第3話 酩酊

その知らせは一週間後にもたらされた。

「碇ビールの傘下? なんで急に……」

営業部長の声とともに社員がどよめく。

本社と工場合わせて従業員百名程度のスーシブルーイング。

月曜の朝礼で、社長自ら碇ビールに買収されることと自身の退任を発表した。

あまりにも突然で、営業部長以外の社員も同じことを声に出しそうになっていた。

「正式にはひと月後になるが、希望者は全員そのまま雇用となるので安心してください」

雇用が継続されても業務内容まで全てそのままというわけにはいかないわけで、社内にはそれなりに困惑の声があった。だけど結局、国内最大手の碇ビールの傘下に入ることは大抵の社員にとってはメリットしかない。

私だけは、みんなとは違うであろう戸惑いで眩暈がしていた。

だってこれは、どう考えても……。


『それなら、別の方法で返してもらおうか。君の身体で』



一か月後。

【雪中花音殿 総務部秘書課勤務を命じます】

碇ビールの本社に呼び出された私は、辞令を前に唖然としていた。

呼び出されたのは社長室で、目の前の重厚なデスクの向こうには碇成貴が満足げな笑みを浮かべて座っている。

「無理です。秘書の経験も無いのに、こんなに大きな会社の社長秘書だなんて。誰がどう見ても非常識な人事です」

目の前の人物を見ながら、髪を耳にかけて冷静ぶって拒否の言葉を口にする。

彼はたったの七年で碇ビールの社長になっていた。そしてあろうことか、私を自分付きの秘書にしようとしている。

「営業事務として優秀だったと聞いている。秘書の業務も似たようなものだ、君ならすぐに仕事を覚えられるだろう」

零細企業の営業事務と大企業の社長秘書が〝似たようなもの〟のはずがない。

「だいたい、今までの秘書の方は?」

「君の補佐にまわってもらう」

「それって実質私は必要無いってことじゃないですか」

拒否の姿勢を示す私に、彼は面倒そうにため息をつく。

「なら、前任の秘書に辞めてもらえばいいのか?」

「そんな必要無いです。私が辞めますから」

こちらも呆れたため息をつきながら言った。

「それは構わないが——」

彼はまた冷たく笑う。

「君が辞めたらスーシの社員は全員クビだ」

「え……」

「当たり前だろ? 君を雇うためにスーシを買収したんだ」

どうして?

「なんで今さら、私なんかにこだわるの?」

「今さら……か」

彼は一瞬、言葉を選ぶように沈黙した。

「……これでも君を忘れたことなどないんだがな」

「そんなの嘘」

「嘘?」

「……だってあなたは、婚約者と一緒にアメリカに行ったじゃない」

そうよ。私を置いて。

「結婚したんじゃないんですか?」

「結婚はしていない。一度も」

結婚しなかった?

本当にどうして? さっぱりわからない。

「だからって、どうして会社の買収なんて……」

私がどんな思いでスーシに入ったのか、あなたは知らない。

「私の大切な場所だったのに」

「大切だと思うのは勝手だが、あの社長の杜撰な経営ではもってあと数か月だっただろうな」

「え……」


スーシに戻って経理のスタッフにこっそり聞いてみたら、その通りの経営状況だったのだと教えてくれた。

開発職出身の職人気質の社長は、新製品の開発に毎回のように採算度外視で資金を投入してしまっていたようだ。

変わり種のクラフトビールが売りの会社だったことが、その体質を余計に煽ってしまっていたらしい。

だけどそういうメーカーならではの大手とは違う商品開発のノウハウが、碇にとってのメリットともいえるのかもしれない。

〝私が辞めれば全員クビ〟というのは横暴でしかないけど、どちらにしろ数か月で全員職を失っていたのであれば……助けられたということ?


「雪中さん」

廊下で海棠さんに声をかけられる。あの日からいろいろありすぎて、彼とゆっくり話す時間も無かった。

「碇の社長秘書になるんだって?」

「……はい」

「変なこと聞くけど、碇社長と前から知り合いなの?」

「え?」

「少し前に呼び出されたんだ、碇社長から直接。君の仕事ぶりを知りたいって」

海棠さん付きの営業事務だったのだから、彼に私のことを聞くのは当然だけど……交際を申し込まれた相手なだけに、なんとなく気まずさを覚える。

「昔のちょっとした知り合いなんです」

「ひょっとして、君の忘れられない人?」

私の表情が変わったのか、海棠さんが困ったように笑う。

「〝嫌な思い出〟なんて言ってたけど、そんな風に思っているようには見えないよ」

私は首を横に振る。

「嫌な思い出ですよ。向こうからしたら、思い出ですらないでしょうけど」

「そんな風には見えなかったけどな。なんか俺、嫉妬されてるのかなって感じだったし。振られたっていうのにね」

私たちのことを知らないからそう思うのよ。

どういうつもりかわからないけど、きっと古い玩具を思い出したような気まぐれでしかない。



スーシが買収され、私が嫌々ながらも社長秘書になって一か月後。

「来週月曜の石蕗つわぶき様と打ち合わせですが、先方の都合で十四時に変更になりました」

彼の言っていたように、私がもともとやってきた仕事と社長秘書の業務は根幹が似ていた。

「支社のベルドゥジュール様から、WEB会議の件で日時調整の希望が来ています。現地時間で——」

顧客名を覚えるなどの苦労を除けば、予想していたよりすんなりと馴染んでしまった。

そして彼も仕事中に昔の話を持ち出すなんてこともなく、毎日普通に仕事ができていて、はっきり言って拍子抜けしていた。


だからこの日は、唐突な質問に驚いた。

「君のご両親は元気にしているのか?」

碇ビール本社のエレベーターで背中を向けた彼に言われる。

「……元気ですよ。店もそのまま。変えて欲しいって言ってもずっと碇ビールと取引してます」

「そうか」

急に何の確認? まさか店に来るつもり?

「秘書としての君は優秀らしいな。やなぎが言っていた」

柳さんは、私の補佐をしてくれている男性の上司だ。

「スケジュールの調整も、電話やメールの対応も完璧だと褒めていたよ。君を指名して良かった」

「……ありがとうございます」

「だけど正直意外だった」

「え?」

「君は企画か開発の仕事に就いていると思っていた」

そう言われて、心臓が息苦しそうにドクンと脈打った。

「あの頃……『アルコール飲料の商品企画がしたい』と言っていたよな」

心臓がますます息苦しい音を鳴らす。

「なぜ企画職に就かなかった?」

「……」

無言の私に、彼が振り向く。

「……『なぜ』って、それをあなたが言うの?」

「え?」

「企画職で内定が出ていたのを……邪魔した張本人のくせに」

思わず声が震える。

「何の話だ?」

私の目からは悔し涙が溢れる寸前だ。

「企画どころか、アルコール業界から締め出したくせに! 私がやっと手に入れた大切な仕事まで都合良く取り上げておいて」

『なぜ』なんて、無神経にもほどかある。

「締め出した?」

彼の目が、見たことの無い動揺の色を見せた。

「もしかして、軽いイタズラくらいの気持ちでした? だから忘れられるんですね。ひとの夢を奪っておいて」

「花音、俺は——」

彼が何かを言おうとしたタイミングでエレベーターが目的の階に着いて、私たちは社長と秘書に戻った。



七年前。大学四年の私は就職活動をしていた。

『どうしてですか? 一度は内定をいただけたのに』

『すみません、こちらも事情が変わりまして』

『そんな、せめて理由を——』

私はアルコール飲料メーカーへの就職を希望していた。

だけど、面接当日に来なくて良いと言われたり、急に内定取消になるという不可解なことが続いた。

でも、しばらくして理解した。

『うちだって、碇とは揉めたくないんですよ』

〝碇家の不興を買った存在〟として、業界で情報が出回ってしまっていたんだ、と。

彼がアメリカに行ってもなお、私は許されていなかった。


仕方がないから別の業界に就職して二年が経った頃。

『新しいメーカーさん?』

『ああ。スーシブルーイングさんといって、クラフトビールをメインにしているそうだ』

父の店にスーシの専務が営業に来ていた。

クラフトビールと聞いて、真っ先に彼のことを思い出してしまう自分が嫌だった。

『専務さんがわざわざ営業に回られているんですね』

『専務といっても小さな会社ですから。まだ立ち上げたばかりで人手も足りなくて』

その言葉と、うちに営業に来ていたのを見て〝もしかしたら〟と思った。

〝碇の息のかかっていない新興メーカーでなら、働けるのかもしれない〟って。

読みが当たって、スーシでは私のことは知られていなかった。

無事就職できたから、営業事務として決して外に出ず、目立たずに働いてきた。大好きなアルコールの業界で。

スーシは、私のそういう大切な場所だった。



「これ、新商品ですか?」

エレベーターの一件から数日が経ったある日、出社すると秘書室の柳さんのデスクにノンアルコールビールの瓶が置かれていた。ラベルがくすみ系のパステルカラーでかわいい。

「ああ。来週からテスト販売を開始するから、その前に社内でも試飲して欲しいって言われて」

柳さんはメガネをかけた穏やかな顔立ちの三十代。

「ノンアルだから仕事中でも飲めますね」

とはいえ、実際には終業間際まで飲んではいけないことになっている。

「雪中さんはアルコールが入っていた方が嬉しいんでしょ?」

「はい、まあ」

「えへへ」と笑う。

「でも最近はノンアルとか、弱めのお酒の市場規模が拡大してますよね」

「ガチャッ」とドアが開く。

「柳、悪いんだが——」

「だから私だったら弱めのビールの企画で——」

ついはしゃいで喋っているところに、会いたくない人が現れてテンションが下がる。お喋りをピタッとやめてしまう。

あの日以来、彼とはますます気まずくなって、業務以外の話は全くしていない。

「柳、この件の断りの連絡を入れておいてくれ」

ものすごく不機嫌そうな声。とばっちりを受けた柳さんに申し訳ない。

そして、この後彼と取引先へ同行しなければいけない自分自身も可哀想。


取引先への車中。

社長専用の高級車の後部座席に隣り合って座っているけど、彼は不機嫌そうに手元のタブレットを見ている。

だけど私は何も悪いことなんてしていない。窓の外を見ながら、思わず小さなため息を漏らす。

「……柳には笑うんだな」

不機嫌そうなままそんなことをつぶやくので、思わず顔を彼の方に向けてしまった。

「当たり前じゃないですか? 柳さんは親切ですから」

「上司が親切なのは業務上当然だろ?」

「あなたも一応上司ですけど? 親切だったことなんてありました?」

この性格は、つい火に油を注いでしまう。

「まさか部下に嫉妬してるんですか?」

彼が「はあっ」と大きなため息をつく。

自惚れたような発言に、さすがに呆れられてしまったのだと思った。

「するに決まっているだろ?」

そう言って、彼が私を見つめる。

「再会してから、俺は一度も君の笑顔を見ていないんだから」

切なげに眉を寄せる彼の表情に、胸がキュ……と小さく鳴いてしまう。

だけど七年前のことを思い出すと、どうしても彼に笑いかけたりはできない。

しばらく沈黙したまま私が困惑した表情をしていると、彼はまたため息をついた。そして、視線をタブレットに戻す。

「これ」

彼が私に画面を見せる。

「『新商品企画コンペ』……?」

彼が頷く。

「うちの会社は、商品開発部とは別に社内の誰でも応募できる企画コンペを定期的に開催している」

さすが大企業。

「作りたい商品があるなら、これに応募してみるといい」

「え……」

「さっき、何か言いかけていただろ?」

聞かれてたんだ。でも……。

「何ですか? 七年前の罪滅ぼしのつもりですか?」

私の夢をめちゃくちゃにしたことが、こんなことで許されるはずがない。

「信じてもらえないかもしれないが——」

彼がまた私を見つめる。

「俺は、七年前の君の邪魔はしていない。そんなことになっていたとは知らなかったんだ」

「え……?」

「あの頃も言っていたはずだ、『君には企画のセンスがある。企画職を目指すといい』と」

たしかにこの人はそう言っていた。だからこそ、邪魔をされたのが余計に悔しいと思っていた。

彼の言葉を信じていいのかわからず思わず顔を背けて、それからは彼の方を見られなくなってしまった。だけどその車中ではずっと、見つめられていた気がする。

車の揺れと彼の視線の熱で、酩酊したような感覚に陥る。

心臓が、自分でもよくわからないリズムを刻んでいる。



『んっ——あ……』

『花音』

『見ちゃ……だめ』

『なぜ? こんなにきれいなのに』

『だって——ぁんっ』

九年前、初めて身体を重ねてから、私たちは会うたびに互いの体温を感じ合った。それくらい求め合っていたから。

もちろん付き合ってしばらくした頃には、私もさすがに彼が碇の御曹司だということには気づいていた。

だから、いつかどこかで別れが来るんだという覚悟ができているつもりだった。


『え……?』

付き合って一年以上が経った頃。

ただの大学生だった私には不釣り合いなホテルの高層階で、彼と夜景を見ていた時だった。

『だから、結婚して欲しいんだ。俺と』

彼の手には小さな箱に入った指輪が輝いている。

『……でも、成貴さんの家は——』

私なんかじゃダメだって、いくら子どもでもわかってた。

『もちろん、婚約したからってすぐに結婚できるわけではないと思う。だけど、俺がちゃんと誰からも認められるくらいの立場になって両親を説得する。花音のことは俺が守るし、大事にするから』

まっすぐ目を見て言われたその言葉を、そのまま信じた。

『嬉しい』

あんなに嬉しくて澄んだ涙を流したのは、後にも先にもあの日だけだった。

だけど、彼にプロポーズされたことを父と母に伝えたら……

『よく考えた方がいい』

『どうして? 幸せにしてくれるって約束してくれたし、今だってすごく大事にしてくれてるよ?』

父も母も困った顔をしていた。

『いい? 花音。結婚というのは二人だけのことじゃないのよ。お父さんとお母さんが結婚する時でさえ、親族を巻き込んだ大きな出来事だったの。それを碇の御曹司と、だなんて。家柄があまりにも不釣り合いよ』

『お前が苦しむのが目に見えてるのに、首を縦には振れない』

『二人で頑張ればなんとかなるよ』

『花音!』

次の日、彼にそのことを伝えた。

『そうか、大事な一人娘だもんな。ご両親の気持ちもわかるよ』

そう言った彼が結婚を諦めてしまうのかと、私は表情を曇らせた。

『ゆっくり説得していこう。花音だって就職して、仕事に慣れてからの方がいいだろうし』

彼がそう言ってくれたから、私は満面の笑みを浮かべた。

『花音は企画の仕事を探すんだろ?』

『うん、そのつもり』

『碇を受けたらいいんじゃないか?』

『さすがにそれは……』

早く自立した大人になりたかったから、彼の力を借りるようなことはしたくなかった。

それでも、彼に出会って好きになったお酒に関わる仕事をして、将来は彼の役に立ちたいとも思っていた。



「うーん……」

家に帰った私は、スマホで碇ビールの社員用サイトとにらめっこしていた。

彼に見せられたコンペのページを、もう一時間以上も眺め続けている。

ずっと憧れていた商品企画。

スーシでもそういう機会が無かったわけではないけど、とにかく日陰の身のように目立たないようにしていたから、企画に参加することも避けていた。

ましてや碇ビールほどの大手の商品だなんて、選ばれたら一気に夢が叶ってしまう。

「企画書なんて書いたことないし、企画のプレゼンなんかもしたことがないけど」

募集要項には『企画の内容(斬新さや時代性など)を最重要ポイントとして審査する』とある。

つまり、素人にもチャンスがあるということだ。

『君には企画のセンスがある。企画職を目指すといい』

「……ま、参加するのはタダだし」

挑戦してみようと決めた。



『わかったでしょう? あなたでは、碇の嫁は務まりません』

昔のことを思い出してしまったせいか、その夜は最も思い出したくない記憶を夢に見た。

『でも、成貴さんは……』

『成貴は納得してくれました。現にこの場に来ていないでしょう? あの子には、相応しい家柄の許嫁がいるんです』

『でも……』

『家柄も弁えず、礼儀作法の一つも身に付けていないあなたの出る幕は無いんです。わかったらお帰りください』

七年前のパーティーの記憶。

碇の家が主催しているパーティーに、彼と一緒に出席するはずだった。

だけど当日、彼は会場にいなくて、彼のお母様は私だけでなく会ったこともない父と母までひどく罵った。

他人からあんなに自分を否定されたのは生まれて初めてだった。存在そのものを蔑まれるような言葉。

だけど、言い返せるような武器が私には一つも無かった。


あの人に会ったら、また同じことを言われるの?

あんな風に誰かに否定されたくはない。

あの日、どうしてあなたは来てくれなかったの?


目を覚ますと、涙の流れた跡があるのがわかった。

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