の仕事の指標になっている」

「え? 社長なのに?」

彼は頷く。

「トップに立ったからこそ、立場に胡座をかいて大事なことを見失いたく無いんだ」

「大事なこと?」

「昔の君みたいな、酒はなんでも同じだと思っているような人間を感動させたい。それが俺の仕事の指標。俺の人生で、あの日のビールが一番うまかった。それを伝えたかったんだ。昔の話なんかじゃなくて、今の話だ」

そんなの……私だってそう。

今でもクラフトビールを飲むたびにあの日のことを思い出してしまう。

だけど私たちの最後の記憶があの日なわけじゃないから、私はあなたみたいに笑えない。

「あの日みたいな笑顔を期待したが、やっぱり難しいんだな」

彼の見せるどこか切なげな表情が、また私の胸を締めつける。

「君がこの業界にいてくれて良かった」

「……」

「企画、通るといいな」

「……はい」

自分の感情が、よくわからない。



「え……」

朝一番に全社一斉メールを見て、思わず声が出る。

【新商品企画コンペ 結果】

【最終審査通過:七里香、雪中花音 以上二名】

「嘘……」

「すごいじゃないか、雪中さん。おめでとう!」

秘書室にいた柳さんが祝福してくれる。

「信じられない……」

嬉しい!

もちろん、発売が決定したわけではなく開発が始まるに過ぎない。だけど、スタートラインに立てたことが嬉しい。


「コンペの結果、見たよ。おめでとう」

同行の車中で彼に言われる。

「……ありがとうございます」

彼は嬉しそうに笑っている。

「コンペのこと、教えていただいて……応募を勧めていただいて、ありがとうございました。夢が叶うかもしれないです」

あまりにも嬉しくて、私もつい笑顔を見せてしまった。

彼が一瞬驚いた顔をする。

「……反則だろ」

「え……」

また、目の前が暗くなって、気づいたら唇を奪われていた。

運転席と座席は壁で隔てられているから、誰にも見られることはない。

だけど仕事中で、私は彼を憎んでいる——だけど

「ん……っ」

優しく頬を包み、まるで私の存在をたしかめるように何度も甘い熱を絡めてくる彼を、今日は拒絶する気になれない。

彼のジャケットの袖を掴む。

「——んっ……」

もっと溶け合いたい。

そんな気持ちになりながら、自分に戸惑って目に涙を滲ませる。

「……かわいいな、君は」

そう言って抱き寄せられ、七年ぶりに彼の鼓動の音を聞く。

〝温かくて落ち着く音〟そんな風に思ってしまった。

いい加減、彼ときちんと向き合わなければいけないのかもしれない。

何か誤解があるのかもしれない。

怖さと、もう一度信じてみたい気持ちが同居している。



それから数日後には商品開発部との打ち合わせの場が改めて設けられ、今後のスケジュールや、私が企画にどう関わるのかを話し合った。

一度碇ビールの工場へも足を運ぶことになった。ビールの生産工程についても説明してもらえるらしい。

アルコール業界、それも碇ビールにこんな風に関わることになるとは七年前にはまるで想像していなかった。

そもそもこの業界にいることすら叶わなかったのだから。

気持ちがどうしてもふわふわと浮ついてしまう。



コンペの結果が発表されて十日ほど経った夕方。

私が打ち合わせを終えて社長室に入ろうとドアの前に立った時だった。

中から柳さんの声が聞こえる。

「——雪中さんの企画はたしかに時代のニーズに合っていて、社長が推すのもわかりました」

心臓がドクンと脈打つ。

聞き間違えでなければ、今、〝私の企画を社長が推した〟と言った。

「いや、彼女の企画は誰が見ても中身がいいから俺が推さなくても——」

ノックもせずにドアを開けて、中に入る。

そこには柳さんと彼がいた。

「雪中さん、お疲れ様」

柳さんが笑いかける。

「……今の、どういうことですか?」

「え?」

「私の企画は、あなたが推したから通ったってことですか? 社長のあなたの権限で、実力なんかじゃなくて」

気持ちが一気に温度を失う。

「雪中さん? 何を言ってるんだ?」

柳さんが不思議そうな顔をする。

「贔屓なんて、最低です……」

涙が込み上げてくる。

「実力で評価して欲しかったのに」

『企画、通るといいな』

やっぱりただの罪滅ぼしなの?

贔屓されてはしゃいで、バカみたい。

「雪中さん、君は何か勘違いをしてるよ」

私の様子に、柳さんの声色が戸惑っているのがわかる。

「え……?」

「重役審査の時には資料に名前は掲載されていない。プレゼンも開発部の人間が一次審査の内容をもとに代理で行うんだ。結果が発表されて、初めて君の企画だと知ったんだ」

審査が完全なブラインド形式であるという意味だ。

「じゃあ……」

柳さんはコクリと頷く。

「社長は純粋に、君の企画の内容だけを見て推していたんだよ」

「会社の業績にも関わることを、俺の一存で決めるわけがないだろ?」

「でも……私なんかをいきなり秘書にしたし」

「それは……」

彼は言いかけて、ため息をつく。

「仕方がないが、信用されてないんだな」

ああ、なんだかもう、感情がぐちゃぐちゃでよくわからない。

彼に対しても、自分に対しても。

息が苦しい。

「私……」

謝りたいのに、どうしたらいいのかわからない。

「信用したいのに……」

どうしても過去が邪魔をする。

彼が見かねたようなため息をつく。

「柳、今日この後の俺と彼女の予定は全てキャンセルにさせてもらいたい」

「え!? は、はいっ」

そう言って慌てる柳さんを尻目に、彼は私を自分の車へと引っ張って行った。

「え……どこに行くんですか?」

「君とは、こうやって誤解が生じて来たんだな。俺たちはきちんと話し合うべきだ」

行き先の質問への答えにはなっていない。


気づいたら、見覚えのあるモノトーンの部屋にいた。

彼は私をソファに座らせた。

「君は俺を憎んでいるんだろ?」

恐る恐る頷く。

「七年前、俺が君を置いてアメリカに行ったから?」

また頷く。

「それに……あなたが、パーティーに来なくて——」

この話は、辛くて息が詰まる。

「あなたのお母様にたくさん否定の言葉を浴びせられて」

あの日の言葉を思い出すと、どうしても泣かずには話せない。

「だけどあなたはいなくて」

彼は私の前に跪くようにして、顔を覗き込んだ。

「……パーティーの件は、母に騙されたんだ」

「え……」

彼の口から、初めてあの日のことを聞く。



あの日のパーティーは両親に紹介して、出席者からも公認の婚約者にしてもらうために君を招いた。

だけど、直前になって母が——

『お祖父様の従兄弟の方の体調が思わしくなくて、パーティーは再来週に延期になったのよ』

だが、実際には翌週への延期だった。

まさか嘘をつかれるなんて思いもしなかったから、簡単に信じてしまった。

そして君にも延期と伝えたが、母が手を回して翌週のパーティーに君だけを招待した。

途中で気づいて会場へ行ったが、君はもう帰ってしまった後だった。

『どういうつもりだよ!? 花音を連れ戻すから、彼女に謝れよ』

『成貴、待ちなさい。あなた少しは自分の立場を理解なさい』

『知るかよ』

会場から出て行こうとする俺に、母が声をかけた。

『花音さんのご両親は飲食店を経営しているんでしょ? それに彼女自身もこの業界での就職を希望しているようじゃない』

暗に圧力をかけると言っているのがわかった。

『そんな脅しに意味があると思うのか?』

『成貴、あなた何か勘違いしているようね。今のあなたは私たちの息子である以外に何の力も無いのよ? お父様よりも、私よりも下なの。彼女を守れるなんて思わないことね』

母の言ったことは実際のところ正しかった。あの頃の俺は碇ビールのただの一社員でしかなかったから。

それでも俺は、君と結婚するつもりで翌日君の家を訪ねた。

君の電話が繋がらなかったから。

『花音はパーティーから帰ってからずっと塞ぎ込んでいます』

君のお父さんに言われた。

『お願いだから花音とは別れてください。家柄があまりにも違いすぎて、あの子が幸せになれるとは思えません』



「知らない……そんな話」

初めて聞く話に、心臓がバクバクと音を立てる。

「母からは俺がアメリカに行くことを条件に、君の実家の店の存続と君のアルコール業界への就職を約束すると言われた」

「え……」

彼は頷く。

「それも嘘だったんだと、この間初めて知った。君の実家には害が無いと思ったようだが、君がこの業界にいて、また俺に会う可能性があるのが許せなかったんだろう」

「で、でも……飛行機、早く出て」

「君は、俺の飛行機の便がもっと遅い時間だと思っていたのか」

今度は私が頷く。

「辛くても、もう一度会いたかったから……」

〝帰りを待っていさせて〟って言いたかった。

「父に付き添ってもらって空港に行ったの、なのに」

彼が重々しいため息をつく。

「俺はあの時、どうしても君を諦めたくなくて君のお父さんに飛行機の便を伝えた」

『花音さんが、自分の意思で〝見送りにすら来たくない〟と言うなら諦めます』

「じゃあ……」

父が、嘘をついたんだ。

その後ろめたさで、父はずっと碇ビールと契約していたのかもしれない。

「君のお父さんの親心を理解できないわけじゃない」

彼は困ったように眉を下げて笑う。

「こ、婚約者の人は?」

「たしかに相手は留学という名目でアメリカに来ていたが、結婚は無理だと断った。母には、結婚しても問題を起こして家同士の揉め事にする、と言った」

彼が私の手を握る。

「俺は、君を手放して海外に行ったことをずっと後悔していた。君が他の男のものになることを想像するたび吐き気がした」

「……」

「だから、日本に帰ってすぐに君を探したんだ。だけど、どの会社の企画開発にも他の部署にも君の名前は無いし、実家にも住んでいないようで」

「アルコールの会社で働いてるって碇の家に気づかれたくなくて、外に出ない仕事をしていたし……市外に引っ越して、古い知り合いには誰にも今の住所は教えてないから」

碇の家の人が、誰からも私に辿り着けないように。

「見つからないわけだよな」

彼が私の手を自分の頬に当てる。

「だけど今、君はこうしてここにいる」

彼は私を見つめる。彼の頬の温もりが伝わる。

「七年間必死で働いて、碇ビールの社長になった。君を迎えに来るために」

心臓が先ほどまでとは違う音を奏で始める。

「今度こそ、ちゃんと君を守れるようになっているはずだ」

彼が私の手に口づける。

「結婚しよう、花音。再会して確信した。誰に反対されても、君のいない人生は考えられない」

「……」

「花音?」

七年分の涙が溢れてしまって、喉が熱くて、上手く言葉が出てこない。

それでも気持ちを伝えたくてコクコクと、必死に頷く。

「あなたが……すき……」

〝もう一度私を見つけてくれて、ありがとう〟

彼が私を抱きしめる。

それから、目元や頬に優しいキスをくれた。


彼に抱え上げられて、ベッドに運ばれる。

「ずっと触れたくてたまらなかった」

彼が私の頬を指で撫でながら言う。

ブラウスのボタンが一つ一つ外され、彼が胸元に唇を落とす。

身体がピクっと反応してしまう。

「変わらないな」

クスッと笑われる。

「……恥ずかしい」

困ったように眉を寄せる。

「かわいいよ」

唇を塞ぐように口づけられて、彼の大きな手に、身体のラインをなぞられる。

「ん……っ」

「花音、かわいい」

ときどき見つめ合いながら、何度も何度も舌を絡める。

漏れるのがどちらの吐息なのかわからなくなる。

「……あっ」

彼の長い指が身体の奥を刺激して、それに呼応するように身体が疼く。

「……っ」

朦朧とした意識で、彼の身体に必死にしがみついた。

「あぁっ……あ……んんっ」

意識がさらに遠のく。

身体が熱を持ったようにボーッとしている。

全身が痺れているみたいに。

彼が、私の額に触れるような優しいキスをくれた。

「花音、昔みたいに、名前を呼んでくれないか?」

耳元で囁かれる。

「……成貴さん」

口づけられて、また涙が出る。

絡められた指すら遠くに感じてはがゆい。

「成貴さん……好き、もっと、もっと近くで感じたい」

少しも離れていたくない。

「花音」

甘い熱が、身体の奥で混ざり合う。


ベッドの中で抱き寄せられて、髪を撫でられる。

気恥ずかしいけど嬉しくて、身体をギュッとくっつける。

「俺と結婚するということは、碇の人間に会わなくてはいけない」

「はい」

あの人の顔が浮かんで、胸が軋む。

「だが、もしも花音が辛いなら……」

「大丈夫です。あなたが隣にいてくれたら」

あの頃とは違う。


「私だって七年間、ずっと子どもみたいに泣いていたわけじゃないから」

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