第8話
天気予報が外れ、当日の空は曇天だった。悪い予感は当たった。ターゲットは予定通りに出て行ったが、肝心の妻が出てこない。ろくな打ち合わせもなく、全てうまくいくとは思っていなかったが、よりによって家に人が残れば誘拐したところで何も始まらない。残念ながら暴行するのに手頃な路地裏など、この平和な地域ではそうそう見付からない。
「――もしもし。妻が出てこない」
「あれ、土曜の料理教室はもう一年続いてるんだけどなあ。
「どうすんのよ」
「本郷をさらっちまった。家に入って妻を引きずり出せ」
「そんなことして後はどうすんのよ。無理言わないで」
「花壇を荒らすぞ。五分で片付けろ」
息をのみ、電話を切られ、絶句した。ここまで適当な奴だとは。私も共犯者だというのに、自分が常識的で真面目な人間に思えてくる。しかし今はっきりしているのは状況がまずいということだけだ。
思考の途中、もう放り出して帰ってしまおうかとよぎった。その考えは胸の中にずっとあった。そもそも本郷に恨みはなく、報酬を受け取るつもりもなかった。すっぽかせばヨンは花壇を台無しにするだろうが、庭が寂しければまた植え直せばいい……いやだめだ。恋人の花を殺されるわけにはいかない。彼が育てた命だから価値がある。他の花なんて、少しも興味ない。
舌打ちが出た。悪事には久しく使っていない頭を必死に回転させる。喧嘩なら朝飯前だが脅迫に無関係な妻を叩きのめすわけにはいかなかった。非の無い一般人は殴ると後に響きやすく、通報だのなんだのとややこしくなるからだ。こちらとしても目覚めが悪い。
帰りたい。恋人は、本当に面倒なものを残していった。私より先に死ぬのなら、花など最初からないほうがよかった。失ったら終わりのものなど負担でしかない。持っていてもわずらわしいだけだ。でも、いっそ何もかも失いたいと思うのに、あの花は見捨てるには思い出が多すぎる。
このままでは聖域が荒らされてしまう。こういうとき、恋人ならどうするだろうか、何を言うだろうか。何でもいい、恋人に会いたい。結局、思考がいつものところまで行き着くと、記憶の中の恋人が、腹をくくれというようにあごをしゃくった。ときどき見せた、むかつく顔だった。
物陰から飛び出し、インターホンを押した。服の袖で小鼻の汗を抑え、前髪を撫で付ける。微妙な間があり、小さなカメラ越しにじっと見られていることを感じた。目をそらしたら負けだ。胸を張り、口を結び、にらみ付けた。
「――はい」
「本郷さんの奥様?」
「ええ」
「主人がお世話になっております」
「……どうぞ」
一か八か、ひと芝居打った。不貞は確定事項、天敵であろう不倫相手の妻を装った。宅配業者に変装する強盗の手口をまねたのだ。
ガチリと大袈裟な音が鳴り、門が開いた。庭を突っ切り玄関に向かうと、顔色の悪い女が現れた。髪はべたつき、くちびるが青い。熱もあるようだ。見るからに風邪を引いている。
「あの……」
「責める気はないの。主人があなたを待ってるわ」
「えっ」
保険のない賭けだった。情報はゼロで何かつっこまれたら終わりだし、食いつかなければ諦めて気絶させるつもりだった。
「愛してないの。行ってあげて」
頬に見る見る赤みがさし、部屋に引っ込むとかばんを掴んで戻ってきた。洗っていない髪に香水を振ったらしく、動物的な匂いがした。そして私を押しのけると、そのまま走り去っていった。
騙した側とはいえ、あまりのアホさにぽかんとしてしまう。あの女、今までどうやって生きてきたのだろう。意図したわけではないが、少女漫画的展開とも言えるこの日を三十年待っていたのかもしれない。
「もしもし」
「やったか?」
「顔を見られたわ」
「もう忘れてる。ああ見えて社会経験皆無のお嬢さんだ。脳みそ空っぽだから心配するな。もう着く。先に入ってろ」
心配するかしないかは私が決めることだ。
誘い込むように開け放たれたドア。目の前の空間は口を開けて私を待っていた。少しだけ躊躇したあと、向こう側へ足を踏み入れた。
残念で仕方がない。これで現役の犯罪者に逆戻りだ。
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