第8話

 あの後どうやって帰宅したのか覚えていない。気が付いたら眠る水樹の髪を撫でていた。部屋には無造作に札がばらまかれている。むしゃくしゃして、手当たり次第にすった。捕まろうがどうでもいいような気持ちで雑な仕事をしたのに、一度もバレなかった。

 シャワーを浴びる気力はなく、疲れているはずなのに頭はさえていた。


 どれくらいこうしていただろう。カーテンの向こうは空が白みだした。


「……龍彦?」

「ごめん、起こした」

「どこに行ってたの? ビールは結局、買えなかったよ」

「いいよ。遅くなってごめん」

「なんで泣いてるの?」


 否定する間もなく手を引っ張られ、布団に引きずり込まれた。何だか元気がない、水樹が俺を心配する理由はそれだけで十分で、別に悲しくはなかったが、気が済むならと背中をさする手を好きなようにさせた。


「水樹は俺といて楽しいのか」

「なにそれ。どうしたの」

「いいから」

「毎日楽しいよ」


 胸に刺さった女の声。頭にこびりついて離れない。


 ――不幸代表みたいな顔してんじゃねーよ


 そんな顔するわけない。俺は水樹がいれば幸せで、誰より不幸なのは俺に気に入られた水樹なのだから。


「なあ、将来のこと、考えたりする?」

「ぷっ。龍彦が将来とか言ってる。そんなこと考えて、悲しくなっちゃったわけ?」

「俺達、一生このままなのかな」

「別に困らなくない?」


 馬鹿になりたい。今がよければそれでいいと心から思えるような、幸せな馬鹿に。


「難しいこと、考えるのよそうよ。龍彦まで熱が出る」

「あ、お前、体調は?」 

「もう平気」

「咳出てたから、念のため明日は休もうな。金はあるから」

「じゃあどこか出かけよう」

「あほ。それじゃ意味ねえだろ。引きこもってゲームでもしてろ」


 怒られたがりな水樹はしばらく文句を言っていたが、今の俺にはさばききれず、お互いすぐに黙ってしまった。

 俺を抱き込んだまま二度寝に突入した水樹を起こさないよう、そっと抜けだしシャワーを浴びた。


 ふやけた指のささくれをむくと血が出た。


 もし俺が死んだら、水樹はいつか、悲しみを乗り越えてしまうだろうか。


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