怪来怪去 一

ゆーき

一章 わらわ

         1


 十一歳の誕生日、境井さかいマキは呪われた。


 マキの誕生日はいつも桜が散る前にやってくる。

 それは四月生まれは成長が早くて有利だろうと考えた両親の計画によるものだったが、マキはこの誕生日があまり好きではなかった。

 新学期に変わってすぐの頃は、クラス替えでシャッフルされた同級生たちとの人間関係が新たに構築される段階で、お互いの名前を覚えたり、好きなものや苦手なものを教え合ったりと、手探りの状態からスタートする。

 そんな未熟とも言える関係で「もうすぐ誕生日なんだ」などと言っても、社交辞令的な反応しか返ってこないのは当然で、マキはこれまでの短い人生の中でそういったことを何度も経験してきた。

 だからマキは、自分の誕生日があまり好きではなかった。

 それでも誕生日を喜ぶことができたのは、忙しくて家を空けがちなお父さんとお母さんが毎年この日だけは、二人揃ってマキの誕生日を自分のことのように祝ってくれるからだった。

 だが、今年はそうではなかった。

 大きな工場をいくつも持つ会社に勤めているお父さんは海外出張から帰ってこず、地元の病院で医師としてキャリアを積むお母さんも急な仕事があるからと帰ってこられなかった。

「どうしても帰れなくて」

「ちょっとトラブルがあって」

「この埋め合わせは必ずするから」

 謝罪とともに、そんなありあわせの言葉を置いて。

 もちろん理解はしていた。マキももう道理の分からない子供ではない。お父さんもお母さんも仕事をしているのはマキのためだ。誕生日に帰れないことを二人とも心苦しく思っているはずだ。

 そう、理解はしていたが、両親ともに誕生日を祝ってくれないという事実は、マキの心にぽっかりと穴を開け、どうしようもない悲しみとやるせなさが胸の内を引き裂いた。

 これだけであれば、まだ飲み込めたかもしれない。

 だが、マキの心を最後に砕いたのは一緒に住んでいるおばあちゃんだった。

 お祝いだから、と言って祖母が食卓に並べた夕食は、誕生日を祝うチキンやハンバーグといった華やかな料理ではなく、色味も地味で素朴を絵に描いたような、いなり寿司だった。

 愕然とした。期待や望みから突き放された気分になった。

 せめて色鮮やかな散らし寿司であればまだ納得ができたのかもしれない。シチューやオムライスのような手軽なものでもちょっとしたお祝い感があって溜飲を下げられたかもしれない。しかし目の前に出されたのは、華やかさの欠片もない茶色い油揚げに包まれた、いなり寿司だった。

 自分の中で何かが壊れる音がした。

 マキは耐え切れずにダイニングを飛び出すと、背中から聞こえる祖母の声を無視して自室にこもった。扉に鍵をかけてベッドに飛び込むと、全身を覆うようにシーツを被り込んだ。

 部屋の外から祖母の心配する声がしたが、

「ほっといて!」

 と叫んだ。

 短い沈黙の後に、スリッパを履いた足音が遠ざかるのが聞こえた。

 聞こえない振りをしながらその音をやり過ごしたマキだったが、しばらくすると、自分が子供っぽい癇癪に振り回されて何の非もないおばあちゃんに怒りをぶつけてしまったことに自己嫌悪を覚えた。それと同時にそれまで我慢していた悲しみが胸の内から溢れ出し、マキの心をぐちゃぐちゃにかき乱した。

 決壊したように涙が溢れて、シーツを被り込んだまま赤ん坊のように声を上げた。

 マキは呪った。

 いつか来るのではないかと恐れていた、不幸な誕生日が来てしまったことを。

 たとえ来年、再来年と素敵な誕生日を迎えたとしても、今年の誕生日は傷として残り続けるだろう。そしてまたいつか、不幸な誕生日を迎える日が来るのではないかと怯えることになるのだろう。自分はそういう消えない呪いにかかってしまったのだ。

 閉め切られた部屋の中、被り込んだシーツの中に吐き出すように、マキはただ声を上げて泣き続けた。


         *


 瞼越しに光を感じて目を開くと、自室の白い照明の光が目に入った。

 手で光を遮って窓を見ると、外はすっかり暗くなっていた。

 いつの間にか疲れて眠っていたらしい。スマートフォンを見ると、すっかり深夜の一時を過ぎていた。

 もうこんな時間になっているなんて。

 目を擦ると、乾いた涙の痕が頬をひりつかせた。

「顔、洗いにいこ……」

 マキは、のっそりとベッドから起き上がって洗面所に向かう。鏡には目の周りを赤くした自分の顔が映っていた。

 蛇口から流れる水がお湯になるのを待ってから、マキは顔を洗う。涙と鼻水で汚れた顔がスッキリすると、気分も少し晴れてきた。気持ちが上向くと、体が思い出したかのように、ぐう、と空腹を訴えた。

「なにか食べようかな」

 冷蔵庫に軽く摘まめるものでも入っていないだろうか。そう思いながらダイニングに入ると、テーブルの上にラップのかけられたお皿が置かれてあった。

 マキが手を付けずにいた、夕飯のいなり寿司だった。お皿に並べられたいなり寿司は、この時間に食べるのにちょうどいいくらいの量だった。

 落ち着いたマキが夜中にお腹を空かせるだろうと、祖母が用意してくれていたのだろう。

 それを思うとマキの胸が、ちくりと痛んだ。

 こんなにも自分のことを気遣ってくれるおばあちゃんに、あんな態度を取ってしまうなんて、自分はなんて悪い子だったんだろう。

 思えば、この家でマキと最も接している家族はおばあちゃんだった。

 仕事熱心な両親に代わって子供の頃からマキの世話をしてくれていたのはおばあちゃんであり、希薄になりがちな家族の仲を取り持ってくれていたのもおばあちゃんだった。

『お父さんとお母さんはお仕事であんまり家にはいないけれど、いつもマキちゃんのことを思ってくれているんだよ。だからマキちゃんもお父さんとお母さんを好きでいてあげてね』

 幼い頃から何度もそう言ってくれていたのは、他でもないおばあちゃんだった。だからマキは家を空けがちな両親のことも好きでいられたのだ。

 授業参観や運動会、地域の行事でも、両親が参加できない時は必ずおばあちゃんが来てくれた。年に数回しか会えないお父さんの不在を寂しく思う時も、仕事優先のお母さんに蔑ろにされた時も、その空白を埋めてくれたのはいつもおばあちゃんだった。

 おばあちゃんだけが、いつもマキを最優先に考えてくれていたのだ。

「ごめんね、おばあちゃん……」

 マキは、ぽつりと呟いて、お皿にかけられたラップを剥がす。マキが愛用している桜色の和柄のお皿が、いなり寿司を綺麗に彩っている。さっきは気が付かなかったが、いなり寿司は食べやすいように、小さな手まりの形をしていた。よく見ると、それぞれ味付けも変えてあるようで、酢飯の色や混ぜられた具材が異なっている。

 ひとつ摘まんで口に運ぶと、甘じょっぱい煮汁がじゅわっと油揚げから染み出した。

「……美味しい」

 いなり寿司の地味な見た目からは想像が出来ないほど、旨味と甘味が複雑に絡みあった優しい味だった。まるでそれが、おばあちゃんの愛情をそのまま表しているようで、思わず目頭が熱くなった。

 ゆっくりと味わってから飲み込む。自然と涙が溢れた。

 おばあちゃんごめん、あんなこと言って。

 続けて口に運ぶ。味わって飲み込む。もう一つ食べる。飲み込む。もう一つ。もう一つ……。

 マキは祖母への謝罪と、感謝を噛み締めながら咀嚼を続けた。

「…………」

 気付けば、いなり寿司は最後のひとつになっていた。

 空腹も収まり、落ち着いた頭で考えると、やっぱりおばあちゃんにちゃんと謝りたいとマキは思った。

 しかし時間はもう二時になろうとしていた。こんな深夜におばあちゃんを起こして話をするのは、流石に迷惑になるだろう。それでもマキはおばあちゃんに謝りたくて、ありがとうを伝えたくて、そのためになにか出来ないだろうかと思案した。

「…………あ!」

 少しの間考えて、ふと思い出した。

 それは小さい頃、おばあちゃんに教えてもらったおまじないだった。

 それは、困った時に助けてくれる神様を呼ぶためのおまじない。


 『わらわちゃん』と呼ばれる狐の神様を呼ぶためのおまじない。


 突拍子もない考えだったが、今のマキにとっては、なんだかとても素晴らしい思い付きに感じられた。

 居ても立っても居られないマキは、大急ぎで『わらわちゃん』を呼ぶための準備を始めた。

 わらわちゃんを呼ぶ方法は簡単だ。


 心のこもったお供え物を用意して、鏡の前でこう唱えなさい。

『わらわちゃん、わらわちゃん、おともだちになってください』

 そうすればわらわちゃんが現れて助けてくれるからね。


 ずっと前におばあちゃんに教えてもらったおまじないだったが、不思議と印象に残っていたそれを、マキは記憶を頼りに実行した。

 一度自室に戻って手鏡を持ってくると、ダイニングテーブルに腰掛ける。お供え物には残ったいなり寿司を用意した。

「狐の神様なんだから、多分喜ぶよね……」

 それに自分やおばあちゃんの気持ちもこもっているんだから、きっと問題ないだろう。

 マキは手鏡に映った自分の顔を見る。平面に映し出された自分の姿に、これからおまじないをするんだという実感が湧いてきて、微かな緊張が肌を内側からひり付かせた。

 ごくり、と唾を飲み込むと、マキは口を開いた。



「わらわちゃん、わらわちゃん、おともだちになってください」



 その言葉は、静かな部屋の中で妙に響いたような気がした。

 そして、


 ふっ、


 と部屋の電気が唐突に消えた。

「⁉」

 自分の手元すら見ることのできない闇の中に、マキは突然放り出された。

 本能的に体が硬直し、視覚以外の感覚が鋭敏になった。周囲には自分の他には何も感じられない。ただ、異常なほど静かだった。

 しん、とした空気が周囲に広がっていた。音を立てることさえ許されないと感じるほどの静寂が支配する空間には、きーん、という耳鳴りのような無音の音が広がっていた。

 もしかして、なにかよくない事をしてしまったのではないだろうか。

 緊張で固まった体に、つうと冷たい汗が流れる。

「……………………」

 沈黙。それに引きずられるように滲む不安感。

 しかし、マキの不安に反して、それ以上何かが起こることはなかった。

 しばらくすると、ぱっと明かりが点き、そこには先ほどと変わらないダイニングの光景があった。

「………びっくりしたぁ」

 マキは緊張を吐き出すようにため息をついた。暗闇から解放された安心感から、心と体が弛緩する。手のひらが汗でぐっしょりと濡れていた。濡れた手を服の裾で拭いながら、マキは小さく笑った。

「あはは、私なにやってんだろ」

 冷静に考えてみれば、こんなことをしたところでおばあちゃんに気持ちが届くはずもない。タイミングのよすぎる停電には驚いたが、ここの電球は長い間交換していなかった気がする。きっと電池の寿命が近いのだろう。

 明日になったら、おばあちゃんにきちんと謝って、感謝の気持ちを伝えよう。

 そう思い、マキは寝る準備をするために、椅子から立ち上がって手鏡を取った。



「………………っ!」



 反射的に振り返った。

 視線の先には何もなかった。そこにはいつも通りのダイニングの景色が広がっている。

 しかしマキは見てしまったのだ。


 鏡に映った自分と、その背後の空間に映る、人影を。


 白く、長い髪をしたそれは、髪の色と同じくらい白い和服を身に纏い、まるで古い日本画に描かれた幽霊のように佇んでいた。

 一瞬、見間違いではないかと思った。いや、そんなはずはない。あれは確かに私の後ろで、

 視界には依然として変化はなかったが、あれは間違いなくこの場にいる。根拠はなかったが得体の知れない確信があった。

「…………!」

 いつの間にか部屋の温度がさっきよりも下がっていた。肌を撫でる、ひやりとした冷気に薄い鳥肌が立った。

 まずい、まずい、まずい、よく分からないがまずい。

 心臓が痛みを感じるほどの鼓動で危険を訴える。


 ことん───


「!」

 不意に背後から音がした。

 いや、それは背後と言うより、マキの隣からだった。それはたった今までマキが座っていた椅子が動いた音だった。

 続けて、ぎっ、と椅子に重さが加わる気配。そして、


 くち、くち、くち、くち、


 と、咀嚼する音が部屋に響いた。

「──────‼」

 生暖かい息遣いすら感じるその気配に、マキは叫び出したくなる気持ちを必死に抑えながら、逃げ出すようにダイニングを飛び出して自室に駆け込み、再びベッドの中に潜り込んだ。

 そして、たった今自分の隣にいた得体の知れない存在が、部屋の中まで追いかけてくるのではないかという恐怖に震えていた。

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