第10話

 水樹の様子がおかしい。あのヤクザに出会ってからずっとだ。

 話しかけても心ここにあらずといった様子で、反応がないわけではないが、手応えがない。ときどき、俺の呼びかけにはっとしたように振り返り、照れたように笑う。微妙なバランスを保つような生活が三ヶ月続いた、ある日。


「龍彦、ちょっといいかな」


 あくまで軽い調子で切り出した。話の内容は検討もつかないが、何かを覚悟しなければいけないような気にさせられた。


「今夜は、ひとりで仕事に行くよ」

「は?」

「だから龍彦は休んでて」

「何でだよ。二人の生活費だろ」

「やってみたい方法があるんだ。新しいスリ。ひとりのほうが、都合がいい」

「なおさらあぶねえだろ。隠れて見ててやるよ」

「だからそれじゃだめなんだって」

「二人でやるって決めてるだろ」

「龍彦だって、この前ひとりでめちゃくちゃやったじゃん」

「あれは……」

「とにかく今夜は家にいて。明日焼肉に連れていってあげるからさ」


 そう言ってニッと笑った。本物の笑顔を見たのは久しぶりだった。水樹の作り笑いは俺には通用しない。微笑むその顔をゆがませたくないと、承諾してしまった。


「一本取ったら帰ってこいよ」

「心配しないで」


 そう言い残して出て行った。ひとりで家に残されるのは初めてのことだった。何をしていればいいのか、分からない。


 水樹は器用だから、仕事のミスは心配していない。それより怖いのは、ひとりで行けると思われたことだった。新しいスリとやらが上手くいけば、俺は捨てられるのかもしれない。部屋でひとり、立ち尽くした。





 嫌な予感はよく当たる。

 水樹は帰ってこなかった。

 電話も繋がらない。



 ひとりの夜を二度繰り返した。同居人が無断外泊したところで絶望には値しないだろうが、水樹は別だ。例えば待ち合わせに、一分でも遅れそうなら連絡を寄こすよな男なのだ。


 三回目の夜、俺は限界を迎えた。

 携帯電話だけ握りしめ、闇夜に飛び出した。

 冷たい風が吹き、肌が粟立つ。水樹がどこかで震えているような気がした。


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