第10話
――「さん、に、いち。じゃじゃーん」
キイは外した手錠をテーブルに放った。
「お代は結構です」
「助かったわ」
追っ手を巻き、閉まりかけの電車に飛び乗ったときは老婆にぎょっとされたが、他の乗客は本やスマホに夢中で首から血を流す私に気付かなかった。
電車に揺られながら、痛みを感じるより混乱した。変な奴だとは思っていたが、まさかヨンが警察だったとは。それも遊びではない。仲間を引きつれ、本当に逮捕されかけた。
警察。正義の組織。身近に感じていなかったわけではない。私は堅気の世界で生きていけなかった。食べるために便利屋を自称して仕事を受けていたが、その辺の男より力が強いかもしれないと自覚しだした頃から喧嘩師と呼ばれるようになった。私刑や脅迫ばかり舞い込むようになり、引き返せないところまで転がり落ちたのは一瞬だった。金と暴力にまみれる日々。昔の話だ。
思い当たる節は山のようにあるが、一線は守った。現行犯でないと捕まらない工夫もした。恋人と暮らした八年間はほとんど沈黙していたし、恋人が死んでからは足を洗って大人しく死を待った。
今更、警察のお世話になるとは思いもしなかった。
新宿に出ると駅ビルでスカーフを万引きし、首の怪我を隠して街へ出た。
人混みに紛れキイに電話するとあざけりをもらい、日本中に適当に借りているという彼の隠れ家に向かった。状況を面白がり、都内のアパートを教えてくれたのだ。
先回りしたキイに出迎えられ、似合わないスカーフを取ると腹を抱えられた。輪っかの付いた右手を見せると二度目の大笑いをされ、何もかもどうでもいいような気持ちになり、言い訳はしなかった。
無類の鍵マニアあるキイは大喜びで本物の手錠をいじくり回し、ああでもないこうでもないと、もったいぶって遊んだ。私としては面白くないが、身近でこれを外せるのはキイしかいない。我慢する他なかった。
かろうじて血の固まった首は頭を動かすとつれるように痛む。手錠の外れた手首にも違和感が残った。どちらも自分の甘さを思い知らされる、わずらわしい感覚だ。
恋人をエサにされた上、まんまと罠にはまった。そして小さな犬に助けられ、今は友人の世話になっている。受け入れがたい。
「それにしてもあのスリ師、警察だったとはね。でも、僕と組む前、エスは奴と仕事してたんでしょ?」
「信用するに値しないわ。本郷なんとか氏の件もでっち上げでしょうね。何でもいいから私を逮捕したかったみたい。余罪はたっぷりだし、どこかで恨みを買ったのかも」
「これからどうするの」
「いつかはお礼をしなくっちゃね」
「じゃなくてさ。バイオレンスな警察から逃げたんなら自宅には戻れないよね。この部屋を使ってもいいよ。僕は最近、都内じゃ仕事しないから」
「いいえ、帰って花に水をあげなくちゃ」
あそこまでしたヨンが私の弱味を放っておくとは思えない。そこにあって当然だったものが、他者の手によって引き剥がされそうとしている。失いかけ、惜しくなった。恋人の二度目の死、私はその痛みに耐えきれない。待ち伏せで刺された方がよっぽどマシだ。
「君なあ。……分かったよ。花は僕が引き受けてあげる」
キイだって叩けば埃しか出ない。軽犯罪だろうとしょっぴかれれば何もかもめくれて人生が終わる可能性がある。それにあのヨンのことだ。キイの顔を知っているに決まっている。狡猾な男の顔を思いだし、歯噛みした。
「首もまだ痛むんでしょ? 僕、庭師に転職するよ。癒やされそう」
「冗談はやめて。スリ師が待ってるわよ。次は心臓を刺されるかも」
「仕方ないよ。じゃなきゃ君、死ににいくだろ。あれ、逮捕だっけ? とにかく君を行かせたら、あの世でエスに殺されちゃうよ。大丈夫、僕はただの、親切な隣人になるだけだ。不在の奥さんの代わりに花に水をやって、様子を連絡してあげる。それでさ……エスを見殺しにしたこと、これで許してくれよ。スリ師に伝言は?」
「ぶっ殺す」
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