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「マキちゃん、マキちゃん」
誰かの呼ぶ声がする。聞き慣れた声のような気がするが、体がふわふわ浮かんでいるような気持ちがして意識がぼんやりしている。
「マキちゃん、ほら、マキちゃん」
今度は体をゆさゆさと揺すられて、ふわふわの体がぐにゃぐにゃと揺れ動く。
あったかくて気持ちいいんだから、もうちょっとこのままでいさせてよ。
「いけません、もう朝ですから」
そう言われて目が覚めた。
寝ぼけまなこを擦ると、おばあちゃんがいた。
「マキちゃん、起きた? 学校に行く時間よ」
それを聞いたマキはしばらくぼんやりしていたが、言葉の意味を理解すると、がばっとベッドから飛び起きた。
「学校!」
血液が一瞬で体の末端まで行き渡る。
どたどたと音を立てながら廊下を走り抜けて洗面所の蛇口を捻る。大急ぎで顔を洗ってぼさぼさの髪に櫛を通すと、セミロングの髪を慣れた手つきで整えた。素早く学校指定の制服に着替えて姿見で自分の身だしなみを確認する。
「……よし」
笑顔で今日のチェックを締めくくると、マキはキッチンに向かった。
キッチンではおばあちゃんが朝食を準備していた。
「おばあちゃんごめん! 急ぐから朝ごはんいらない!」
「あらそうなの、でも朝を抜くのはよくないから食パンだけでも食べなさい」
そう言って、マキの口に焼けたトーストを咥えさせた。
薄くマーガリンが塗られたそれを口に含んだまま、マキは玄関に急いだ。
玄関先に置いてあったランドセルを背負って靴を履いていると、見送りに来ていたおばあちゃんが声をかけた。
「マキちゃん、お稲荷さん食べてくれてありがとうね」
謝罪の意図が含まれた声色に、マキは口を塞いでいたトーストを離して返事をする。
「ううん、私の方こそ昨日はごめん。美味しかったよ」
「ありがとう、マキちゃん。それじゃあ、いってらっしゃい」
「うん、行ってきます」
短い会話を交わして、家を出る。
胸の内にあったもやもやが解消された気がした。おばあちゃんに抱いていた罪悪感を掃ってくれたのは、他の誰でもないおばあちゃんだった。
やっぱりすごいな、おばあちゃんは。
そう感じながら、ふと思い出した。
記憶の外へ無意識に追いやっていたあの出来事。昨夜見たあの影について。
昨日のあれは夢だったのだろうか。いや、きっと夢だ。そうに違いない。
ぞわりと背筋を撫でる感覚を振り払って、マキは通学路を足早に駆けていった。
*
人口はおよそ四万人。市としては最低限の小さな都市である。
海岸には原綿港という小さな港があり、そこから内陸に向けて緩やかに高度を増す土地は、不規則に聳え立つ壁のような山に阻まれている。
右を見れば海があり、左を見れば山がある。一言で言うとそんな場所だった。
この街の経済の一部は、古くから続く綿の栽培によって動いているが、安価で安定的に供給される輸入品の物量に押され、興隆を極めた時期から見れば雀の涙ほどの規模となっている。
かつてはこの歴史ある産業を観光資源にしようと、市の肝入りで綿畑を存続させる動きもあったが、観光地としての立地の悪さと、なり手の減少が重なり、今ではそれらの施策も白紙に戻っている。
観光事業自体は失敗に終わったが、成功した産業もあった。
綿を加工する紡績業は地元のアパレル産業と提携することで、加工工程からデザイナーの意見を取り入れた染色や紡績糸を生産するという、芸術方面での発展を遂げた。
仕立てられた衣装は、年代を問わずに調和したデザインが人気で、市職員や銀行、学校の制服にも採用されており、過去には原綿市であつらえたスーツを着用していた議員がテレビに映ったことで、注文が殺到した事例もあるほどだ。
そういった経緯もあって原綿市は芸術家やデザイナー、果ては制服目当てで進学や就職を決める者の多い、少し変わった土地になった。
マキの通う小学校、
原綿小学校はそういう都市の中心地にあった。
*
「もうほんと、大変だったよ~」
友人たちの視線を受けながら、マキはため息交じりにぼやいた。
学校での境井マキは、そこそこの生徒として評価されていた。
学業もスポーツも特段優秀というわけではないが、そこそこの点数をキープしており、友人関係もそれなりにある。遅刻や欠席は病欠を除いてほぼ無し。目立った問題は起こさず、大人の手を焼かない子ども。準優等生的な立ち位置。
平たく言えば、マキは普通の子だった。
そんなマキが授業開始のチャイムと同時に教室に飛び込む様は、ちょっとした非日常の出来事として捉えられた。
そんなわけで一限目が終わったマキは、友人たちの事情聴取にあっていた。
「それで寝坊して遅刻ギリギリだったってわけ?」
「七尾さん七尾さん、この人これで一個上なんですよ」
昨夜の出来事を包み隠さず伝えると、
七尾は小学五年生になったばかりだというのに、一六〇センチと長身の女子だ。運動もかなり得意で、聞けば自宅が武道の道場なのだそうだ。短く切り揃えられた髪もそのためらしい。男子との交流も多く、よく男の子と一緒に校庭を駆けている姿を見る。
対照に、都は低身長の女子だ。七尾と並んでも頭一つ分は小さい。本人は成長期が来てないだけだと嘯いている。ただ勉強はかなり出来る方だ。生粋の読書家でもあり、暇を見つけてはジャンルを問わずに色々な本を読んでいる。都曰く、『活字フリークス』なのだそうだ。
この二人は去年からの同級生で、今年も同じクラスになった特に仲のいい友達だった。
「もう都ちゃんやめてよ~、てか同い年だし」
「いやいや、流石に面白いでしょ」
「そうですよ、中々出来ませんよ。高学年にもなってお化けが怖くて寝られなくなるなんて」
都がせせら笑う。
「メンタル低学年じゃないですか」
容赦のない追い打ちに、マキは顔を真っ赤にして反論した。
「で、でも、本当に怖かったんだからね! 都ちゃんだって同じ目に遭ったらきっと眠れなくなるよ!」
「私はそんな変なおまじないやらないんで大丈夫でーす」
「うぐ……」
そう言われてしまえば、閉口するしかない。
目を覆い隠すほどの長さの前髪から覗く、都の瞳は実に楽しげだった。
「な、七尾ちゃんも怖いよね、こんなことになったら」
助け船を求めて、都の隣で成り行きを見守っている七尾に訴える。
「うーん、でもなにかされたとかじゃないんでしょ」
「それは、そうだけど……」
「じゃあ怖くないじゃん」
そう、にべもなく返される。
「えぇ……武道やってる人ってみんなそうなの?」
「耳にタコが出来るほど言われるんだよ。恐怖は体をこわばらせるから、いつでも冷静に対処できるようになれって」
七尾が師範の言葉を思い出しながら、動きやすいよう整えられた短髪をがしゃがしゃとかき回す。
「まあ私はともかくマキは怖かったみたいだし、ミヤもあんまからかってやるな」
「それもそうですね」
諫める七尾に、都は気のない返事をする。
「それはそれとして、『わらわちゃん』……でしたっけ? この辺りに伝わる昔話かなにかですか?」
都の疑問にマキはそのことを思い出した。
「あ、そうそう。『わらわちゃん』。原綿市だと割と有名なんじゃないかな」
「そっか、ミヤは去年越してきたんだもんな」
「ええ、稲荷神社とか、狐のお社が多いなとは思っていましたが」
「でもわらわちゃんを呼ぶ方法、なんてのは初めて聞いたな」
「本当? でも私も、おばあちゃん以外からは聞いたことないかも」
そこまで話してから、マキはふと気付いた。
とん、と肩先を誰かに叩かれた気がしたのだ。
振り返ってみたが誰もいない。そこにいるのは声を上げてはしゃぐ男子と、友達と仲良さそうに談笑する女子だけだった。
「?」
疑問に思うマキだったが、その正体を確認する前に授業開始のチャイムが鳴り、担任教師の声と共にグループで固まっていた全員がそれぞれの席へと戻っていった。
不可解な気持ちはあったが、マキもみんなと同じように教科書を取り出して授業に集中することにした。
肩には誰かが触れた感触だけがうっすらと残っていた。
*
その感覚は一日中付きまとった。
ふとした時に感じる視線、耳元で囁くような声、すれ違い様に起きる衣擦れのような音。まるで自分以外の誰かが傍にいるような気配が常にあった。
遂には、手に持っていたはずの鉛筆がいつの間にか無くなったり、開いていたはずの教科書が視線を外した隙に別のページになっていたりと、明らかな違和感として現れるようになった。
決定的だったのは給食の時間。マキが配膳を終え、「いただきます」が教室に響いた直後、たった今まで自分の前にあったはずのご飯が綺麗に無くなっていたのだ。
目を白黒させて混乱するマキだったが、この異常な事態をどう処理すればいいのか分からず、結局誰にも言い出せないまま給食の時間が終わった。
その後は体調がよくないからと、適当に誤魔化して早退することにした。
「ただいま」
玄関を開けるとおばあちゃんが奥からパタパタと駆けてきた。
「マキちゃん大丈夫? 学校から連絡があったのよ」
「大丈夫、ちょっと疲れてただけだよ」
おばあちゃんの心配そうな顔を見ると、慣れない嘘をついた事に小さな罪悪感を感じたが、お昼を食べ損ねたことによる空腹感がそれをかき消した。
「ごめん、ちょっとお腹空いてるんだけど、なにかあるかな」
「あらあら、それじゃあ準備するからマキちゃんはお部屋で休んでおいで」
「ありがとう」
申し訳ないと思ったが、おばあちゃんの好意にありがたく甘えることにした。
自室に戻って制服から部屋着に着替えたマキは、力尽きたようにベッドに倒れ込んだ。
「なんなのよ、もう」
深いため息を吐きながら、今日の出来事を思い返す。
あの不可解な出来事はなんだったんだろうか。どう考えてもなにかおかしな事が起こっているとしか思えない。それとも、
「私、どうかしちゃったのかな………」
そう、ひとりごちた。
「いやいやまったく正常じゃよ」
「!」
ひとりのはずの部屋で突然言葉を投げかけられて、マキは思わずベッドから跳ね起きた。
「な、何⁉」
慌てて左右に視線を向けて部屋の中を見回す。
「何とは失礼な、せめて『誰』と言わんか」
声のした方を振り向くと、そこには和服姿の見知らぬ女が立っていた。
いや、マキはこの女を知っていた。
腰まで届く真っ白な髪、それと同じくらい白い着物。それはまさしく昨夜、鏡越しに見た幽霊の姿だった。そして昨夜は気が付かなかったが、その頭には狐の耳がついており、腰からも体の半分ほどの大きさのふわふわとした尻尾が垂れていた。
「あ……あ…………」
マキは目の前の現実を受け止めきれず、ただ立ち尽くしていた。
「なんじゃあ、自分で呼んどいて」
女がむっと頬を膨らませる。
「わらわが誰か分からんのか」
動転した不安定な心をなんとか理性で抑えつけたマキは、塊のような唾を飲み込むと、震える声で言った。
「わ、わらわちゃん…………」
女は満足したように目を細め、にこりと笑った。
「いかにも」
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