第7話

「マックいこ。おごるから。終電ないでしょ」 

「歩いて帰れる」

「じゃあ泊めて」


 そう言って立ち上がると、俺にもたれかかった。香水と煙草と酒の匂いがする。胃液と汗の匂いも。全てが混ざり合い、夜の匂いになった。


「無理」

「あ、兄弟が風邪なんだっけ。気にしないよ。看病してあげるし」


 水樹には会わせたくないと思った。誰にでも好かれる水樹に悪いトモダチができてしまったら、あの純な雰囲気が損なわれるような気がした。女と話しているところも見たくない。


「いい」

「ふうん。じゃあさ、大人しくしてるから、たっちゃんのベッドで寝させてよ」

「無理」

「つれないなあ。クソ親を持つもの同士、仲良くしようよ」

「クソ親?」


 胸の中に黒い染みが落ち、冷静な部分をじわじわと浸食した。女は自身の境遇を嘆き、死んだ母親を罵った。その顔は赤く高揚している。とっておきのオモチャを自慢するような顔、嬉しそうに見えた。こいつ嫌いだ、と思った。


「たっちゃんの親だって、風邪引いた子供放置してるじゃん。でも、あたしはもっと最悪。娘ほっぽって、男にかまけた挙げ句、刺されて死んだ。馬鹿だよね」


 俺に何を言ってほしいのか。人とは違う自分、複雑な家庭環境という不幸自慢に付き合わされるのはまっぴらだった。

 女の顔を見た。いかにも水商売といった化粧はボロボロだが、肌にはぴっちりとした張りがあり、着ているものは清潔だった。靴も髪も目も、生きるには余分なほど綺麗だった。自分は不幸だと笑って語れるのは、まわりからの愛情に鈍感な奴だけだ。こいつの身近には、たぶん正しい大人がいる。


「母親の友達がいるんだろ」

「まあね。でもさ、やっぱり血が繋がってないし、しょせんは他人だよ。あーあ。早くハタチになりたいなあ」


 地雷を踏み抜かれ、視界がブラックアウトした。腕を振り払ったらしい。気が付いたら女がぺたりと座り込み、きょとんとした顔で、俺を見ていた。


「お前、さっきからうるせえよ。血の繋がりってなんだよ。お前、世話されてる側の人間なんだろ。ごちゃごちゃ言ってねえで、出されたもん黙って食ってろよ。お前の万引きは死活問題か? ちげえよな。暇つぶしか節約だよな。お前、その日食えねえような経験をしたことがねえだろ。屋根のない場所で寝たこともねえだろ。お前、もらってばっかりなんだよ。お前のことなんかこれっぽっちも知らねえけど、見れば分かるよ。お前の体には余計なもんがたくさんついてるよ。人から与えられたもんが、たくさんついてんだ。なんで気付かねえんだよ。ずりいよ。いらねえならそいつ俺達にくれよ。血の繋がりなんて考えただけでもむかつくよ。自分をぶっ殺したくなるよ。なあ、家族って何なんだよ。繫がりがあると偉いのか? 俺はお前に劣るのか? そんなわけねえだろうが。分かったら消えろ。もう二度と、俺の前に現れるな」

「キモ。不幸代表みたいな顔してんじゃねーよ。おめーが死ね」


 女は一瞥をくれ、去って行った。


 通行人が俺を見ている。心臓がバクバクと痛んだ。ザーザーと血の流れる音が、頭の中でこもっている。膝が震え、冷や汗が出て、目まいがした。この世の全てを呪った。


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