怪来怪去 一

３-４

　　　　　　　　　　　　４

「はあ…………」

　学校からの帰り道。とぼとぼと通学路を歩きながら、マキは深いため息を吐いた。

　あれから都は教室に戻ってこなかった。

　七尾によると、落ち着く様子がなかったため取りあえず保健室に連れて行ったそうだが、後になって様子を見に行くとそのまま調子を崩して早退したということだった。

　スマホにもメッセージを送ってみたが、放課後まで既読はつかなかった。

　結局、今朝の件は都抜きで話を進めるわけにもいかず、かと言って何もしないわけにもいかずといった感じで、マキと七尾が頭を悩ませた結果、上手い案が出ることもなく、最終的には各々で解決策を考えておくことになった。

　もっとも、このような事態を解決する方法など、存在するかも怪しいものだが。

「はあ…………」

　そんなわけで、マキは何度目になるか分からないため息を吐くのだった。

　神社やお寺に行ってみたり、身近な大人に相談してみることなども考えたのだが、今の時期の寺社は『とうかさん』の準備があってバタバタしているし、他の大人にしたって同じ理由で忙しくしている。それに、こういった話を大人が真面目に取り合ってくれないことは容易に想像がついたので、これらの案は早々に却下された。

　都が持ってきた例の本をもう一度読んでみようかとも考えたのだが、今朝の騒動の後にマキが教室に戻ると、机の上に広げてあったはずの本は忽然と消え去っていた。どこかに紛れてしまったのかもと思い、机の中やランドセルの中も探してみたが、結局どこにも見当たらなかった。

　こうなると手がかりになりそうなのは、わらわ当人しかいなさそうなのだが、もしもわらわが都の言う通り悪意のある存在であれば、こちらの勘繰りを悟られた時点でなにか良くないことが起こるのではないかと不安を掻き立てた。

「……………………」

　そうして悶々と歩みを進めている内に、いつの間にか自宅まで辿り着いていた。

　マキは家の鍵を取り出してから、しばし玄関前で立ち尽くす。

「…………」

　毎日帰っているはずの家が、なんだか知らない家のように感じられた。

　そんなはずはないと頭では分かっているのに、本能が心のどこかでそれを否定していた。

　マキ自身、わらわに対する不信感が拭えずにいるのだ。都の話を抜きにしても、わらわは尋常な存在とは言い難い。あの時はむきになって都に反発したが、わらわを訝しむ意見を否定することができないこともまた事実だった。

　友達であるわらわを信じたいという気持ちに偽りはない。しかし、それとは別のところで感じる、内臓を撫でるようなざらりとした感情が確かにそこにあった。

　ごくり。心の内に湧き上がる緊張感を、唾と一緒に飲み下す。

　いつまでもこうしてはいられない。マキは、ふぅーと息を吐くと、意を決して玄関の鍵を開けた。

「ただいまー」

　家に入って鍵を閉めると、土間の端に靴を揃える。定位置に靴がないところを見るに、祖母は外出中らしい。

　薄暗い玄関と廊下に繋がる照明を点けて洗面所に向かい、手を洗ってダイニングに入ると、わらわがテーブルに着いていなり寿司を食べていた。

「おお、おかえり」

　わらわは笑顔を浮かべてマキに手のひらを上げて見せると、再びお皿に乗ったいなり寿司に手を付ける。お皿の隣にはくしゃくしゃになったラップと、「好きなだけ食べてね」と祖母の字で書かれたメモ書きがあった。

「そろそろ帰ってくる頃だと思っておったぞ」

　言いながら、大きないなり寿司を丸ごと口に放り込む。

　その光景にマキは内心で胸を撫で下ろしていた。わらわが食べているいなり寿司は、先だって祖母にお願いしていたものだ。それを確認したことで、朝からずっと危惧していた、わらわへのお供え物を切らしているのではないか、という不安はひとまず解消された。

　冷蔵庫にあったお茶を注いで椅子に腰掛けると、体に張っていた緊張がほぐれて気持ちが楽になった。

「お腹空いとらんか？　わらわはお腹ペコペコじゃから先にいただいておるぞ」

　わらわがいなり寿司で頬を膨らませながら言う。

「う、うん、大丈夫。全部食べちゃっていいよ」

「本当か！？　やったー！」

　両手を上げて喜ぶわらわにマキは安心する。こんなに無邪気に喜びながらいなり寿司を頬張るわらわが、悪い妖怪や害のある怪異だとはどうしても思えなかった。そんなわらわを疑ったことがなんだか申し訳なくなった。

　やっぱり、わらわちゃんが悪いものなはずがないよね……。

　きっとあの本に書いてあったことは間違いか、たまたまわらわと似ているだけの無関係な内容だったんだ。

　そう思うと、なんだかおかしくなって自然と笑みが零れた。

「な、なんじゃ？」

　突然、くすくすと笑い出したマキにわらわが困惑する。いなり寿司を手におろおろと戸惑うその様子がまた可愛らしく、こんなわらわを一日中疑っていた自分がおかしくなり、抑えきれずに声を出して笑ってしまう。

「あはっ！　あはははははは！」

「ま、マキがおかしくなってしもうた……！」

「ごめっ、ごめん！　あはは、ホントごめん！　そうじゃなくて、あははははははは！」

　我慢しようと思うと、それが更に笑いを加速させる。

　マキはお腹を抱えてひとしきり笑うと、目元に浮かんだ涙を拭った。

「あー、おかしい。ごめんねわらわちゃん」

「いきなり笑いだすから、こっちはびっくりしたぞ」

「ごめんごめん、そんなつもりじゃなくて」

　胸の前で手を振って否定するが、未だに心の中で燻っている感情が小さな笑いを誘う。

「なにか面白いことでもあったのか？」

「そうそう、実は学校でね───」

　首を傾げるわらわに、マキは今日の出来事を話し始めた。

　…………今にして思えば、これが私たちの運命を変えた瞬間だったのだろう。

　　　　　　　　　＊

　マキの話は長くも短くもない時間でまとめられた。

　話し始めた頃は段になっていたいなり寿司は、わらわによってひとつ残らず無くなっていた。

　顛末を話し終えたマキは、改めてその内容と、目の前で空になったお皿を眺めて口を結んでいるわらわを照らし合わせて、そのギャップに笑った。

「あはは、ごめんね。わらわちゃんがそんな本に出てくるような、変なのとおんなじ名前なんだと思うとおかしくって」

　不気味な怪談。恐ろしい怪異。どれもわらわには似合わないものだ。いつものご飯をねだりにくる様子からは、そんなものに関係しているとは到底思えない。

　恨みを込めて人を呪うわらわの姿を想像すると、その似合わなさに再び笑いが込み上げた。

「ねえ、おかしいよね。わらわちゃん」

「………………」

　返事は無かった。

　わらわは空になった皿を見つめたまま動かない。普段は感情に合わせてせわしなく動いている耳や尻尾も固まったように動いていなかった。

　不思議に思い、マキは声をかける。

「わらわちゃん？」

「なんじゃ」

　知らない声だった。

　いや、それはわらわの声に違いなかったが、普段のわらわのものとはまるで違う、低く冷たいものだった。初めて向けられるその声色に、目の前にいるのはわらわの見た目をした別人ではないかとすら感じた。

　ぞ。

　ひどく現実感のない感覚にマキの全身が総毛立った。鋭敏になった肌の表面を、ひんやりとした空気が撫でていく。陰鬱とした影の滲む室内は、春の夕暮れ時とは思えないほど薄暗かった。

　マキの体は椅子に座ってわらわの方を向いたまま、凍ったように動かない。まばたきすら出来ずに硬直したマキの視線の先には、こちらを見つめるわらわの目があった。

　黒目が異常なほど拡大していた。

「………！」

　大きく広がった黒い角膜が、目頭から目尻までを埋め尽くして白目を塗り潰しており、その中に深い縦筋の瞳孔があった。それはまるで猫科動物の瞳のようだった。いや、それは狐だった。人を化かし、人に取り憑く狐の目そのものだった。

　その目がマキを見つめている。マキの存在を視線ごと飲み込もうと捉えて離さない。

「マキ」

　怪異が言った。

「わらわを信じられんのか？」

　その言葉にマキは肯定も否定も出来なかった。ただただ恐ろしかった。異常な状況、異常な瞳、異常なわらわ。恐怖に縛られた体は硬直したまま、ぴくりとも動かない。身動きひとつ取れない。声さえも出せない。蛇に睨まれた蛙のように、マキはただ飲み込まれるのを待つだけだった。

「マキ、わらわを怒らせないでおくれ」

　それは白い顔に大きく空いた穴のように真っ黒な瞳と、真っ黒な口で語りかける。

　マキは答えられない。こちらに向けられた三つのおぞましい穴から視線を逸らせずにいる。開かれたまま硬直した瞼は目を瞑ることすら許さない。

　やがて、

「…………そうか」

　それは一言、そう言うと、

　す、

　と、椅子から立ち上がり、ゆっくりと歩きだした。歩きだし、机を隔てたマキの方へと近付いてくる。

　す、す、す、

　動くことのできないマキは、わらわが座っていた空っぽの席を見つめることしかできない。やがてそれは動かすことのできないマキの視界の端から見えなくなり、部屋の中に衣擦れの音だけを響かせた。

　そして、

　ぴた、

　と、マキの背後にそれは立った。

「………………………………」

　視線。

　背後から感じる視線。

　それはマキの背中にぴったりと密着したまま動かない。ただ、頭頂部に伝わるちりちりとした感覚が、背後に立つそれがこちらを見ていることを感じさせた。

　そしてそれは、マキの背後に立ったまま、ゆっくりと、首を、垂れた。

「───！」

　白く長い髪が頭を、顔を、目を、鼻を、口を、首筋を、肩を、胸を、すだれのように覆う。動かすことのできない空っぽの視界が白で細断されていく。そして、マキの頭に覆い被さったそれから感じる真っ黒な三つの穴。そこから漏れ出す、獣の視線とおぞましい吐息が、マキの精神を狂気の色に染め上げた。

　何をされているのか分からなかった。動くことも声を上げることも出来ない状況で行われる、この異常な行為がひたすらに恐ろしく、マキの心は気が狂わんばかりの悲鳴を上げていた。

　おかしくなりそうだった。いや、早くおかしくなりたかった。こんな恐ろしい状況で狂気に飲み込まれずに、未だに正気を保っている自分の精神に狂ってしまいそうだった。

　そんな中、マキは気付いた。

　それが何かを言っている事に。

　頭に押し付けられた口で何かを捲し立てている事に。

　そして、それに気付いた瞬間、

「────ここへは戻らん」

　それだけを言い残し、わらわの気配がふっと消えた。

　先ほどまで感じていた肌寒さと、底知れない狂気が空気中に霧散した。

　そして、それと同時にマキの意識も闇の中に溶けていった。

　…………

　……………………………

　…………………