怪来怪去 一

４－２

　　　　　　　　　２

　学校という場所は、昼と夜とでその姿を大きく変える。

　昼の学校は常にどこかで誰かの気配がしているが、夜の学校にはそういった人の匂いというものが一切ない。まるで昼間の喧騒がみんな、夜の暗がりに食べられてしまったかのよう。いつもは元気な子供たちの温もりに満たされた学校が、今はしんとした静寂に包まれて、果てのない暗闇にそびえ立つ墓標のようだった。

　暗がりに見える学校の窓からは、ぼんやりとした非常灯の緑の明かりが、ぬらぬらとした舌のように外へと吐き出されていた。

「よっ………と」

　そんな学校の校門を乗り越える影があった。

「ほら、早く来なよ」

　影の主は七尾だった。呼びかけた先にはマキと都の他にも、何人かの人影がある。いずれも先日の『おまじない』に参加した女子たちだ。

「む、無理だよ、七尾ちゃん」

　マキがたった今、校門を乗り越えた七尾と、自分の身長を超える塀を交互に見ながらあたふたする。

「あー、そっか。じゃあ私が上から引っ張り上げるよ」

　七尾が跳躍して再び堀の上に登ると、女子の中から声がした。

「そんなことしなくっても大丈夫だよ」

　くすくすと笑いながら歩み出たのはあの、黒いわらわを呼んだ女子、美麗だった。

「こっち、入れるところがあるんだ」

　そう言って美麗は先導する。マキと都は互いに顔を合わせると、下りてきた七尾を伴ってその後に続いた。

　そこは学校の端にある植栽地だった。植栽地と言えば聞こえはいいが、実際に近付く者はほとんどおらず、繁茂した植物や蔓が、手入れもされずほったらかしになっている。かなり昔の卒業生が記念に植えたという名前も知らない木が何本か立ってはいるが、管理者側も興味がないのか数年に一度、安全上の理由で剪定業者を入れるくらいで、中途半端なまま放置されているのが実態だった。

　その植栽地の端に、塀の一部がフェンスになっているところがあった。

　元々は塀だったであろうその部分は、木の成長を阻害しないためか、はたまた成長した木に押しやられたためか、今ではフェンスが後付けされている。そしてやはり、伸び放題のまま放置された木によってフェンスは歪に盛り上がり、今にもはち切れそうな見た目をしていた。

「ほら、ここ」

　美麗が木の枝に持ち上げられたフェンスを指差す。その先を見ると、フェンスの端が大きく湾曲し、べろりと剥がれていた。それはちょうど子供一人が抜けられるほどの大きさだった。

「ね、これなら塀を越えなくても入れるでしょ？」

　に、と笑う美麗。美麗はそのままフェンスを潜り抜けていく。

「ほら、早く早く」

　美麗の呼びかけに、取り巻きたちが順番にフェンスを潜っていく。

　マキがそれを見ながらあの子の後に行こうかなと考えていた時だった。

「？」

　誰かに袖を引かれる感触があった。

　都だった。

「マキさん、これ」

　都は、なにか小さなものをマキに手渡した。それは手触りのいい赤い布地でできた御守りだった。

「これは？」

「厄除けの御守りです。気休め程度ですが一応持っていてください」

　そう言って都は、七尾にも同じものを手渡す。

「これは以前、わらわちゃんに対抗するために用意していたもので、その、実際に役に立つかは分かりませんが、何も無いよりはマシかと……」

　わらわに対するマキの気持ちを慮ってか、やや遠慮がちな声色だった。そこまで気を使わなくてもと思わなくもないが、こういった誠実さと準備の良さは都らしかった。

「うん、ありがとう」

　マキは御守りをポケットに入れると、先に行った子に続いてフェンスを潜り抜けた。

　一行はフェンスを抜けると校舎前までやってきた。

　校舎の正面はガラス張りの両扉で覆われており、その奥にある下駄箱から先は見通すことのできない闇が広がっていた。取っ手に手をかけると、がちりと施錠されている手応えがあった。

「閉まってるよ」

「任せて」

　美麗が肩掛けのポーチを探りながら扉に近づくと、かちりと小さな音を立てて扉が開いた。

「ジャジャーン」

　オーバーなポーズを取りながら、美麗は扉を両側に開け放つ。

「な、なんで？」

「いいでしょ、これ」

　美麗はマキの目の前で鍵束をじゃらじゃらと鳴らしてみせた。鍵束には様々な形をした銀色の鍵と、マキたちの担任の名前が書かれたタグがついていた。

「栢森（かやもり）の落とし物だよ」

　担任を呼び捨てにしながら、美麗と取り巻きたちは笑う。

「栢森、めちゃくちゃ慌ててたよね」

「校長にも怒られたらしいよ」

「いいザマだよ、あいつキモいし」

　次々に溢れ出る蔑みの言葉に、マキは思わず眉をひそめた。確かに担任の栢森は脂ぎった中年男性で人間的な魅力に溢れる人物ではないものの、そこまで言われる筋合いはないはずだ。教師を見下して笑う彼女たちの姿に、マキの心中にもやもやとしたものが渦巻いた。

　だからと言って、わざわざそれを止めるようなことはしなかった。今回の目的はあくまでわらわの真意を見極めることだ。わらわが何のために彼女らと行動しているのか。どうして以前とは違う姿をしているのか。そしてどうしてマキの下を離れたのか。「ここには戻らない」と言って消えておきながら、こんな形で再び目の前に現れた理由はなんなのだろうか。

　それがどうしても知りたかった。

「…………」

　影のように美麗の隣に立つ黒いわらわを見て、マキはそう思う。

　真夜中の校舎を懐中電灯の光が通り抜ける。周囲に広がる闇を丸く切り取るその光を避けて、少女たちは身を潜める。

　視線を交えながら辺りを照らすそのライトは、青い制服の警備員によるものだ。機械警備を導入していない原綿小では、警備員による昔ながらの見回りが行われている。そのためマキたちは懐中電灯やスマートフォンの明かりを使うことが出来ず、点々と配置された緑色の非常灯と昼間の学校の記憶を頼りに先へと進んでいた。

「行ったよ」

　警備員が立ち去ったのを確認して、少女たちは再び顔を上げた。

　先頭を行く美麗たちは、真っ暗な校舎の中を慣れた様子で先へと進む。マキたち三人は、はぐれないよう互いに手を繋ぎながらそれに追従する。

　そして、暗闇にようやく目が慣れて、黒に沈んでいた周囲のシルエットがぼんやりと認識できるようになった頃、

「ここだよ」

　少女たちは壁一面に広がる姿見鏡の前にいた。

　そこは一階から二階に繋がる階段の踊り場だった。少女たちが横一列になってもなお余裕のある踊り場には、その壁を隙間なく埋め尽くす一枚の巨大な鏡が張り巡らされていた。

　鏡の中には踊り場に立つ自分たちの姿と、後方に広がる上下階段があった。暗闇のせいか位置関係のせいか、鏡に映った階段の先を見通すことは出来なかった。

　日常的に目にしている場所のはずなのに、なぜか初めて足を踏み入れる場所のような、不気味な感覚がそこにはあった。それは暗闇のせいでもあり、こんな時間に学校に忍び込んでいるという背徳感によるものでもあった。

　暗闇によってぶつりと途切れた鏡の階段だけが、この世ではないどこかに繋がっているような真っ黒な道をただ無言で敷いていた。

「それじゃあみんな、改めて『わらわちゃん』の説明をするね」

　美麗の言葉に全員の視線が向けられる。

「手順は簡単。夜中の二時に鏡の前にお供え物を用意してこう唱えるだけ。『わらわちゃん、わらわちゃん、おともだちになってください』」

　既に知っている説明を聞きながらマキたちは、これからやるものがマキの行った『おまじない』と同じものであることを確認する。

「さあ、まずはわらわちゃんへのお供え物をしよう。みんな、ちゃんと持ってきたよね？」

　美麗に促されて、各々が鞄やポーチからお供え物を取り出した。マキ、都、七尾はいなり寿司を、その他の女子は包装紙に包まれた和菓子や市販のスナック菓子など、思い思いのお菓子を用意していた。

「え～、マキちゃん本格的～」

　マキが手にしたいなり寿司を見て、取り巻きの女子がにやにやとした笑みを浮かべながら黄色い声を上げる。

「あ、うん。ちゃんとしてた方がいいかと思って……」

「あはははは、真面目ちゃんじゃーん」

「いやー、いなり寿司は流石に古臭すぎるって」

「みんなやめなよ～。せっかく溜井戸さんも本影さんもそういう雰囲気出そうと頑張ってくれてるんだよ～」

　明らかな嘲笑が込められた言い回しに、都は無言のまま無表情を貫いている。その態度が怒りを押し殺している時のものだと知っている七尾は、内心で冷や汗をかきながら話題を変えた。

「それで結局、わらわちゃんってなんなんだ？」

「…………」

「？」

　取り巻きたちの間に妙な空気が流れ、それぞれが互いに視線を交わす。

「…………さあ？」

　一瞬の空白の後、口々に出た言葉がそれだった。

「はあ？」

　七尾自身、この問いかけに明確な答えを期待していたわけではなかった。なかったが、こんなところまで来ておいて何も知らない取り巻きたちには落胆せざるを得なかった。

　悪態でもついてやろうと息を吸い込む七尾だが、先に口を開いたのは美麗だった。

「『わらわちゃん』はね、子供が大好きなお稲荷様なんだよ。でも本当は、わらわちゃんもみんなと『おともだち』になりたいと思っているの。わらわちゃんは普段、人とは関わることが出来ないんだけど、そんなわらわちゃんに会うことの出来るおまじないがこの、『わらわちゃん』なの」

「！？」

　突然のことに言葉を失った。それはあの黒い本に書いてある内容の、いや、それ以上のものだった。

　そうだよね、と背後に語りかける美麗。それを受けるわらわは、着物の袖で口元を隠しながら静かに微笑んでいる。

「今ここにいるわらわちゃんのことはみんな見えているよね？　でもそれだけじゃ不十分。だって『おまじない』をしたのは私だけだから。わらわちゃんと本当の『おともだち』になるためには『おまじない』をしなくちゃいけないの。わらわちゃんはみんなともっと仲良くなりたいと思っているの。

　だからみんなも『おまじない』をしよう？　わらわちゃんの本当の『おともだち』になろう？」

　どこか熱に浮かされたような美麗の語りに引かれて、高揚した空気が周囲に広がり、夜気に晒された頬にじんわりとした熱を感じさせた。

　しかしそれと同時に、この美麗という少女の持つ不気味な気配と、より長くわらわと行動していた自分たちさえ知り得なかった黒い知識にどこか冷たいものを感じずにはいられなかった。

「もうすぐだよ。さ、準備しよう」

　スマートフォンで時間を確認した美麗が鏡の前にお供え物を置くと、周囲もそれに倣ってお供え物を置いた。時間は刻一刻と迫っていた。少女たちは準備を済ませて、おまじないの手順を確認すると鏡の前で横一列に並ぶ。

　そして、少女たちは、美麗のカウントダウンに合わせて、その言葉を口にした。

「わらわちゃん、わらわちゃん、おともだちになってください」

　瞬間、

　少女たちの絶叫が、

　夜の校舎に響き渡った。

　黒いわらわの、黒い笑みが、鏡の奥から覗いていた。