亡国のリリアーナ

しおぺん

プロローグ

 彼女は急いでいた。書類の束を抱えて、足早に、それでも猫のようにしなやかな足取りで、西日の差し込む廊下を進んでいく。途中、すれ違う人々と挨拶を交わしつつ、目的の部屋まで辿り着くと、ふぅっと息をついた。ノックをして返事を待つ。

「入れ」

 扉を開けると、こちらへ視線を向けた部屋の主は、やわらかく微笑んだ。

「ああ、リリアーナか。それは急ぎの案件かな?」

「はい、本日中に決裁が必要なものをまとめておきました。それから、陛下より明日の夕食をご一緒したいとの伝言を預かっております」

 先ほどの笑みとは打って変わって、眉間にしわを寄せた彼は、気の進まない誘いをどうにか断ろうと思案している様子だった。

「デュオ様、そんなに父君を邪険に扱われてはいけませんよ。今回は私も同席するようにと伺っておりますので、あなたがいらっしゃらないのでは困ります。私1人では陛下の話し相手など、とても務まりません。何か大事なお話があるような口ぶりでしたし……」

 デュオと呼ばれた男性は、観念したように眉尻を下げた。

「私が断れないように君を利用するような人間だぞ? それに、ここ最近の忙しさは、半分は父上のせいだ。引き継ぐ仕事が多いとはいえ、父上もまだまだ現役だろうに」

 長時間デスクに向かっていたせいで凝り固まった身体をほぐすように、大きく伸びをしながら不満を口にする。ふいに立ち上がると、ゆるく1つに束ねられた長い髪が、ふわりと揺れた。そして、その漆黒の隙間から除くアメジストのような瞳は、憂いを帯びた中にも確かな輝きがあった。

「ふふっ、早くすべてのご公務を引き継いで、王妃殿下を連れて旅行にでも行きたいとおっしゃっていましたよ。デュオ様の即位式も近いかもしれませんね」

 微笑ましいものを見るような眼差しで、グレーの大きな瞳がデュオを捉える。近づいてきた彼に手元の書類を渡すと、簡単な補足事項を伝える。精査された書類はとても見やすく、重要度順に並べられている。それらと同じように、乱れのない、きちっと整えられた紺青の髪は、彼女の几帳面な性格を表していた。ひと通りの説明を終えると、リリアーナは「ではこれで」とドアへ向かって歩きだした。

「待って」

 ふいに左腕をつかまれ、足を止めたリリアーナは、不思議そうに振り返った。

「まだ何か確認事項がありましたでしょうか」

「いや、そろそろ休憩をしようと、アルにコーヒーを頼んである。君も一緒にどうかと思ってな。最近はいつ食事をとっているのかもわからないほど忙しそうにしている、と君の部下も心配していた」

 間近に迫ったアメジストの瞳に見つめられ、リリアーナは動きを封じられたかのような錯覚に陥った。この美しい瞳には、なぜか逆らえないような、妖しい魔力があった。しかし嫌なものではなく、むしろ心地よささえ感じるような、温かい視線だった。

 時間にしてみれば1秒にも満たないほどの短い間だったが、リリアーナははっとして彼に向き直った。

「それでは、お言葉に甘えさせて頂きますね。確かに最近は軍部が慌ただしいので、ゆっくりする時間もなく……、あっ、それでも食事はきちんととっているんですよ?」

 愚痴のように聞こえてしまったかも、と焦るリリアーナに対し、デュオは困ったような表情で笑った。

「君の仕事ぶりは評価しているし、正直とても助かっている。でも、無理だけはしてほしくない。なんて、君に頼りっぱなしの僕が言っても、説得力はないんだけど」

 大国ヴァレンティの王子、そして軍部の総指揮官という立場でありながら、彼は傲慢な態度を見せることは一切なかった。むしろ、周囲を気遣う心優しい人柄に惹かれ、そのもとで働きたいと思う者は後を絶たない。時には、体調を崩した部下に見舞いを贈ったり、子供が生まれたばかりの官僚には、早く帰るよう仕事を肩代わりしたりもした。そんなわけで、デュオを慕う人間は宮殿の内外に数多く存在する。

「お気遣いありがとうございます。でも、本当に大丈夫です。あなたに命を救われたあの日、私は、その恩に報いると誓ったんです。多少の忙しさなんて、苦になりません。それにこれは、私自身のためでもありますから」

 強い決意を秘めた瞳は、揺らぐことなく、目の前のデュオを見据えた。普段の温和な様子とは打って変わって、威厳を感じさせるような、堂々たる空気をまとったリリアーナの姿は、どこか気高い印象を受ける。

「そうだったな。君には君の目的があって、僕にも利があったからこそ、君を助けると決めた。君と僕との関係は、それ以上でも以下でもなかった」

 2人の関係を確かめるように、また、自身に言い聞かせるように、デュオはそう告げた。近くにいるリリアーナにも気付かれないような、小さなため息と共に。

「失礼します。あぁ、リリアーナも来ていたのですね。ちょうど良かったです」

 なんとなく重くなってしまった空気を壊して部屋に入って来たのは、コーヒーとクッキーを載せたトレイを持ったアルベルトだった。デュオの側近である彼は、業務のサポートはもちろん、王子の護衛としての役割も担っていた。銃器の扱いに長けており、その正確無比な射撃の腕は国内随一と評されるほどだ。デュオからの信頼も厚く、また誰よりも近くにある存在だった。

「アルベルト、お疲れ様です。私の分まで用意させてしまったようで、申し訳ないです」

「いいえ、構いませんよ。あなたがいたほうが、デュオ様の疲れも吹き飛ぶ——」

「アル、余計なことを言うな」

 アルベルトの言葉を遮ったデュオは、さっとコーヒーカップを持ち上げると、中身を勢いよく喉奥へと流し込んだ。その横顔は、心なしか赤らんでいるようだった。

 訳が分からない、といった様子のリリアーナと、なんとか落ち着きを取り戻そうとするデュオとを見比べ、アルベルトは必死に笑いをこらえていた。それに気付いたデュオに睨まれるまでは。

 休憩が終わり、今度こそ部屋を後にしたリリアーナの足音が遠ざかっていくと、残された2人は、神妙な面持ちで、ある資料を見つめた。それは、隣国クローチェに関する報告書だった。

 クローチェは、ヴァレンティの北側に位置する軍事国家だ。10年前、領土を広げようと周辺各国を侵略していったクローチェは、ついにヴァレンティとも交戦状態に入った。当時開発されたばかりの巨大人型戦闘機『フェザレオ』が投入され、戦場となった各地には甚大な被害が及んだ。

 それまでの軍用戦闘機とは一線を画すフェザレオは、山脈を吹き飛ばすことができるほどの膨大な火力と、強い耐久性を持ち、単機で戦況を覆すことも可能な、全く新しい戦闘機であった。ただ、操縦がかなり複雑で、パイロットの養成に時間を要することから、大量生産することはできず、戦線では膠着状態が続いていた。決着がつかないまま消耗戦となりそうなところを仲裁したのが、両国と国境を接するセレスティアである。

 軍事力をほとんど持たないセレスティアは、本来であれば真っ先に侵略を受けるであろう小さな国だったが、今日まで独立国家として存続できているのは、ひとえにその経済力からであった。世界有数の宝石産出国であり、様々な分野の技術者や学者を多く抱えるセレスティアには、常に多くの人と物、そしてお金が集まってくる。更には、技術や知識を国内のみならず他国にも惜しみなく広めることで、貿易国としての確固たる地位を築いていた。

 そんなセレスティアの働きかけにより、ついにヴァレンティとクローチェの和平協定が実現したのである。大国同士の争いが終結したことにより、世界は平和になったと誰もが信じていた。3年前、あの凄惨な事件が起きるまでは——

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亡国のリリアーナ しおぺん @negishio_penguin

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