終章 よあけ
あれから一週間が過ぎた。
マキたちは普段通り学校に通い、何も変わらない日常を続けている。
あの夜、鏡を割った後、異常に気付いて駆けつけた警備員が力なく倒れる少女たちを発見し、すぐさま警察と消防に通報。もれなく全員が救急車で搬送された。
あんな深夜に学校で何をしていたのか、割れた大鏡や血みどろの教室の惨状はなんなのかと、比較的軽傷と判断された三人は大人たちに問い詰められたが、全員がその事について口をつぐんだ。言っても信じてもらえないと思っていたし、下手な説明をしても面倒になるのは分かりきっていた。
それに、あの夜起こった悪夢のような出来事は、到底説明できるようなものではなかった。
警察沙汰になるのではと覚悟したが、不思議なことに大した騒ぎにはならなかった。聞くところによると、マキたちは深夜の学校で悪事を働こうとしていた美麗たちを止めるため、正義感から自分たちも夜の学校に忍び込んだことになっているらしかった。
身に覚えのない内容に始めは困惑したが、事実を伝えるわけにもいかず、都合よく乗っておくことにした。と言うより、マキたちの軽率な行動に烈火の如く怒り狂った家族の叱責に気圧されて、そうせざるを得なかった。
それでも自分の中で納得はしておきたいと、休み明けの学校に向かったのだが、割れたはずの鏡は元通りになっており、荒れた教室も何事もなかったかのように生徒たちが出入りしていた。
結局、真実は藪の中に消えてゆき、再びいつもの日常が戻った。
「……あれでよかったのかな」
教室で三人、いつものように机を囲んでマキは言う。ため息とともに出たそれに、都が即答した。
「いいに決まってるじゃないですか」
「そうだよ。マキが動いてくれなきゃ、私もやばかっただろ」
そう言う七尾の首元にはいくつもの絆創膏が貼られ、半袖から覗く両腕にも未だに濃い痣が残っている。
「だけど……」
マキは真後ろの席に首を巡らせる。そこには空席になった美麗の机がぽつんと置かれてあった。
坂田美麗はあれから学校に来ていない。どうも病院に搬送された後に意識を取り戻してから様子がおかしいらしい。噂によると、急に笑い出したかと思うと訳のわからない話をし始めたり、動物のような動きをし始めたかと思うと突然自分の体に噛みついて肉を食い千切ったりと、どう見ても正気を失っているとしか思えないそうだ。
元々不仲だった美麗の両親はそれで完全に関係が終わってしまったらしく、今は狂ってしまった娘をどうするかで揉めているということだ。
それだけではない。美麗の取り巻きたちについてもだ。
教室の端に視線を向けると、取り巻きのひとりが椅子に座っていた。その両手の指には、真っ白な包帯が巻かれている。だが、見るからに痛々しい包帯よりも印象的なのは、覇気のないその表情だった。
あれ以来、取り巻きたちはまるで人が変わったかのように大人しくなった。元々声の大きいグループではあったものの、今ではその空気は鳴りを潜め、取り巻き同士で会話している様子もほとんどない。
心配したマキが話しかけてみても「ああ」とか、「うん」とか、気のない返事ばかりだった。
「狐に憑かれた人は、無気力になるそうです」
古い資料を広げた都が言った。
「お祓いなどで憑いた狐が離れた人が、何かを失ったように放心したり、性格が全く変わってしまうというのは珍しいことではなかったようです」
だから彼女たちがああなったのはマキのせいではない、と都は言う。とは言えその原因の一端が自分にあるのは間違いなく、それを思うとマキの心はどうしようもなく憂鬱になる。
そんなマキの心を知らずか、都は色褪せた文献の内容を解説する。
「雑食の狐は悪食なことでも知られ、死体を漁るために墓を掘り返したり、罠にかかった自分の指を食ったという記録すらあります。わらわちゃんのお供え物に特別指定がないのはこういう理由かもしれませんね」
興味深そうに都は続ける。
「狐を意味する
そこまで言うと、都はパタンと本を閉じる。
「要するに、よからぬものに関わるとロクなことにならないということですね」
身も蓋もない言葉でそう結論付けて、広げていた資料をランドセルに仕舞い込んだ。
「藪に入って蛇に噛まれたようなもんか」
七尾が痒みの残る傷跡を撫でて呟いた。
「そう思えば、私らが無事だったのはたまたまかもな」
「全くです。これに懲りたらもう訳のわからないおまじないなんてしないでください」
「うう…………」
痛いところを突かれてマキは呻く。多分今後しばらくはこのことで責められるのだろう。
今回の事で二人には返しきれない恩がある。自分のために全力で手を貸してくれたし、危険を顧みずに協力してくれた。感謝してもし切れない恩だ。もし二人が困ったときは自分も同じように助けてあげたいと思う。
それに、
「言われとるのう、マキ」
新しい友達もできた。
わらわちゃん。真っ白な狐の耳と尻尾のついた不思議な友達。
「悔しいのう悔しいのう、言い返せんのう」
わらわは肘でマキの脇腹を突きながら、わざとらしい笑みを浮かべている。マキはそれを黙って放置していたが、しつこく繰り返すわらわにそのうち我慢ができなくなって叫んだ。
「半分はわらわちゃんのせいじゃないかなあ!?」
その声に、都と七尾は大きく口を開けていつまでも笑っていた。
*
………………………………
……………………………………………………
………………………………………
深夜の教室に人影がひとつ。
その影は机と椅子が散乱した教室で電気も点けず、血飛沫で汚れた室内を眺めながら電話をしていた。
「ええ、間に合いませんでした。しかし痕跡は…………」
若い女性の声。その手に持つ携帯は、今ではほとんど見ることのない古い折りたたみ携帯だった。そのせいか電話を通した相手の声は不明瞭で酷いノイズがかかっている。こちらは若い男性だろうか。その声は、ざらざらとした雑音に歪みながらも、どこかのんびりとした雰囲気を感じさせる。
「それで、今回は当たりかな?」
「さあどうでしょう、確認しないことにはまだなんとも」
敬語を交えながらも二人の間には、フランクな雰囲気がある。まるで友達同士の会話のよう。異様なのは、その会話が温かみのある自室のベッドではなく、血と獣の臭いが立ち込める夜の教室で交わされていることだった。
「……少し待ってください」
女性は耳と肩で携帯を挟んだまま、首から下げたデジタルカメラを構える。こちらは携帯とは違い最新式だ。そのままシャッターを切って教室の景色をカメラに収めていく。そして、データ化された写真をいくつか確認すると、再び電話の相手に話しかけた。
「間違いありません、わらわさんです」
「ああ、やっぱり」
ざらついた返事は、電話の向こうで浮かべた喜色を感じさせた。
「範囲を絞って正解だったね。ぼくの面目も躍如というわけだ」
「流石、と言いたいところですが、肝心なのはこれからですよ」
「分かっているよ。ぼくも、きみも、そのために骨を折っているんだから」
気を引き締めるよう促す女性に、電話の主は静かに応える。
「それじゃあ、ぼくは自分の仕事をするよ」
「ええ、わたしも、わたしの役目を果たします」
そう言って電話を切ろうとした時、ノイズ交じりの声がぽつりと聞こえた。
「なんにせよ、これでやっと始められるね」
「……終わらせられるの間違いでは?」
「そうなのかな? そうかもね」
胡乱なやり取りの後、電話は切れた。
後には誰もいない教室が、何事もなかったかのように広がっていた。
<終>
怪来怪去 一 ゆーき @chonbokki
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