第9話
外観は普通だが、中は映画のセットのようだった。バスタブは猫脚に違いないと思わされるような、全体的にギラギラとした成金趣味の内装だ。玄関の大理石は端まで磨き上げられ、頭上にきらめくシャンデリアがくっきりと反射している。見てまわる部屋はどれもホテルのように広く、寝室にはわざとらしくナンバーファイブが置かれていた。なるほど、これらは全て妻の趣味らしい。念のため確認したバスルームも期待通りだった。
嬉しい誤算もあった。気がかりだった飼い犬は大人しかった。筋肉隆々の大型犬より、しつけのなっていない小型犬のほうが何倍も恐ろしいのだ。
食わせてもらっているのかと聞きたくなるほど脚が細いチワワは、生まれてこのかた身の危険にさらされたことがないらしく、己の主人を欺いた私のまわりを嬉しそうに跳びはねた。にっと横に開いた口は笑っているように見え、なんとなくキイと重なった。
この畜生にさっさと脳天気な妻を返してやりたい。その気持ちが伝わったのか、犬は器用に後ろ足で立ち上がり、何かを求めるような顔をした。無意識に手が伸び、頭を撫でると、薄い毛皮のすぐ下に頭蓋骨を感じて鳥肌が立ち、すぐに手を引っ込めた。慣れないことはするものではない。似合わないことなら尚更だ。
待てと言えば待てる犬だった。くくりつけると逆に騒ぐかもしれない。繋ぐ必要はないと判断した。
庭から見えていた部屋はやはりリビングだった。どっしりとして重そうなカーテンが外界を遮断している。布の繊維を通過する微量の光では時間の見当が付かず、この部屋で眠りから覚めたら朝か夕か混乱するだろう。
中央に鎮座しているL字の革張りソファは座り心地は素晴らしいだろうが拷問には向かない。キッチンから背もたれのあるスツールを持ってくると適当なところに置いた。
準備完了。一瞬の間を置いて、玄関のドアが開いた音がした。主役の登場、これから本番だ。指の関節を鳴らす。本郷がすぐに口を割るといい。出来れば血を見ずに済ませたいのだが――
――……何かおかしい。近付く足音が、三人分? わずかにヒールの音も聞こえる。
スツールを移動するときにキッチンから拝借したフルーツナイフを、今まさにリビングに入ってきた黒い影めがけて投げた。しかし当然のようにかわされた。さらに奧からもう二人現れ、戦意を折られた。流れるようにナイフをかわした男が、静かに顔をあげた。
最悪だ。だからこいつとは仕事したくなかった。驚かない自分もいた。悪を嗅ぎ分ける嗅覚がにぶったのは、歓迎すべきことだったはずなのに。
「武藤華」
ヨンは私の名を無感情に口にした。その目は別人のようだった。声にもスリ師のときにはなかった固さが滲んでいる。経済ヤクザにしか見えない艶のあるスーツがよくお似合いだ。さて、どちらが本当の彼だろう。
「住居侵入。現行犯逮捕する」
「オマワリサン。公務員は副業禁止じゃなかったかしら」
「答える義務はない。連れていけ」
ヨンともうひとりの警官を押しのけて前に出た大柄な婦警に促され、手首を差し出した。忌々しい小道具がまずは右手にかけられた。初めて知ったことだが、手錠の音は意外と軽い。私の罪はどうだろう。
拘束が左手に及ぼうとした瞬間、婦警が叫び、引っくり返った。倒れた婦警の顔のまわりで、怒りの形相のチワワが毛を逆立ててギャンギャンと吠えている。足に噛み付いたらしい。
ヨンが動くより先に、私の体は動いた。スツールを投げつけ、ひるんだ隙に窓から庭に出た。鋭く投げ返されたフルーツナイフが、後ろから首筋の皮膚を裂く。つうと流れた血が、わきに伝った。
怒鳴り声を背に受け、何度か転びかけた。運動不足だ。ここで奴に捕まるのは癪だという一心で、走り続けた。
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