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世界は不思議に満ちている。
特に子どもが見る世界はあらゆる出来事が不思議そのもので、むしろ不思議でないものの方が少ないくらいだ。
ご機嫌だったのに突然涙を流す空、火に炙られて身をよじる風、人や車の往来に合わせてまばたきをする信号機。
それら全てが不思議の産物だった。
マキもその感覚を持って成長し、そして知識や経験を蓄える内に少しずつ世界から不思議は消えて行った。
今では狐の嫁入りも、陽炎も、信号機の仕組みだって知っている。晴れてても雨は降るし、空気は熱で揺らぐし、信号機を管理しているのは交通管制センターのコンピューターだ。
かわいい動物やぬいぐるみとお話はできないし、みんなを守ってくれる魔法使いはいないし、人を驚かせるお化けもいない。
こうして世界から不思議は段々と少なくなって、いずれ大人になる頃には、全てを知ってしまうのだと思っていた。
だがそうではなかった。
今まさに目の前にある光景は、これまでの知識、経験、常識そのどれにも当てはまらなかった。
『わらわ』と名乗る、人の形をした白狐は、自身の存在をもってマキの常識を打ち砕いた。
この世界には目に見えない未知の領域が存在したのだ。
「久しいな、このように人前に姿を見せるのは」
わらわは首を巡らせて自分の体をしげしげと眺めた。
「しかし、一時はどうなる事かと思ったぞ。呼ばれて来たはいいものの、気付けばお主は先に寝とるし、起きたら起きたでわらわに気付かんし」
ピン、と鼻先に指を突き付けられ、思わずマキの体が固まる。
「流石に、いなり一個では力が出んわ」
わらわは唇を尖らせて抗議すると、言いたいことは言ったという風に満足して続けた。
「あんまりじゃったんで、お主の昼餉をもろうてしもうたが文句はあるまい」
そのまま、カカカと快活な笑い声を響かせた。
声に引っ張られているのか感情的な表現なのか、大きな尻尾がぱたぱたと左右に揺れていた。
マキは固まったままその様子を見ていたが、そのうちおずおずと口を開いた。
「…………あの」
「なんじゃ」
細く笑っているような目に、小さな緊張が生まれる。
「わらわちゃんは、どうして私のところに来てくれたんですか」
「そりゃお主と友達になりたかったからじゃ」
「でもまさか本当に………」
未だに困惑を隠せないマキに、わらわが少しだけ悲しそうな顔をしてみせた。
「もしかして、わらわはお呼びでないのか……?」
「あっ、いえ、そういうわけじゃないんですけど」
「じゃあいいじゃろ、友達なんて取りあえずなっとけばいいのじゃ」
そう言うと、マキの手を握って上下にブンブンと振り回す。
「そ、そういうものですか?」
「型っ苦しいのう、お主は友達に対してもそういう喋り方をするのか」
「いえ……しません」
「ではわらわにもそのように接しておくれ」
「あっ、はい」
「はい?」
「えと、わかった」
「うむ」
なんだか色々と強引に決められてしまったが、わらわから悪意のようなものは感じられないので、マキは取りあえず納得することにした。
マキはこういう自分の能力で処理しきれない状況に陥った場合、目の前の相手の話を鵜呑みにするという少し危うい性格をしていた。
その時だった。
「──────マキちゃん」
「!」
不意に名前を呼ばれたマキは、弾かれたように部屋の扉に顔を向けた。
おばあちゃんだ。
「マキちゃん、ご飯を持ってきたからドアを開けてちょうだい」
「ち、ちょっと待って」
わらわちゃんを見られたら、どう説明すればいいのか分からない。と言うか説明のしようがない。
先に開けられないように慌てて扉に駆け寄ると、ドアノブを捻って薄く扉を開いてから、目だけを隙間から覗かせた。
「マキちゃん、どうかしたの?」
廊下のおばあちゃんが怪訝な顔をする。手に持ったお盆の上には出来たてのきつねうどんが湯気を立てていた。
「ううん、なんにもないよ。うどんありがとう」
「誰かと話していたみたいだけど、お友達?」
「えっと、電話してて……」
「そう?」
「………………」
「マキちゃん、なにか隠してない?」
ぎょっとした。
おばあちゃんはこういう時、妙に勘が鋭い。
『霊感』や『第六感』とでも言うのだろうか。
失せものを見つけたり、事故を未然に回避したり、大きなものだと火事を予言したこともあった。その時に放火を疑われて家に警官が来る騒ぎになったからか、家の外でそういった事は言わなくなったが、以降も折に触れて家族に注意を促すことがあった。
とにかく、そういう感覚があるのなら、おばあちゃんは間違いなく『持っている』人だった。
そんなおばあちゃんの視線が今、私に向けられている。
「……………………」
皺の濃い顔に埋まった水晶のような瞳が、直接心の中を覗き込むようにマキの表情や動きを観察する。
射抜くような視線に、動くことが許されないとさえ錯覚する。
そして、口元を引き結んでいたおばあちゃんがなにかを言おうと、息を吸い込んだ時だった。
「こゃ~ん」
マキの背後から、なんとも間抜けな声が抜けて行った。
それはわらわが発した猫の鳴き真似だった。だがそれはどう聞いても猫には聞こえないくらいヘタクソなものだった。
何を考えているのか、鳴き声を発したわらわはどこ吹く風といった顔をしている。
「……………………」
冷たい汗が伝うような沈黙が流れた。
今の鳴き声はおばあちゃんにも聞こえただろうか。もし聞こえていたならどう言い訳をしようか。わらわちゃんを見られたらどうしよう。頼むから今だけは耳遠くあってくれないだろうか。
頭の中をあらゆる考えが駆け巡る。しかし、マキのそんな不安はすぐに解消された。
おばあちゃんはしばらく考えるようなしぐさをすると、
「気のせいね」
そう言ってマキにお盆を手渡した。
「え? あっ」
虚を突かれたマキは、焦りながら渡されたお盆を受け取る。
「食べたら流しに置いといてね」
それだけ言うと、おばあちゃんは自分の部屋に帰っていった。
さっきまでの沈黙が嘘のような流れだった。
「…………」
何とも言えない空気が漂った。
マキはお盆に載ったきつねうどんを落とさないように机の上に置くと、そのまま床に倒れ込んだ。
「はあ~~~~~~」
緊張から解放されたことで一気に力が抜けた。
わらわちゃんの事がバレなくてよかった。本当によかった。
どう説明すればいいのか分からないこともそうなのだが、もしも霊感の強いおばあちゃんに見られてしまったら、なにか良くないことが起こるんじゃないかという不安が心のどこかにあったのだ。
実際にはなにも起きないかもしれないし、この不安は未知の存在に相対したことで感じる、ただの杞憂なのかもしれない。
わらわちゃんが一体どういう存在なのかは分からない。でもしばらくは───少なくとも、自分の中で答えが出るまでは一緒にいてもいいのかもしれない。それまでおばあちゃんには秘密にしておこう。
せっかく友達にもなったんだしね。
マキはそう思ってわらわを見た。
わらわがきつねうどんに乗っているお揚げをつまみ食いしていた。
やっぱり見せた方がよかったかもしれない。
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