怪来怪去 一

４－５

　　　　　　　　　　　　４

　薄闇色の教室を月の光が照らし出す。

　雲の合間から射した月明かりは、闇のカーテンに秘匿された夜の世界を暴いてゆく。

　互いを庇い合う三人の少女。

　牙を剥いて後ずさる獣の少女たち。

　その間で対峙する、同じ造形をした、白と黒。

　服と髪の色が対照である以外、全く同じ姿をした二人のわらわが、静謐を湛えた教室で月の視線を浴びていた。

「さて、お主らをどうしてくれようか」

　白いわらわが静かに口を開く。その声は担々と、しかしこの場の空気を抑え込む威厳を感じさせた。

「わらわの姿など取りおって、無礼者め」

　冷たい怒気を孕んだ声色に、能面の表情を浮かべた黒いわらわが口の端を歪める。

「大方、祭りの熱に惹かれて迷い込んだ、どこぞの野狐の類いであろう」

「……！」

　きっ、と黒いわらわが呪詛を込めた瞳で睨みつける。

　その様子にわらわは鼻を鳴らす。

「不服か？　じゃがな野狐、わらわはそれ以上に不愉快じゃ───故にその正体、暴いてやろう」

　わらわはそう言うと、人差し指を立て、頭上に掲げた。

「“高提灯、箱提灯、夥しく燈し立て”」

　ふっ。

　一瞬、世界から全ての光が消えた。

　そして、

　ぼう………

　と、教室に存在する全ての照明が、赤く、ぼんやりとした光を放ち始めた。

　その光は蛍光灯の本来の白い明かりではなかった。

　それは祭りで目にする提灯やぼんぼりが放つ、橙色の灯によく似ていた。しかし、目の前の光はそのどちらでもない、艶めかしい赤色で教室を染め上げていた。

　そして、赤光が教室を包んだ瞬間、

「ぎあああああああああああああっ！！」

　耳をつんざく絶叫が響き渡った。

　黒いわらわが、耳を塞ぎたくなるほどの悲鳴を上げ始めたのだ。同時に、背後の少女たちも一斉に声を上げ、全身を掻き毟りながらその場にのたうち回る。

　爪の剥がれ落ちた指先が、少女たちの白い肌に真っ赤な線を引いていく。身悶えするたび飛び散る血が、赤い光に包まれた教室にコントラストのしぶきを撒き散らす。

　ぞわ、ぞわ。

　苦悶の唸り声を上げる黒いわらわの表情が、ありえない形に捻じ曲がった。

　口が裂け、目が飛び出し、頭の造形が人ではないものに膨れ上がる。その変化は全身にまで及び、びくびくと蠢くおぞましい肉塊となった。

　やがて肉塊は、ずるりと音を立て、一匹の黒い狐に姿を変えた。

　それはひどく年老いた狐だった。

　狐は影のように黒い体をずるずると引き摺りながら、恨みがましい視線を向ける。気付けば、黒狐の背後に倒れ伏す少女たちの体からも、霧のような影が溢れ出し、それぞれが狐の形を成していった。

「この灯の下では、何者も己の姿を偽れぬ」

　わらわは静かに呟く。

「わらわはこやつらと同じか？」

　目の前の光景を呆然と見つめていたマキは、その呟きが自分に向けられたものであると気が付いた。

「マキには同じに見えるのか？」

「…………」

　マキは赤い照明に照らされた狐と、隣に立つわらわを見る。顔を背けたわらわの横顔を白髪が覆い隠していた。

「わらわはこのような獣ではない……友達じゃ」

　風のような孤独が通り抜けた。

　火を失って揺れる孤独の灯。白い煙の残滓を纏う眇眇たる寂寞。

　それらの感情が声に乗ってマキの心の中へ流れ込んだ。

「……！」

　マキは全てを理解した。

　わらわは寂しかったのだ。誰もいない世界を一人きりで漂っていたのだ。そんなわらわが誰かと関わる方法が、あの『おまじない』。『わらわちゃん』という手順に沿わなければ、わらわはマキにも、他の誰にも気付いてもらえない存在なのだ。

　気が狂いそうなほどの孤独と絶望。その中で時たま自分を呼ぶ声に誘われた先で感じる、心からの安堵。だがそれも一時の安らぎでしかない。いずれ誰もがわらわを疎ましく感じ始め、ぞんざいに扱うようになり、そして最後には忘れ去る。そうして再びわらわは一人きりになり、いつ訪れるとも知れない声に焦がれて孤独に苛まれる。

　悲しみ。安らぎ。苦しみ。怒り。安息。孤独。絶望。空しく繰り返される徒労。

　わらわは一体何度同じことを繰り返したのだろう。もはや想像すら出来ない。友達という関係に拘ったのも、マキに疑われて腹を立てたのも、全てはそういう感情の裏返しなのだ。

「………………」

　言葉にすることが出来なかった。わらわにのために何か言ってあげたかったが、何を言えばいいのか分からなかった。

　だからマキは何も言わず、力なく垂れたわらわの手を、そっと握った。

「…………！」

　わらわは一瞬、ぴくりと指先を震わせると、しばらく躊躇った後、ゆっくりとマキの手を握り返した。

「いいのか？」

「いいよ」

「…………そうか」

　相変わらずわらわは前を向いたままだった。強く握られた手の温もりが心地よく、さわさわと素肌に触れる尻尾がくすぐったかった。

「では、あれをなんとかせねばの」

「！」

　わらわが言うと同時に、黒い影が唸りを上げてマキに飛びかかった。

　ばちん！

　影が音を立てて弾け飛んだ。

「不届き者め」

　手を翳すわらわの視線の先で、黒い老狐が牙を剥いていた。その背後には影のような朧な姿をした数匹の狐。皆一様に牙を剥いて喉を鳴らしている。

　ぐぁう！

　狐たちは再び距離を詰め、一斉にわらわへと襲い掛かる。

　だが、わらわが手を振るう度、狐たちは目に見えない力に弾かれたように地面に倒れ伏し、その身を引き裂かれていった。

　崩れ落ちた体はぐずぐずと不定形な影となり、新たな狐へと形を変える。そして巻き戻しのテープのように再びわらわに襲い掛かった。

「埒が明かんな」

　わらわは面倒だと言わんばかりに唇を尖らせる。決め手に欠けているのは明白だった。

「なんとかならないの？」

「『道』じゃ」

　マキの問いにわらわが答える。

「こやつらは『道』を通じてこちらに来ておる。それがある限り、いくらでも湧いてきおる」

「でもそんなもの、どこに……」

　そう言いかけたマキの背後で声が上がった。

「ありますよ！」

　都だった。都は興奮した様子で、わらわに問いかける。

「『道』を、塞げばいいんですね？」

「そうじゃ」

「分かりました」

　都はそれだけ聞くと、七尾の手を借りて立ち上がった。

「マキさん、七尾さん、行きますよ」

「！？」

　そのまま返事を待たず、都は衝撃で吹き飛ばされた教室の扉をまたいで廊下へと消えた。事態が飲み込めていないマキと七尾は、それをぽかんと見つめている。

「おい、はよう行かんか」

　二人は、はっと我に返ると、慌てて廊下に飛び出して都の背中を追った。

　背後からは唸り声と、机の撒き散らされる音が聞こえていた。

　　　　　　　　　＊

「わらわちゃんのおかげで、突破口が見えました」

　こちらを一瞥した都は、迷いなく廊下を進む。

「鏡です。あいつらは鏡を通して、こちらの世界に繋がっているんです」

　その言葉でマキは、黒い本にも鏡の記載があったことを思い出す。しかし、同時にマキの内で疑問が生まれた。

「でも待って、わらわちゃんが言ってた『道』が鏡とは限らないよ」

　確かに『道』と言われれば、真っ先に思いつくのは鏡だろう。だけどそれは単なる思い込みで、実際にわらわやあの狐たちをこちらに繋いでいるのは、お供え物かもしれないし、おともだちになった人かもしれない。『道』を鏡と断ずるのは早計ではないだろうか。

　しかし、都は断定する。

「いえ、鏡で間違いありません」

　都には確信があった。あの時、都は見ていたのだ。絶体絶命の教室で自分たちを助けたわらわが、どこから現れたのかを。

「手鏡です。わらわちゃんは、マキさんの手鏡から出てきたんです」

「そうか、その手鏡がわらわちゃんの『道』か」

　納得する七尾に、都は首肯する。

「ええ、同様にあいつらにも『道』がある。それを壊してやれば……」

「……！」

　言われてマキは気が付いた。自分たちが今どこに向かっているのかを。

　三人は廊下を走り抜け、その先にある階段を駆け降りる。そこはつい先ほど自分たちがおまじないを行った場所。

「踊り場の大鏡…………」

　誰ともなくそう呟いた。

　鏡はいつもと変わらぬ姿で佇んでいる。しかしその周囲には、持ち寄ったお供え物が食い散らかされたかのように散乱しており、それに混じってじっとりとした獣の臭いが充満していた。

　悪夢の残滓が漂う空気に、先刻この場で体験した恐怖が蘇る。

　強く脈打つ心臓とは対照的に、大鏡は闇と同化するような静謐さを湛えている。闇との境界を曖昧にして広がるその姿は、真っ黒な怪物が少女たちを飲み込もうと口を開けているようだった。

「……やるぞ」

　ゴトン、と七尾が廊下に設置されていた消火器を掴む。逆手に掴んだ消火器を握る手に、じわりと汗が滲んだ。

　不安はある。不確定な要素も多い。だが、対処不可能と思っていたところにやっと見えた糸筋だ。結果がどうなってもやるしかないんだ。

　緊張を飲み込んで、消火器を振りかぶる。そのまま消火器を鏡に叩きつけようとした瞬間、

「うわっ！」

　突然背中に衝撃が走り、勢いのまま七尾は床に倒れ込んだ。ゴン！　と手から落ちた消火器が鈍い音を立てる。誰かに体当たりされたと気付くと同時に、それは七尾に襲い掛かった。

「美麗ちゃん！？」

　それは美麗だった。美麗は、仰向けの体勢で防御を固める七尾に飛びかかると、爪の剥がれた血塗れの手で掴みかかる。

　凄まじい形相で襲い来る美麗の体は、どこにそんな力があるのかと思うほどの恐ろしい力で七尾を抑え付け、喉笛を噛み千切ろうと歯を立てる。

「うああああああああああああああっ！」

　七尾は恐怖のままに絶叫した。必死に体を捩って喉元に迫りくる、がちがちと音を立てる牙を避ける度、ぬるりとした血が顔面に滴り落ちる。

　その悍ましさに恐慌の嵐が吹き荒れる。今にも薙ぎ倒されそうな精神を総動員して七尾は叫んだ。

「マキ───っ！　やれ───っ！」

「！」

　その意図を理解したマキが弾かれたように動き出す。

　考えている時間はなかった。

　マキは床に転がる消火器を掴み、鏡に向けて勢いよく叩きつけた。

「─────────！」

　凄まじい破裂音が響き渡った。

　両手に痺れるような衝撃が広がり、鏡が破片となって砕け散る。

　瞬間、

　ぐるん、と世界が反転した。

　突如として床と天井がひっくり返り、上下の境が消え去った。色彩の失われたモノクロの世界で、耳鳴りのような無音の音が響き渡る。

　まるで鏡とともに世界の在り方まで壊れてしまったかのよう。

　その異様な感覚に体が平衡感覚を失い、思わずその場に倒れ込んだ。自己という存在すら曖昧な空間に投げ出されたまま、消えてしまいそうな正気をなんとか繋ぎ止める。

「ぎあああああああああああああああああっ！！」

　美麗が恐ろしい絶叫を上げている。その体から何かが黒い霧となって抜け出していた。

　霧は次元の裂け目のように、ぽっかりと割れた鏡の中に吸い込まれていき、やがて小さくなる絶叫とともに消えていった。

　そして、世界が静寂を取り戻し、あの異様な感覚がどこか遠くに行ってしまったと気が付いた頃、マキはようやく全てが終わったのだと理解した。