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 六月上旬。ついに『とうかさん』の日がやってきた。

 半袖でも薄っすらと汗ばむ陽気に、そんな暑さを和らげる心地よい風が吹いている。雲一つない晴れやかな空は、夏の訪れを告げるとともに祭りの開催を祝っているようで、町は大いに盛り上がっていた。

 稲荷大社へと続く道はもちろん、地域の商店街でも『とうかさん』を示す祝いの幟がはためいている。地域の大人たちは祭りの熱気に浮き足立ち、子供たちも立ち並ぶ屋台や出し物に夢中になっている。

 これが原綿で毎年見られる『とうかさん』の光景だ。

 農耕が盛んでなくなった現代において、『とうかさん』をかつての五穀豊穣を稲荷神に祝う祭りとして捉えている者は、今ではほとんどいない。時代の流れに沿って商売繁盛や産業発展、果ては家内安全などの属性を付与された稲荷神は、今や農耕に留まらずあらゆる産業に関わる神としての側面を持ち、その存在はもはや人の生活や社会を司るものであるとさえ言われていた。

 とは言え、そんな歴史や背景など、祭りを楽しむ者にとっては大した問題ではなく、原綿市における『とうかさん』もどこにでもある祭りの一つとして認識されていた。

 そして、それはマキを含めた子供たちにとっても同じだった。


「みんなお待たせ!」

 待ち合わせに少し遅れて合流したマキが、浴衣姿の都と七尾に声をかけた。

 今日はみんなで浴衣を着て『とうかさん』を回ろうと約束していた日だった。

「都ちゃん、その浴衣かわいいね~」

 都の浴衣は、淡い黒をベースに散りばめられた丸い紋様が印象的な、宇宙のような、あるいは深海のようなデザインだった。

「ありがとうございます。マキさんもよく似合っていますよ」

 対するマキの浴衣は、ピンクを基調としたものに白の流水紋が施された大人っぽい柄で、かわいらしいと言うよりは、ちょっと背伸びをしたような雰囲気を感じさせた。

「いいでしょ、おばあちゃんに貸してもらったんだ」

 マキはその場でくるりと回って見せる。

「ほーん、それで着付けが分からなくって遅刻したってわけね」

「うっ………」

 図星を指されてマキは閉口する。

 開口一番に毒を吐く七尾の浴衣は、シンプルな緑の無地で仕立てられており、それとは対照に腰にはこれでもかと言うくらい、どぎついパンチの利いた蛍光マゼンタの帯が巻かれていた。

「こんなクソ暑い中、三十分も待たされたら溶けちゃうだろ」

「ごめんごめん。あっ、七尾ちゃんも素敵な浴衣だね」

「えっ? あっ、そ、そうかな?」

 取ってつけたようなお世辞に、七尾がまんざらでもない反応をする。本人でも似合っているのかどうか不安だったのだろう。首の後ろを掻きながら口元を緩ませている。ここぞとばかりにマキが続ける。

「ホント似合ってるよ~。あ、ほら、遅れてきたお詫びにさ、飲み物奢るよ」

「ええ~、そんな悪いだろ~」

「いいからいいから! ね、都ちゃんも」

「まあ予定が決まってるわけじゃないので、ゆっくり行きましょうか」

 やれやれと言った様子で都が笑う。

 そうして三人は、道の両脇に広がる出店を順番に回り始めた。


 あの日から、わらわはマキの前から姿を消した。


 あの日、意識を失ったマキがダイニングで目を覚まして以降、マキの生活からは、わらわの気配の一切が消え去った。その日は意識を失う前の恐ろしい感覚と『絶交』の言葉が頭の中を駆け巡り、震えて夜も眠れずにいたが、結局何事もなく朝を迎えた。

 そのまま真っ青な顔で登校して、厳しい顔をした七尾と、七尾に連れられた都に話をし、数日様子を見たが、やはりそれからも何かが起こることは無く日常は過ぎていった。

 都はわらわのことで強く当たった事を詫びてから、

「私はマキさんが無事ならそれでいいんです」

 そう喜んでいたが、マキは内心複雑だった。

 このような形になってしまったとは言え、マキはやっぱり、わらわの事が好きだった。わらわのいる日常が堪らなく楽しかった。

 朝の挨拶をされることも。ご飯を掠め取られることも。油揚げをねだられることも。授業の邪魔をされることも。散歩に誘われることも。眠る時に鼻先に当たるふわふわとした尻尾の感触を感じることも。

 その全てがマキの心を満たすささやかな幸せだったと、今ではそう思う。

 少なくともわらわは、マキの誕生日から一ヶ月の間、最も近くで寄り添ってくれた友達だったのだ。そんなわらわが突然いなくなってしまったことが、マキにとってはとてもショックで、なんだか心にぽっかりと穴が空いたような気持ちだった。

 わらわの正体がなんであれ、今まで通りにしていれば何も問題がなかったのではないか。不用意に藪を突かなければこんな結果にならずに済んだのではないか。

 そうすれば、今もわらわと一緒に『とうかさん』を楽しむことが出来たのではないか。

 そう、思わずにはいられなかった。


「マキさん、大丈夫ですか?」

 突然の呼びかけにマキは、はっと顔を上げる。

 目の前には屋台の食べ物を手にした都と七尾が、心配そうな顔でこちらを見つめていた。

「……? どうしたの?」

 その表情の意味が分からず首を傾げるマキを、七尾が指を差した。

「溶けてる」

「え?」

 七尾が示した先を見ると、マキの持っているかき氷が太陽の熱で溶け、カップを持った手に真っ赤なシロップを滴らせていた。

「うわっ!」

 慌てて手を下ろすが、手を伝った水は既に浴衣の袖を赤く染め、肘まで染み込んでいた。急いで近場の水道で洗い流すも、一度染み込んだ着色料は完全には落ち切らず、ぱっと見でもハッキリ分かるほどの染みを残していた。

「おばあちゃんに借りたものなのに………」

「大丈夫ですか、本当に」

 消沈するマキに都がハンカチを渡す。

「なんかマキ最近多いよな、ぼーっとするの」

「そうかなあ…………」

 濡れた手を拭きながら、マキはここ数日の自分を振り返る。言われてみれば、最近はわらわのことを考える時間が多く、そのせいで授業に集中できなかったり、人の話を聞いていない時があった。そして、その中でいくつかの小さなポカをしていたことも。

「うう、そうかもしれない……」

 しょんぼりしながら都にハンカチを返す。

「大丈夫かよ、本当に」

「疲れがあるんでしょうか」

 都が軽く背伸びをしながら、額に手を当ててくる。

「熱は無さそうですが……」

「無理せず帰った方がいいって。ほら、浴衣も濡れちゃったし、そのままだと風邪引くかもしんないだろ」

「うーん……」

 七尾の提案にマキは難色を示す。

「せっかくみんなで集まれたのに」

「こっちはマキが調子悪くする方が嫌なんだよ」

「そうですよマキさん、これが最後ってわけじゃないんです。また今度遊びましょう」

 七尾だけでなく都にもそう言われてしまうと、無理に留まり続けるわけにはいかなかった。

「うん……ごめんねみんな」

「いいよいいよ」

「また学校で会いましょう」

 マキはみんなに何度も謝りながら、帰りの途についた。

 浴衣を汚して帰宅したマキに祖母は一言、「大変だったわね」とだけ告げた。そのまま促されるようにシャワーを浴びた後は、軽い食事を用意され、今日は早めに休みなさいと頭を撫でられた。マキは祖母の言う通りベッドに潜り込むと、自分でも不思議なくらい静かに眠りについた。


            *

 

 朝。マキがいつもの時間に目を覚ますと、なんだかとても体がスッキリしていた。

 マキは朝に強い方ではない。大体は時間ギリギリまでベッドにしがみつき、最後は業を煮やした祖母に引きずり出されるのがいつもの流れだった。しかし今日はまるで羽根でも生えているかのように体が軽い。昨日の気だるさが嘘のようだった。もしかすると、こんなに目覚めがよかったのは生まれて初めてではないだろうか。

「んんー」

 伸びをしながら起き上がり、枕元にあるスマートフォンを手に取ると、チャットアプリのアイコンにメッセージの通知を示す表示がついていた。画面をタップすると、都と七尾から心配のメッセージと、稲荷大社を背景にピースサインをする二人のツーショット写真が数枚送られていた。

「いいな~、羨ましい~」

 ひとしきり写真を眺めてから、二人に『おはよう! 昨日はごめんね~』『来年は絶対行こうね!』と連絡を返す。

 画面を戻すとクラスのグループチャットにも、昨日のお祭りの写真が共有されており、

『とうかさん楽しかった~』

『このまま夜も遊びにいかない?』

『いいね!』

 そんな他愛のないメッセージが見て取れた。その中にはマキに宛てたメッセージもあったが、マキは、『ごめん、調子悪くて寝てた』と謝罪の言葉と手軽なスタンプを送ると、そのままベッドから抜け出して朝の支度を済ませてから、いつもより少し早めに家を出た。


 学校に着くと、都と七尾はまだ登校していなかった。

 マキは取りあえず、他のクラスメイトと雑談をしながら二人を待つことにしたが、みんなの話題はもっぱら昨日の祭りの話で持ちきりだった。

 その話題は当然と言えば当然なのだが、途中で帰ってしまったマキからすると、どうしても楽しみきれなかったという心残りがあって、目いっぱい楽しんだみんなへの羨ましさから、純粋に楽しめない複雑な気持ちがあった。

 みんなのスマホに次々に表示される写真に、マキ以外が話題に花を咲かせる。

 都ちゃんと七尾ちゃん、早く来ないかなあ。

 ぼんやりとそんなことを考えながら、みんなの話に相槌を打つ。そんな中、一人の女子が呟いた。


「そう言えばマキちゃんは、『まだ』なんだよね?」


「え?」

 まだ? 突然投げかけられた意味不明の言葉にマキは当惑する。

 その意味を問う前に別の女子が言う。


「昨日いなかったから『まだ』だねー」

「えー! マキちゃん『まだ』なの!?」

「そっかあ、『まだ』なのかあ」


 マキ以外の全員がそれに同調する。この場にいるマキだけがその意味を理解できずに困惑していた。

「え? え? え?」

「きっとびっくりすると思うよ」

 そう言うと、みんなはマキを囲むように距離を取り、正面にいる女子が代表して呟いた。


「紹介するね、わらわちゃんだよ」


「……!?」

 まばたきの間だった。今まで何もなかったはずの空間に突然、影が現れた。

 それは人の形をしていた。女だった。その女の頭には狐のような耳があり、腰まで届く長い髪を垂らし、無地の着物に身を包み、大きな尻尾があった。それはわらわの姿そのものだった。

 いや、それはマキの知るわらわではなかった。その女は黒かった。黒い耳、黒い髪、黒い着物、黒い尻尾。それは、わらわの白い装束とは真逆の色をしていた。唯一、黒い装束に包まれた白い肌だけがわらわと同じだった。

「…………!」

 その場で固まったまま言葉の出ないマキに、黒いわらわは目を細めながら手を伸ばす。

「よろしくの、マキ」

 どろりと耳から入り込んで体中を溶かす声。それは人の心を被毒させ、腐死たらしめる甘く穢れた蜜のようだった。

 マキは震えながら手を伸ばし、わらわが伸ばした手を取った。


「これで『おともだち』じゃ」


 握った手は氷のように冷たかった。

 

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