第6話

   

「宮下? ウチのクラスの?」


 窓の外を上から下へと流れた「陰」には気が付いた大輔だったがその詳細にまでは目がいっていなかった。


「宮下が何で?」


「し、知らないわよ」


「見間違いじゃないのか。教室にまだ居たりしないか? 宮下は」


 此処からだと自分たちの教室は遠く向こうの方だった。


 大輔はちょうど教室から廊下に出てきたクラスメートの姿を見付けると、


「柳原!」


 と大きな声を掛けた。


「え? 誰? え、真田君? 私? え?」


 何度もびっくりしてから、


「な、なあにー?」


 と返してくれた柳原に大輔はまた大きな声で尋ねた。


「教室に宮下ってまだ居るかー?」


 しかし。返ってきた言葉は、


「バカ! おい、真田!」


 何故か罵倒だった。しかもその言葉の主は大輔が声を掛けた柳原夏子ではなくて、後からひょっこりと廊下に顔だけを覗かせた柳原とはまた別のクラスメートだった。


「あ? 何が馬鹿だ」と眉間に浅いシワを寄せた大輔の耳に、


「宮下、死んだぞ!」


 驚きの続報が届けられた。


「今! 自殺だってよ! 屋上から落ちてきたって!」


 クラスメートはその手にスマホを握っていた。今もまだきゃーきゃーと騒いでいる階下の人々の中に彼の知り合いでも居るのだろう。


「え……」と驚いた大輔は知世の方に振り返ろうとして――自分の体がぴくりとも動かない事に気が付いた。


「長崎?」と思った言葉も当然のように口からは発せられなかった。


 気が付くと、


「あー、もうっ。浅かった! 焦ってリセットしちゃったから!」


 大輔の目の前で長崎知世がヒステリックに呟いていた。


 大輔は辺りを見回す。此処は廊下の隅の奥。知世はほんの数分間から10数分間程度だけ世界を巻き戻したらしい。


「長崎。さっき言った副作用の話、長崎の寿命が」とまで大輔が言ったところで、


「仕方ないじゃない! クラスメートが自殺しちゃうなんて。絶対に駄目!! 私の寿命が減ったって。それは見逃せない!」


 知世が目を真っ赤にしながら叫んだ。


 大輔は「長崎の寿命が減るとか言ったがそれは悪質な冗談だった。長崎を怖がらせて今後は安易に世界を巻き戻す事は出来ないようにさせる為についた嘘だ。すまん。俺が悪かった。世界を巻き戻しても長崎の健康に害は無いと思われるから安心して世界を巻き戻してほしい。宮下の自殺を止めよう」というような事を言いたかったのだが、知世は大輔の発言を完全に遮って、


「真田君! 早く屋上に向かって! もう宮下君が落ちようとしてるかも!」


 大輔の背中を物理的にも強く押した。


 長崎知世は自分の寿命が減っているかもしれない事もかえりみずにクラスメートの命を救おうとしていた。


「あ、ああ。分かった」と頷くや否や大輔は走り出した。


 数分後、階段を駆け上がって屋上へと繋がるドアの前にまで来た大輔だったが――ガチャ、ガチャガチャ……。


「施錠されている?」


 ドアには鍵が掛けられているようで押しても引いても開かなかった。


「先に屋上に出た宮下が向こう側から鍵を掛けたのか? 宮下が屋上の鍵を持っていたとは思えないが」


 鍵穴の辺りをこちら側からじっと見詰めてみるも、その向こう側が例えばトイレのドアのように空手でも鍵を掛けられるような仕様になっているのかどうかなんて大輔には分かりようがなかった。


 大輔はドンドンとアルミ製だか鉄製だかのドアを叩きながら、


「宮下! そこに居るのか? おい! 宮下!」


 と声を張り上げる。


 ドアの向こう側からの反応は何も感じられない。


「宮下! 宮下!」


 叫び続ける大輔の耳に「キャー!」と遠い悲鳴が聞こえた。聞こえてしまった。


「今……落ちたのか? ……くそッ!」


 大輔は開かないドアを――ガン! と強く叩いた。


「……おい。今、誰か落ちなかったか?」


「みま、見間違いだよな? な? はは……」


 大輔が駆け上がった屋上へと続く階段のすぐ下――普通校舎三階の廊下に居た生徒たちがにわかに騒ぎ始める。


「そこの窓から」


「急に来て、さっと開けて、顔出して下見てるから。危なくねえかと思ったら。そのまま、すぅーって」


「やだやだやだ。見ちゃった。下。落ちてるよ。やだ」


 それらの声を聞いて大輔は「そうか」と舌打ちをする。


「宮下は屋上からじゃなくて三階の廊下の窓から落ちたんだ」――と思ったところで大輔の視界がまた、ぐにゃりぐにゃりと歪み始めた。


 多く生徒たちが発した悲鳴を耳にして、宮下ワタルがまた落ちた事――大輔が宮下ワタルの自殺を止められなかった事を悟った知世がまた世界を巻き戻したのだろう。


 今度の大輔は、


「……授業中か」


 教室の中に居た。教科は英語。五時間目だったがそれももうすぐ終わる頃だ。


「今日はここまでだが中岡も他の皆も予習はしておくようにな」


 大輔にとっては三回目だか四回目だかになる最後の小言も済まされて、五時間目の授業は無事に終わった。


 英語教師が教室から出ていくなり、長崎知世はすっくと椅子から立ち上がった。


 知世は遠く離れていた宮下ワタルの席へと向かって真っ直ぐに突き進むと、


「宮下君」


 人目をはばかることなく宮下ワタルに声を掛けた。


 それを見ながら大輔は「長崎は宮下に何を言うつもりだ? 今の状態で何か言える言葉があるのか? 宮下がこれから一時間後に飛び降り自殺をするだなんて、もしかしたら宮下自身もまだ知らない事かもしれないのに」とはらはらしてしまっていた。


「長崎さん……? ……なに?」


 宮下ワタルは怪訝そうな顔を知世に向けていた。その意外な組み合わせにだろう、周辺に居た無関係のクラスメートたちも無言ながら、ちらちらと二人の様子を窺っていた。


 知世は、


「やめなさい」


 と、たった一言だけを宮下ワタルに伝えた。「何を」という主語は無かった。


「……え?」と宮下ワタルは返した。それはそうなるだろうと大輔も思う。


 知世はしかしそれ以上は何も言わなかった。宮下ワタルに背を向けてさっさとその場を離れる。


 その足で大輔のところにやってきた知世は小声で、


「『さっき』は間に合わなかったみたいだけど。これで大丈夫よね」


 と大輔にささやいた。


 存外、未来は簡単に変わる。変えられる。変わってしまう。それは大輔もよく知っていた。だが今の「やめなさい」という一言だけで本当に宮下ワタルの飛び降り自殺という未来を変える事が出来ているのか。


 知世の巻き戻しに否応無く巻き込まれている大輔だから、恐らくは同じ回数、同じ時間分を同じだけ繰り返し生きてきたはずの二人なのだが……極力、未来を変えないように過ごしてきた大輔と積極的に自分の望む未来を迎えようとしてきた知世とでは経験の質がまるで違っていた。


 一日の長どころの差ではない。


「慣れている長崎がそう言うのなら、そうなんだろうな」と大輔は自身の疑問を呑み込んだ。


「それと。メッセージアプリのID教えて。後で登録しておくから」


 ささやきでこそなかったが声のボリュームを控えめにして知世が言った。


「ん?」


「『さっき』みたいなときに連絡が取れないと困るでしょ」


「さっき」とは大輔が宮下ワタルの飛び降り自殺を止められなかった件を指しているのだろう。


 あの時、知世は「多くの生徒たちが発した悲鳴を耳にして、大輔が宮下ワタルの自殺を止められなかった事を悟った」のだろうと大輔は思ったが、もしかしたら落ちている最中の宮下ワタルを窓ガラス越しに目撃してしまったのかもしれないし、宮下ワタルが――ドシャッ! と落ちた先の地面をちゃんと確認したのかもしれない。


 大輔がした「寿命」の話を知世が覚えていれば、無駄玉を撃ちたくはないだろうから確実性を欲して「地面」を見るだろう。いや。でもクラスメートの遺体をはっきりと目にする事で「寿命が縮む思い」はしたくないからと聞こえてきた生徒たちの悲鳴だけで判断してしまった可能性もあるのか。一度目の時も知世は不可抗力的に「落ちていく途中の宮下ワタル」をガラス窓越しに見てしまってはいたが「落ちた後の宮下ワタル」からは頑なに目を逸らしていた。


 確かにあの時、大輔と連絡が取れていたなら、知世は「落ちた後の宮下ワタル」を目視せずとも大輔から直接「間に合わなかった」と聞く事で状況の確実性どころか、しっかりとした「答え」を得る事が出来ていた。


「そうだな」と深く頷いた大輔は、


「だったら俺のケータイの番号、教えておくから」


 より有用と思われる提案をしてみた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る