オミトリあえず

Bamse_TKE

第1話

「午前6時43分ご臨終です。お力になれませんで・・・・・・。」

 とある介護施設にて入所者に劣らず年老いた医師が深々と頭を下げた。体幹が卵の如く膨れ上がった巨漢の男性介護士はつくづくこの医師に感心していた。老衰が進み食事も水分も摂れなくなり、すでにご家族への説明、苦痛なくお看取りすることが決まっていた利用者さん。急な死亡ではなく言ってみれば予定された死亡、だから医師による死亡確認は日勤帯まで待ってもらっても問題は無かった。しかしこの老医師は何時であろうと必ず駆けつけ、その場で死亡診断を行う。つくづく熱心な先生であると男性介護士は感心していた。そんなことを考えながら、男性看護師は看護師さんにエンゼルケア、いわゆる亡くなった後のケアを依頼し、朝食の準備に取り掛かろうと巨体を食事を乗せたワゴンにむけた時、

「ああ、お父さん。間に合わなかった。」

「ごめんなさい、お父さん。」

と先ほど亡くなった利用者さんの娘が現れた。人間は突然死ぬことも多いわけであるから、死に際に間に合わない家族は介護現場でよく目にする。しかしそれを受け入れられず、家族の旅立ちに立ち会えなかった自分を責める家族もよく目にする。

「あの医師せんせいすぐにお看取りしちゃうから、家族間に合わないこと多いのよね。」

 同僚の中年女性介護士が朝食のトレイをワゴンから出しながら言う。肉体的にはすでに死亡していても、医師の宣告が無ければ法律上死亡とは認められない。

「オミトリあえず、お気の毒。」

 【オミトリあえず】、この介護施設ではよく聞く言葉で、要するに息を引き取った瞬間ではなく、医師が利用者さんをお看取りする瞬間に間に合わなかったケースや家族を指す言葉である。男性介護士はこの言葉があまり好きではなかったので、返事をせずにその大きな体をゆすりながら業務に集中していた。


 中年女性介護士と一緒に夜勤が明けた男性介護士は、遅い朝食の誘いを断り切れず、しぶしぶファミレスのテーブルについた。

「ねぇ、自分は死ぬとき家族に看取って欲しいと思う?」

 まだこの話をするのかと辟易しながらも男性介護士は答えた。

「僕は両親以外に家族もいませんからね。看取ってくれる人なんかいないですよ。」

「まぁ、まだ若いからね。私は子供たちに言ってあるの。死ぬときの見送りなんていらないからって。まぁうちの子供たちは近くに住んでないから絶対間に合わないだろうけどね。」

 自説を唱える中年女性介護士の言葉は、向かいに座りながらも思案に耽る若い男性介護士の耳を通り抜けていった。そう彼は以前亡くなった利用者さんのことを思い出していた。


「6時11分ご臨終です。」

 そう言って医師が頭を下げた。いつもなら

「お力になれませんで。」

 とか

「お悔やみを申し上げます。」

 と言ったご遺族への言葉が続くのだが今回はそれがない。そう、この利用者さんは家族がいないのだ。看取ってくれる家族がいないから、医師はただ亡くなった本人だけに沈黙の哀悼を捧げていた。その姿に男性介護士は丸々とした巨体を折り曲げながら、故人の冥福を祈りつつ医師への敬意を示した。


 亡くなった利用者さんは太田啓次郎おおたけいじろうさん。妻子は無かったが、自由に楽しく生きた人らしい。一人の人生を謳歌していたが、日常生活動作に支障をきたしてからはこの施設に入所していた。そして時間が流れ、啓次郎さんは食が細くなり、水分も摂ることが出来なくなり、そして今朝臨終を迎えた。


 身寄りのない啓次郎さんであるが互助会が弔いの準備を始めてくれた。エンゼルケアが始まる中、男性介護士は朝食の配膳に向かおうとしていた。その時、

「啓次郎、おはよう。」

と誰かの声がした。慌てて振り向くとぬいぐるみの犬が、

「啓次郎、おはよう。」

と繰り返している。男性介護士がそのぬいぐるみの頭を撫でると、その声は止まった。おそらくは啓次郎さんが生前、目覚まし代わりに使っていたものだろう。啓次郎さんは個室に入っていたので、犬のぬいぐるみがあるのはスタッフ一同知ってはいたが、この声を聞くのは誰もが初めてであった。

 男性介護士はふとため息をついて、自動音声付のぬいぐるみをまさぐり始めた。電源を切るために。そして見つけた電源スイッチをオフに切り替えた時、

「啓次郎、お休み。」

と声がした。その声はエンゼルケアを行っていた看護師、男性介護士の涙を誘った。【オミトリあえず】なんかじゃない、犬のぬいぐるみがちゃんと看取ってくれた、そこにいた一同が理解した。男性介護士は天国へ歩いていく啓次郎さんとその足元にじゃれ付きながら一緒に進む犬のぬいぐるみが見えたような気がした。

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オミトリあえず Bamse_TKE @Bamse_the_knight-errant

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