第12話

 ヨンとの電話を終えてすぐに自宅に戻ったが、キイはもういなかった。今朝の修羅場の名残などなく、きちんと花はここにある。しゃがみこみ、湿った土に触ると、ひやりとして頭の芯まで冷えていくようだった。


「ただいま」


 思わず口に手をやった。こんなものに挨拶する趣味はなかったのに。この数日で花の存在感が膨れ上がっている。ただそこにあるものから、守るべきものに変わったのだ。


 時間はとっくに昼過ぎだが、日常を取り戻そうと朝をやり直した。キイに感謝して水やりは省略し、部屋に上がり湯を沸かした。乾燥した顔を洗い直し、クリームを塗り込む。水分が肌に馴染んだころ、コーヒーのフィルターをセットする。ケトルが沸騰し、湯を注ぐと豆と紙の混ざった香りが広がる。目覚めのコーヒーは熱ければ熱いほど美味い。


 いつもの朝だ。恋人のいない朝。花だけはある朝。


 書斎に入り、机の引き出しを開けた。写真を好まない恋人に保管を許された、たった一枚のスナップ。声をかけ、振り向きざまに私が撮影した。笑うでもにらむでもなく、口を横一文字に引き結んだ生前の恋人がそこにいる。このときは息をしていたのだと、当たり前のことを思う。キイもこれを見ただろうか。

 壁の一面に及ぶ大きな本棚に近付いた。恋人の集めた本の数々はまだ半分も読めていない。結局、彼のかけらは見付からないままだ。


 書斎は恋人の気配が濃い。たち消えてしまわぬよう、とどめようと努力をしている。

 窮地に立たされ、現実を見た。ここはドールハウスだ。私だけの、たったひとりのおままごと。ぞっとして、本棚をぶちまけた。


 考えないようにしていた。ふいに"恋人"は私が作り出した妄想かもしれないと感じることがあった。愛しい気持ちは新鮮で、今でも不在を信じたくない。死んでしまったと受け入れたくなかった。すると元々いなかったのかもしれないと錯覚した。恋人の気配を探すほど、確かにここにいたと言い切れなくなった。


 時間が経っても痛みは少しも癒えないが、恋人の言葉や表情は指のすき間から滑り落ちていく。声、匂い、体温。忘れたことすら気付かずに何もかも過去になる。いつか笑顔すら思い出せなくなるような気がして怖かった。記憶が減っていくことが怖かった。


 いつまでたっても綺麗なままの歯ブラシ。毎年クリーニングに出すだけの汚れないスーツ。健気に時を刻み続ける腕時計。どうしても使えない、恋人が畳んだタオル。


 いつの間にか涙が流れてとまらない。

 今になってなぜだろう。彼が死んだとき、私は少しも泣けなかった。心が死んだのだと思った。でも、本当は、私はずっと泣きたかった。なぜ先にいってしまったのと怒り、責めたかった。キイを殴るのではなく、胸の内をさらし、弱さを見せたかった。悲しみを共有したかった。


 今、恋人に会いたい。誰よりも好きだった。彼の為なら、私は何人だって殴り殺したのに。


 恋人は死ぬ間際、私に会いたがっただろうか。

 ひとりでは花すら守れない。無様な私を見て、今、彼は何を思うだろう。


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