その執着は、花をも酔わす 〜別れた御曹司に迫られて〜
ねじまきねずみ
第1話 乾杯
あれからもう七年も経ったんだから、いい加減前を向かなくちゃいけない。
なのに、私は——
五月のある金曜日。二十一時。
「
仕事帰り、二回目の二人きりでの食事が終わった席でそう言ってくれたのは
スラっと背が高くて、鼻筋は通っているけどどこか優しい雰囲気をした顔立ち。年齢はたしか……三十二歳。
言われた私は、雪中
私たちは『スーシブルーイング』というアルコール飲料のメーカーで働く同僚同士。彼が営業をしていて、私はそのサポートをしている海棠さん付きの営業事務。
彼が転職してきて一年半、仕事ぶりを間近で見てきたから、優秀な営業マンだってことも、人柄が誠実だってことも知っている。
交際も、その後に続く結婚だって、穏やかに上手くやっていけそうな未来が想像できる。
もう子どもじゃないから、今日こういう話になるのはなんとなくわかっていた。わかっていてここに来たの、だから……
「ごめんなさい、私、お付き合いはちょっと……」
〝イエス〟と答えるつもりだったのに。
目の前の彼は、がっかりした悲しそうな表情。
「海棠さんが嫌だとか悪いとか、そういうことじゃないんです」
あくまでも、私の問題。
「誰か、忘れられない人でもいるの?」
「え……」
「雪中さん、ときどき何かを思い出すように遠くを見ていることがあるから」
彼の言葉に、思い出したくない記憶がよぎる。
「そうですね、忘れられない……嫌な思い出ならあります」
もう、恋愛なんてできないのかもしれない。
そう思わせるような記憶。
二十二時三十分。
私、どうして〝イエス〟って言わなかったの?
「次、
目の前のガラス戸の向こうから覗く女性に、私は空いた小さなグラスと次の一杯のための五百円玉を渡す。
さっきまで下ろしていたセミロングの髪は一つに結んだ。
小さな古民家を改築した、この隠れ家みたいな立ち飲み屋『ツワモノ
四畳半程度の店の中には、何人かで話しながら飲めるような細長くて背の高いカウンターテーブルと、一人でときどきマスターと会話をしながら飲めるような低くて小さなカウンターがある。この低いカウンターの向こうはガラスで仕切られた小さなキッチン……というより台所のカウンターになっていて、そこにはマスターと彼女のこだわりの日本酒の一升瓶がずらりと並んでいる。そう、マスターは女性で、Tシャツに法被を着ている。私と同じくらいの年齢かな。
「ユキちゃん、今日ペース速くない?」
マスターがお酒を出しながら心配そうな顔をする。雪中だから〝ユキちゃん〟て呼ばれてる。
「今日はサクッと酔いたいの。明日土曜だし、大丈夫」
アルコール飲料メーカー勤務の人間がみんなお酒が好きかっていったら、そんなことはないんだろうけど、私は好き。一人でもしょっちゅう飲みに行ってる。
「酔いたいって、何かあった?」
「ん? 何もないよ。嫌なこと思い出したから忘れたいだけ」
お酒で忘れられるような簡単なことじゃないけど。
「お姉さん、一人?」
背の高い方のカウンターで飲んでいた二人組の男性が声をかけてくる。客同士の会話もこの店のコンセプトだ。
「良かったらこっちで一緒に飲まない? 嫌なことってひとに話した方がスッキリするでしょ」
この店ではナンパなんて滅多にないけど、彼らからはなんとなく下心めいたものを感じる。私はにっこり笑って無言で首を横に振る。
「残念。じゃあせめて、お近づきの印にこれどうぞ」
そう言った一人が、高級メーカーの箱に入ったチョコレートを差し出す。この店では、酒の当ての持ち込みは暗黙の了解で許されている。
「いただきます」
チョコを一粒いただく。口の中で溶けていくチョコをつまみに日本酒を飲むのは結構好き。
「ガラッ」と引き戸の開く音がする。誰か新しいお客さんが来たんだな、なんて思いながらまたひと口飲む。
「
私の隣に立った背の高いその男性客が、マスターに酒を注文する。小町藤とはなかなか渋いチョイス。
「あーすみません、うち、現金だけなんです」
この店は一杯毎に五百円を払うシステムだ。
こんな町角の小さな一杯飲み屋でクレジットカードを出すなんて、私に言わせれば非常識。目の端に映る高級そうなスーツからも、こういう店に慣れてないお客さんなんだってすぐにわかる。
「これ、この人の分」
私はガラス戸の向こう側に五百円玉をスッと、将棋の駒を押すみたいに差し出した。
「え? いいの? ユキちゃん」
「一杯だけ」
私だって、うっかり財布に万札しか入ってなくて何度かおごってもらったことがある。こういうところは、持ちつ持たれつ。
マスターが彼のお酒を注いだグラスを差し出す。澄んだ日本酒って、水とは違う不思議な魅力がある。
「ありがとう」
そう言った彼が、私のグラスに小さく乾杯を求めてきたから、応じようと彼の方を見る。
「え……花音?」
「……え——」
〝心臓が止まるかと思った〟って、こういうことかって理解した瞬間、目の前が暗くなって、本当に心臓が止まるのかと思った。
倒れそうになったところを力強い腕に受け止められて、
「やべぇ」
「おい、行くぞ」
って小さな声と、また「ガラッ」って戸の開く音を聞いた。
……ああ、さっきのチョコ、何か入ってたんだ。
ぼんやりと考えているうちに、どんどん意識が遠のいていく。
「花音! おい、花音!」
懐かしい低い声。
本当はもう二度と聞きたくなかった声。
「やっと見つけた」
消えゆく意識の中で、耳元で小さく聞こえた気がする。
◇
『
◇
『
『え? だって夕方の便にしたって』
『婚約者と一緒らしいから、花音には会いたくなかったのかもな』
◇
嫌な記憶。
さっさと忘れてしまいたいのにまた夢に見るなんて、最悪の気分。
「ん……」
うっすらと目を開けて、朝が来ていることを確認してまた目を閉じる。だって今日は土曜だからまだ寝られる……と思ったところで違和感でパチっと目を開ける。
見たことのない天井に、白黒のモノトーンを基調としたモダンな雰囲気の広い部屋、大きなベッド。
「え……?」
服は昨夜のままだ。
昨日は海棠さんと食事に行って、そのあと一人で飲みに行って、そこで——
「起きたか。身体、なんともないか?」
昨夜ツワモノ家で遭遇した彼が、ベッドの脇に立って顔を覗き込む。
昨日はきちんとしたスーツ姿だったけど、今は白いワイシャツにズボンだけだ。
漆黒という言葉が似合いそうな艶のある黒髪、切れ長の瞳……。
「……」
「どうした?」
私をとらえる懐かしい瞳に言葉が出ない。
「大丈夫か? 花音」
「……な、なまえ」
「名前?」
「よ、呼ばないでください!」
私は慌てて彼と反対側を向いてベッドを出ようとする。
「待った」
グイッと身体を引き戻される。
「随分と冷たい態度だな」
大きな手に肩を掴まれたまま、先ほどよりも近い距離で見つめられる。心臓がドクドクと不安な音を鳴らしてる。
「冷たいって言われても……」
久しぶりに向けられる鋭い眼差しがなんとなく怖くて、肩に触れる手からの熱を感じながら目を逸らす。
「助けていただいたのは感謝してますけど、私たちはもう……」
彼は私の顎をクイッと上げて、自分の方に向かせる。
「もう、何?」
強引な行動にムッとする。
「終わっ——」
強引なまま唇を奪われる。
遠慮なんてまるで無く、はじめから私の口内を熱が侵すようなキス。
「ん…っふ——っ」
強引さとはギャップのある、数年ぶりの甘美な刺激に蕩けてしまいそうになる。曖昧になりかけた思考で必死に抗って、彼の身体をグイッと押し退ける。
「とっくに終わってるでしょ!?」
そう言った私の身体が、今度はベッドに押し倒される。
「やっと見つけたんだ。終わったなんて言わせない」
怒りすら孕んだような、真剣な目。
「言わせないって——」
「——まあいい。こうして再会できたんだ」
彼の目に、私が映ってる。
「終わったのなら、また始めればいい」
この人は、何を言っているんだろう。
碇成貴——もう二度と会わないと思っていたのに。
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