第2話 碇ビール


「はぁ……」

昼過ぎ、自宅マンションに帰って玄関のドアにもたれてため息をつく。

まだ心臓がドキドキしてる。だって現実味が無さすぎる。



『〝また始める〟って、何を言っているんですか?』

組み敷かれたまま、精一杯の虚勢で彼を睨む。

『何って』

彼が顔を近づけて、またキスをしようとしている気配を察知する。必死に手首を振りほどいて、上体を起こし、彼の唇を手で塞ぐ。

彼がムッとしたのが、目元だけでわかる。

『もしも……やり直すっていう意味なら、無理です』

『なぜ?』

彼は私の手を掴んで顔から離す。

『なぜって……』

終わらせたのはそっちでしょ?

それにもう、あんな思いはしたくない。

そしてそれは、この人が碇成貴である限りは避けられない。

『わ、私、結婚したんです』

嘘でもなんでもいいから、この場から早く去りたい。

『指輪が見当たらないが?』

『結婚指輪はしない主義です』

髪を耳にかけながら答える。

『へえ』

彼が静かに笑う。

『昨日の飲み屋では〝ユキ〟と名字で呼ばれているようだったが』

『……結婚前から通ってるのよ』

つい、目を逸らす。

『仕事も旧姓のまま、か』

『え……』

『保険証も名義変更をしていないのか?』

『見たんですか!? ひとのカバンの中身』

名刺や財布の中身を見られたことに、私は抗議というより非難するように言った。

『医者に診せてから家に送るつもりだったからな。住所がわかるものは何も無かったから、うちに連れて来た』

それは確かに荷物を漁る正当な理由……。そしてここはこの人の家か。

『君が眠っている間にうちの主治医に見せたから大事は無いと思う。睡眠薬の類を口にしたようだ』

何気なく口にした〝うちの主治医〟という言葉に、彼の後ろにある家柄を感じる。

私は小さくため息をつく。

『それは……ありがとうございます。でも、もう帰りますから』

『結婚なんて嘘なんだろ?』

『……』

『花音』

彼が私の髪に触れる。肌には触れられていないのに、怖いくらい全身が熱くなる。

『……結婚はしてないけど、お付き合いしてる人はいます』

海棠さんの顔を思い浮かべながら、彼の目を見る。

ほつれた髪をまた、耳にかける。

『結婚……も、考えています』

『……』

今度はどうやら信じてくれたようで、彼はため息をつきながら私を自由にしてくれた。

私はベッドから降りてさっと身だしなみを整え、カバンを手にする。

『送るよ』

彼の提案に、首を横に振る。

『自分で帰れますからっ』

急いで寝室を出ようとドアに向かう。

ドアノブに手をかけたところで、また肩を掴まれて振り向かされる。と同時に、ドアに背中を押しつけられて目の前が暗くなる。

一瞬にして熱と吐息が強引に混ざり合わされて、全身が彼を求めてしまうのがわかる。

『——んっふ……ぁ』

応えたい衝動に流されそうになる。

『——やっ……』

小さく拒絶の声を漏らすと、彼は私の呼吸を解放する。

『付き合ってる人がいるって——』

『関係ない』

『え……』

『結婚してるわけじゃないんだろ? いや、結婚していても関係ないな』

陰になった彼の瞳が妖艶に光って、口角も不敵に上がる。

『君を見つけ出したら、今度こそ手に入れて離さないと決めていたんだ。相手がいるなら奪うまでだ』

『……勝手なこと、言わないで!』

私が七年前にどんな思いをしたか、あなたはわかってない。



なんとか彼を振り払って帰っては来たけど……。

強引なところは変わってないけど、昔よりもずっと凛々しくて、大人の男性って感じになってた。

思わず唇に指で触れる。


『君を見つけ出したら、今度こそ手に入れて離さないと決めていたんだ。相手がいるなら奪うまでだ』


自分から手放したくせに、勝手すぎる。

「……」

気づいたら、頬を生暖かいものが伝っていた。拭っても拭っても溢れてくる。喉の奥が熱くて苦しい。

「……ふっ——っ」

二度と会いたくなかったのに。

『花音』

二度と呼ばれないと思っていたのに。



翌日曜日、十七時三十分。

私は開店直後でまだお客のいないツワモノ家を訪ねた。

「こんばんはー……」

なんとなく、恐る恐る覗くように顔を出す。

「ユキちゃん!」

マスターがカウンターから出てきて私をぎゅっと抱きしめる。

「金曜はお騒がせしちゃってごめんなさい」

「もー! 何言ってるのよ! ユキちゃんは被害者なのよ! 身体、なんともない?」

私はコクっと頷く。

「それにしても、あの時あのお客さんがいて良かったわね」

彼のことを言っているのはすぐにわかる。私はなんとなく「はい」とも「いいえ」とも言えない微妙な顔をしてしまう。

「あのお客さんが、残ってるチョコを警察に持って行くって言ってくれて、あの後すぐにうちにも警察が来たの。ユキちゃんのことも病院に連れて行ってくれたんでしょ? 行動が的確で素早いわね」

医者には診てもらえたけど、病院には行ってないんだよね。なんて言えないけど。

「ユキちゃんのこと名前で呼んでたけど、どういう関係?」

質問されてつい、答えにためらってしまう。

「昔の……ちょっとした知り合いなの」

「ふーん……そっか」

さすが客商売をしているだけあって、マスターはそれ以上詮索しないでくれた。

「このあたりで似たような事件が何件かあったみたいだから、あの二人はそのうち捕まると思う。油断してたわ」

「このお店、持ち込み禁止になってしまうんですか?」

「んー……こういうことがあるとどうしてもね」

もちろん被害者として怖い気持ちもあるけど、こうやって楽しい場が萎縮してしまうのは悲しい。ついシュンと肩を落としてしまう。

「まあでも、〝一〇〇パーセント持ち込み禁止〟にはしない方向で考えてみるから」

それを聞いて少しだけホッとした。

「じゃあまた」

ツワモノ家を出たタイミングで、スマートフォンが「ヴー……ヴー……」と着信を知らせる。

画面には知らない番号が表示されている。

「はい……?」

『花音?』

その声に、全身の神経が一気に耳に集中するような感覚を覚える。

「なんで番号……」

カバンの中身を見られているんだから、当然スマホも見られたんだ。指紋認証も顔認証も、眠りこけている持ち主を前にしたらセキュリティの意味を成さないことが証明された。

なんだかバカらしくなって、非難の言葉を飲み込んでため息をつく。

「何ですか?」

『今夜、食事でもどうかと思って』

「お断りします」

即座に電話を切る。

こういうとき、会話を続けて向こうのペースに飲まれたら終わり。

「随分だな」

突然頭上から声がして肩がビクッと上下する。

振り向いて見上げれば、当然想像通りの人物。

「どうして」

「君のことだ、自分が悪いわけでもないのに店に謝罪に来るだろうと思った。できるだけ早いタイミングで」

読まれてる……に、しても。

「私が来なかったら……来たとしても、もっと遅かったらどうしたんですか?」

「君は来るし、何時間でも待つつもりだった」

「……ヒマなの?」

呆れたように言ってしまう。今の彼の立場がどういうものなのかは知らないけど、ヒマなはずがない。

「待った時間が長いほど、君は食事を断れなくなるだろ?」

私は待ち時間なんて関係なく、こうやって誰かに待たれたりすると情に流されてしまいがちな人間だ。自分が嫌になる悪い癖。

「何が食べたい?」



十八時三十分。

「ひさびさなんだから、もっと高級な店に連れて行きたかった」

大衆的な焼肉屋で七輪の向こうの彼が不満を漏らす。

「念押しで言っておきますけど、ここ、割り勘ですからね」

私はメニューを見ながら愛想無く言う。彼に借りを作るのは避けたい。

「まあでもこういうのも懐かしくていいよな」

私の言葉を聞いているんだかいないんだか、笑顔で見つめられて反射的にドキッとしてしまう。

わざと高級ブランドのスーツに不釣り合いな焼肉屋を選んだのに、ジャケットを脱いで座っているだけで結局絵になってしまうのがずるい。品格っていうのは、何気ないときほど滲み出てしまうものなんだ。

「……」

「少しは会話を楽しんでくれないか」

「……」

彼は「やれやれ」とため息をついた。

ひどい別れ方をしたのに会話を楽しめなんてどうかしてる。やっぱり来るんじゃなかった。

「へえ、スーシブルーイングのビールがあるんだな。それでこの店なのか?」

「勝手に見た名刺の情報を当たり前のように話題に出さないでください」

「何がおすすめ?」

本当に自分勝手。

「わざわざうちみたいなマイナーメーカーのビールなんか飲まなくても、自社のビールを飲んだらいいんじゃないですか?」

店内の至る所で『IKARIビール』と書かれたポスターや瓶、樽が目に留まる。

「あいにく君ほど愛社精神を持ってはいないんでね。それに、新進メーカーのクラフトビールの方が勉強になる」

彼の家は国内最大手の『碇ビール』などを経営する碇ホールディングスの創業家だ。後継ぎの彼自身は最後に会った時は二十七歳で碇ビールの営業部長だったと思うけど、今はきっともっと上の立場になっているはず。

愛社精神が無いなんて言っているけど『勉強になる』はきっと本音で、彼は昔からこういうときも市場調査を欠かさなかった。ツワモノ家へ行ったのも、きっと市場調査の一環だ。

渋々おすすめのビールを教えて、渋々乾杯をする。

相手に不満があっても、渋々でも、焼肉にアルコールは相性最高で、つい口元が綻んでしまう。

「相変わらず、うまそうに飲むな」

笑顔で言われる〝相変わらず〟という言葉に腹が立つ。

「中身はいろいろと変わりましたよ。もうあの頃の私じゃないです」

世間知らずな学生だった私とは違う。

「へぇ、それは——」

ビールを口にした彼が私を見据える。

「知るのが楽しみだ」

妖艶に笑われ、少しだけゾクッとする。

今の私をあなたに見せる気なんてない。

「ところで」

彼の口調がどことなく冷たく乾いたものになる。

「君に睡眠薬を盛った連中だが」

『あの二人はそのうち捕まると思う』ってマスターが言っていた。その話?

「今しがた、うちの者から捕まえたと連絡があった」

「え……」

「このまま警察に引き渡してもいいんだが、それでは俺の気が収まらない。他の誰でもない、君を傷つけたんだからな」

声のトーンがものすごく冷ややかだ。

「花音はどうしたい?」

「どうしたいって……?」

「たとえば、東京湾に沈めるとか」

「……」

あまりにも冷淡な言い方に、先ほどとは比べ物にならないくらいにゾクッとして思わず顔がひきつったのが自分でもわかる。

「冗談に決まってるだろ? そんな顔するなよ」

彼はイタズラっぽく笑っているようで、目は笑っていない。本当に冗談なのかと疑ってしまう。

「普通に……警察に引き渡してくれたらそれでいいです。だいたい私を傷つけたって言うなら……」

「ん?」

〝一番海底に沈むべきなのはあなたなんじゃないの?〟って言いたいけど。

「何でもないです」

そう、昔から瞳に少し冷たい空気を孕んでいる人だった。



九年前。

二十歳の私は大学に通いながら、夜は両親が経営しているバルでアルバイトという名のお手伝いをしていた。

『何度来ていただいても、うちはロベリアビールさんとのお付き合いがあるので』

あの頃はよく、父がアルコールの営業を断る姿を見かけた。

『すぐにロベリアさんとの付き合いをやめてくれと言っているわけではありません』

その営業さんは若くて、ひたむきで、ずっと父の目を見て話すような男性だった。

『試しにひと月だけでも弊社のビールをロベリアさんと並行して取り扱っていただけませんか?』

その人の会社、碇ビールとロベリアビールは商品の仕入れ価格が全然違って、うちがロベリアから切り替えるメリットなんてはっきり言って無かった。

だけど私はロベリアの営業さんが嫌いだった。歳は二十代後半くらいの人だったと思う。

『仕事中ですから。鞘元さやもとさんだってお仕事じゃないんですか?』

『俺はもう終わるよ。待ってるからさ、たまには飲みに付き合ってよ』

夕方、店の裏で開店の準備をしている私にいつもこうやって絡んできたから。

『花音ちゃんのためにうちの酒、安く卸してるんだよ?』

〝頼んでない〟って言いたいけど、店のことを考えると無碍にもできない。

面倒だなと思いながら、髪を耳にかける。

『すみません、仕事の後も忙しいので。また今度誘ってください』

私が彼を適当にあしらってため息をついたとき、通りがかった碇ビールの営業さんと目が合った。

『なんか、マズいもの見ちゃったって気がするけど』

『……べつに、私が頼んだことじゃないですし』

『でも、ああいうのは良くないんじゃないか? 君、この店のオーナーの娘さんだろ? お父さんは知っているのか?』

彼の質問に、私は首を横に振る。

『困ってないし、お店にはメリットがあるので』

『困ってないようには見えなかったけど』

『いいんです、べつに。そのうち一回くらい食事に付き合って濁しておくので』

『あんまり男を舐めない方がいい』

冷めた顔で笑われたことに〝子どもだな〟と言われたようで無性に腹が立ってムッとしてしまう。

『それに、そんな理由でうちが取引できないっていうのも腹立たしいしな』

それを言われてしまうとバツが悪い。

『ビールって嫌いじゃないけど、どこのも変わらないでしょ? なら安い方がいいに決まってるじゃないですか』

私の発言に、彼はため息をつく。

『ビールが嫌いじゃないならその考えはもったいないな』

『でも』

『何時に終わる?』

『え?』

『バイト』

鞘元さんに言ったみたいに〝仕事の後も忙しいので〟って答えるはずだったのに。


二十一時

『ペールエールとかピルスナーあたりが飲みやすいかな』

半地下になった仄暗い立ち飲みのパブで、クラフトビールのメニューを見せながら彼が言う。仕事が終わってからどこかで待っていてくれたのか、スーツのままだ。

『ていうか、〝男を舐めるな〟じゃなかったんですか? 飲みに連れ出したりして』

のこのこついてくる方もついてくる方だけど。

彼は『ははっ』と笑って身分証として名刺を差し出した。

『碇ビールの碇さん……?』

歳は二十五歳だと教えてくれた。

『覚えやすいだろ? だから入社できたのかな』

あくまでも一般社員だという彼の言葉をすんなり信じてしまうくらいには子どもだった。

『おいしいっ!』

初めて飲んだクラフトビールは、それまで飲んでいた缶ビールとも店のロベリアビールとも口に広がる風味が全く違った。

『酒が好きそうだし、慣れてきたらスタウトやラオホなんかも飲んでみるといい』

満足げな顔。

たしかにおいしくて、新しい扉を開いてもらった気はするけど……。

『クラフトビールじゃ、碇さんの会社の売り込みにはならないんじゃない?』

『いいんだよ、べつに。ビールもいろいろあるって伝われば』

『ふーん……』

その夜はビールを二杯だけ飲んだところで解散になって、碇さんがタクシーを手配してくれた。

『すみません、あそこのコンビニに寄ってもらえます?』

家に帰った私の目の前には、ロベリアビールと碇ビールの缶が並んでいた。

それぞれを開けて、わざわざグラスに注いで飲み比べる。

『ふーん』


翌日。

『うちのビールって碇ビールに変えられないの?』

『急にどうした?』

店の開店準備中に、私が急に言い出したから父は驚いていた。

『飲み比べたら、碇の方がおいしい気がしたの』

『だけど仕入れ値がなぁ……』

『おいしいお酒の方が注文が増えて、結果的に利益になるんじゃない?』

私の提案で、翌週から試しに碇も並行して扱うようになった。

『なんで碇も取り扱ってるわけ?』

例のごとく、鞘元さんが私に絡んでくる。

『うちのサービス向上のためなんじゃないですか?』

開店準備をしながら知らないフリをして無愛想に答える。

『それはルール違反だよね。花音ちゃんのために安くしてるんだから、お父さんに言ってくれないと』

私は思わず『はぁっ』と深いため息をついた。

『……ダサすぎ』

『え?』

『ルールとか言われても、誰も頼んでないし! 私なんかに媚びてないで、味で勝負できるもの持って来ればいいだけでしょ!?』

イラッとして思わず厳しい口調で言ってしまう。

彼は面食らった顔でしばらく呆然としていた。

『……ガキが調子乗ってんじゃねーよ』

そう言って彼が右手を振り上げるのが見えて、思わず肩をすくめて目を瞑った。……けど、何も起こらなくて目を開ける。

『さすがにマズいんじゃないですか?』

碇さんが私たちの間に入って、鞘元さんの手首を掴んでいた。

『誰だよお前』

『碇ビールの碇です』

彼が淡々とした口調で言ったそのひと言で、鞘元さんは右手を下げて青ざめた顔で立ち去った。

そのときだって〝ライバル企業にマズいところを見られたから〟とか〝背の高い碇さんに迫力があったから〟くらいにしか思わない、おめでたい思考回路だった。

『ありがとうございます』

『気が強いな。なかなかいい啖呵だった』

彼が笑う。

『本当のことしか言ってないつもりです』

『じゃあ、うちは味で勝負できてるってことかな』

『……まあ、ロベリアよりはね』

素直じゃない私の言葉に碇さんが嬉しそうに笑うから、思わずキュンとしてしまった。


それからすぐに、うちの店は碇ビールに切り替えることになった。実際、値段が高くても碇ビールの方がよく出ていたし、私が父に正直に話したから。父は鞘元さんにとても怒っていて、『今度営業に来たら一発殴ってやる』なんて冗談めかして言っていたけど、そんな日は来なかった。

『すみません、ロベリアビールの新しい営業担当です。ご挨拶だけさせていただきたくて伺いました。すみません、引き継ぎもなく』

ひと月と経たないうちに、鞘元さんはなんの挨拶もなくロベリアを辞めてしまったから。


『挨拶も引き継ぎも無いなんて、本当に非常識な人ですよね』

私はバーのカウンターで口を尖らせる。

隣には碇さん。時々見せる冷笑という感じの笑みを浮かべる。何も言わず、どこか含みのある表情にも見えた。

碇さんは、あれから何度か私を〝お酒の勉強〟に連れ出してくれた。

私はその時間をとても楽しみにするようになっていたけど、決まって一軒で解散だった。

『二軒目、連れて行ってくれませんか?』

その夜、バーを出た路地で思い切って言ってみた。

『ダメだよ』

彼は私の頭をポンと撫でて、困ったように笑う。

『どうして?』

『君は取引先の娘さんだ。あまり遅くまで連れまわせない。酒はゆっくり覚えたらいい』

『……そんな風に言われるなら、お店のお酒、碇ビールにしてもらわなければ良かった』

子ども扱いされたのに、さらに子どもっぽいと思われるようなことを言ってしまった。

『子ども扱いされたくないの。あなたには』

子どものわがままだってわかってる。

不意に彼が私の左頬に手を当てたから、わずかにビクッとしてしまう。その反応に彼が小さく笑う。

『子どもみたいだな』

『……あなたから見たら子どもかもしれないけど、女として見てほしいです』

頬に当てられた手に自分の手を重ねて、眉を寄せた上目遣いで彼を見る。

『見てるよ、とっくに』

そのとき、彼がくれた大人のキスが私を大人にしてくれた気がしていたけど……そんなの、舞い上がった子どもの勘違いだった。



今にして思えば、ロベリアの営業さんが急に辞めたのはこの人が何か手を回したんだってわかる。

気に入らないものへの、そういう冷酷さがある人。

私もその冷酷さで切り捨てられたはずなのに……。


二十時。

「え?」

「お会計はもう済んでいますよ」

やられた。割り勘だって念を押したのに!

「受け取ってよ! 割り勘だって言ったでしょ!?」

焼肉屋を出て、彼にお金を押し付ける。

「いらない。君に酒を奢ってもらった分だ」

「あんなの五百円じゃない! 金額が全然違う」

ううん、たとえ一円の差だったとしても……。

「あなたに借りは作りたくない。だいたい、お医者さんに診てもらった分だって返してない」

そう言った私の腕を、彼がグイッと引き寄せて顔を覗き込む。

「それなら、別の方法で返してもらおうか」

「え……」

「君の身体で」

「は? 何言ってるの!? お断りします!」

焦って赤面する私を、彼は笑う。

「安心しろよ、健全な意味だ」

その不敵な顔で〝健全〟なんて言われたら、余計に何が何だかわからない。

はっきり言って、嫌な予感しかしない。

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