第14話

   

 次の日の朝。教室に入った大輔は宮下ワタルの姿を認めて、


「おはよう」


 と声を掛けた。


「……今の真田君から?」


「珍しい……」


「誰に言った? 長崎さんじゃなかったよね?」


 周囲のクラスメートたちは少しだけざわついたが大輔は特に気にしなかった。


 教室とはそんなところだろうと大輔は思っていた。授業中でもなければ生徒たちは気ままに喋ったり、喋らなかったりするものだ。気まぐれなその波の押し引きをいちいち気にしても仕方がない。


 交流の全く無いクラスメートたちから陰で「孤高」だの「一匹狼」だのと称されて何故か一目も二目も置かれているという事実を真田大輔本人は知らないでいた。


「あ。おはよう」


 宮下ワタルが笑顔を見せる。


「病院は行ったか?」


「うん。受付時間ぎりぎりだったけど診てもらえたよ。体も頭も問題は無いって」


「そうか。良かった」


 大輔は宮下ワタルの肩に手を置いて、それから自分の席へと向かった。


(……これにて一件落着だな。)


 大輔は彼の表層だけを見てそう結論付けてしまったが、それはあながち間違いでもなかった。


 宮下ワタルの心を徐々に蝕んでいたもの、生きる気力を削いでいたものは「空気」だった。明確に理解はしていなかったが宮下ワタル本人も「なんとなく」死にたいと思ったと言葉にしていた。


 この教室内に充満していた「空気」――クラスメートたちが醸し出す「空気」だ。


 このクラスに於ける宮下ワタルの扱いは自然と悪かった。いや、良くなかっただけとも言える。立場も低い――と言うよりは「高くはなかった」という具合だ。


 クラスメートの誰も意識して積極的に彼の事をいじめていたわけではなかった。が皆、無意識的に深層心理的に宮下ワタルの事を侮っていた。下に見ていた。


 一番最初のきっかけは何だったのだろうか。恐らくだが些細な事だったのだろう。大きな出来事があったならば、もっとはっきりとした分かり易いいじめとなっていたはずだ。


 たった今、宮下ワタルはクラスの皆に認められている真田大輔から挨拶をされて、挨拶を返した。おどおどもせず、さもそれが普通の事であるかのような態度で。


 昨日までの宮下ワタルと今の宮下ワタルでは背筋の伸びが違っていた。今日の宮下ワタルは堂々としていた。


 それを見て「宮下のくせに」と思うクラスメートは居なかった。


 彼ら彼女らは宮下ワタルという人間を自然と見下してはいたのだが誰にもその自覚は無かったのだ。


 だからこそ宮下ワタルが急に背筋を伸ばしても、それを気に食わないと反発したり目の前の事実を受け入れられないというような事も無かった。


 宮下ワタルの変化に抵抗する事無く反応して、皆が醸し出す「空気」も変わった。彼ら彼女らはまた自然と無自覚に宮下ワタルを見直していた。


 稀有な例かもしれないが宮下ワタルの場合には「背筋を伸ばして堂々とする」事が問題解消に至る正解の一つであったようだ。


 現在のこの「空気」ならば宮下ワタルが生きる気力を削がれる事はないであろう。


 こうして宮下ワタルの一件はここに落着を迎えていた。


「おはよう」


 と声を掛けられて、自分の席についていた大輔は顔を上げる。


「長崎か。おはよう」


「ええ。長崎の知世よ」と知世は何故か偉そうに胸を張ってから、


「……宮下君、大丈夫そうね?」


 と小声でささやいた。


「ああ」と大輔は頷く。


「これでようやく」


「これでやっと」


 二人は口を揃えて、


「世界を巻き戻さないで済むな」


「好きにリセットできるわね」


 反対の言葉を口にした。


「……あ?」


「え……?」


 険しい顔の大輔ときょとんとした顔の知世が見詰め合う。


「……そうだ。この前はこの話の途中で」


「宮下君が落ちてきたのよね」


 大輔は「世界を巻き戻すな」と自分の要求を告げた事ばかりを強く記憶していて、知世がまだ了承していなかった事を失念していた。


「でもリセットしすぎると私の寿命が減るとかはウソだったんでしょ。真田君ももうリセットの原因は私だってわかったんだから自分の頭がおかしくなったとか思わないで済むわけだし」


 知世も知世で自分の事ばかりで、前に「もう大丈夫だったりしない? これからは急にリセットされても『あ、また長崎がやったな』くらいに」と話した際に大輔から返された「思えないな」の一言を忘れてしまっているようだった。


「…………」


「…………」


 互いに互いをまた軽く見合った後、


「……昼休みか放課後にまたちゃんと話そう」


「そうね……」


 二人は離れた。自分の席に座っていた大輔はそのまま、知世も自席へと向かった。


 そのすぐ後だ。


「……真田くん」


 大輔は隣の席の川村久美子に話し掛けられた。それは珍しい事だった。


 大輔と川村久美子は席こそ隣同士だったがこれまでに交流はというと皆無だった。シャーペンの芯や消しゴムの貸し借りをした事も無かった。その理由の大概は大輔が心を凍らせていたせいだ。無になっていたからだ。


 それが長崎知世との邂逅によって大輔は「無」から人間に戻った。


 隣の席の川村久美子も話し掛け易く――とまでは言わないが、話し掛けられなくはなくなった。


「ん。何だ?」


 大輔は普通の顔を彼女に向ける。無でもなければ睨みもしない。


「あの……変なこと聞いちゃうけど。真田くんと長崎さんて付き合ってるの?」


「……は?」


 何の話だ。どうしてそうなるんだ。大輔は眉間に深いシワを寄せる。


 長崎知世とは共有している秘密もあるし宮下ワタルの件では一緒に頭を悩ませたりもした戦友だ。共犯者だ。そういった意味では気が置けない間柄とも言えるが、付き合う付き合わないの次元ではなかった。


 大輔は、


「何の話だ。どうしてそうなるんだ」


 思った事をそのまま口に出した。それ以外には言い様が無かった。


「え……どうしてって。昨日の休み時間に急に長崎さんを呼び出して……今日も仲が良さそうだったから。……告白が成功しちゃったのかなって」


 昨日は長崎知世を問い詰める為、また宮下ワタルの命を救う為に何度も何度も――知世が言うところの「リセット」をしていたが、それによって巻き戻される前の世界の事を何一つも覚えていない大輔と知世以外の人間にとってのいわゆる「正史」での真田大輔は、南河敏夫の財布が紛失した件を見事に解決してみせた長崎知世に「二人だけで話したい事があるんだが後で時間もらえるか?」と声を掛けて、放課後に分厚いマットを皆と一緒に運んで、校舎の三階から飛び降りた宮下ワタルを助けていた。


 五時間目の英語の授業中にいきなり知世を糾弾したりした事や宮下ワタルの自殺を阻止する為に開いた作戦会議などは無かった事になっていた。


 大輔や知世にしてみれば十分に濃密な時間を共に過ごした結果であったが他の人間からすれば「一日足らずで仲良くなった」イコール「愛の告白をして成功したに違いない」と考えたのだろう。そう読むのも分からなくはないが、


「違う」


 と大輔は明確に否定した。


「え。じゃあ、やっぱり、ふられたの?」


「それも違う。そもそも告白なんかしていない」


「え……」と川村久美子は言葉を失ってしまった。


 そんなに驚く事なのか? 大輔は苦笑いを浮かべた。



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