第5話

「お先にどうぞ」と、リルは呟いた。

 心なしか握りしめた小さな拳が震えているようにも見える。


「……リル」


 台所には、重苦しい雰囲気が流れている。

 そんなリルの落ち込む姿を目にすると、嫌でもあの頃の記憶が蘇る。


 幼い頃の心の傷トラウマ


 あれはまだ、わたしが鼻水垂らして公園を駆け回ってた頃だった。


◇◇◇


 わたしはお世辞にも裕福とは言えない家庭で生まれ育った。

 父は幼い頃に他界していたので、それからというもの、母が女手一つでわたしを育ててくれた。


 母親の仕事の関係で、一人で留守番することも多かったし、そりゃあ寂しい思いをする事もあったけど、母は休日になると精一杯の愛情を注いでくれた。


 休日には、わたしの大好物の一つである焼きそばを作って一緒に食べる。

 そんな何気ない時間が大好きだった。

 だけど神様は意地悪で、気まぐれだ。

 悲劇は突然、唐突にわたしに襲いかかる。


 ある日、突如休日出勤を強いられた母は「本当にごめんね」と言い残し仕事へと向かった。


 わたしは同世代の子に比べたら聞き分けのいい子だったと思う。

 その時も駄々をこねる事なく、精一杯の笑顔を取り繕って「頑張ってね」と母を見送った。


 しかし母はかなり慌てていたのか、お昼を用意する事はおろか、昼食代すら置き忘れ出て行ってしまったのだ。


 まだ幼かったわたしは、恐怖のどん底に落とされた。

「このままじゃ……餓死してしまう」と。


 どうにかして空腹を紛らわす為、冷蔵庫を開けるも、梅干しや味噌、少量の野菜、それに賞味期限の切れたはんぺんしか入っていない。

 ニラに至っては葉先が溶けている。

 水菜なんてドロドロだ。

 野菜が溶けることをこの時初めて知った。


 夕食でこの野菜達が食卓に並ばないことを祈りつつ、わたしは冷蔵庫をそっと閉じた。


「どうしよう…………そ、そうだっ!」


 お気に入りの豚の貯金箱には小銭が百五十円。

 わたしはそれを躊躇なく叩き割る。

 それを握り締めると、近くの駄菓子屋へと走った。



 駄菓子屋の名は『菊屋』。

 地元の子供達が足繁く通う行きつけの駄菓子屋だった。

 例に漏れず、わたしもこの駄菓子屋が、そしていつも店先でニコニコしてるおばちゃんが大好きだった。


「こんにちは! おばあちゃん」

「あら、いらっしゃい」


 おばちゃんに軽く会釈をし、挨拶も早々に店内の物色を開始する。

 どの駄菓子が空腹を紛らわすことに適しているのか。

 あれでも無い、これでも無いと頭を悩ました。


 そんな中『仕事を頑張っている母に、駄菓子を食べさせてあげよう』と可愛らしいサプライズを思いつく。


「これなら……お母さんも喜ぶよね」


 しかし、厳選されたお菓子達をカゴに入れ終え、駆け足でレジに向かった次の瞬間。

 何気なくレジの近くに視線を向けると、あるはずのない商品が神々しく輝きを放っていた。

 そこには、真新しいカップラーメンコーナーが新設されていたのだ。


 戦慄が走った。

 わなわなした。

 後にも先にも、ここまで手足が震えたことはない。


「カップ……焼きそば?」


 お湯を入れて作る焼きそば、だと?

 瞬時に疑問が浮かんだ。

 お湯を入れるだけで焼きそばが食べれるなんてあり得るのかと。

 焼いてないのに?

 それは焼きそばなの?

 

 ——なっ! なん、だと。

 戦慄が体を駆け巡る。


「百八十円!?」


 全身で微振動を繰り返すわたし。

 そんな様子を見て心配になったのか「咲ちゃん。焼きそば好きなのかい?」と、駄菓子屋のおばちゃんが声をかけてきた。

 

 好きだ。

 確かに焼きそばは大好きだ。

 これは紛う事なき、否定し難い事実。

 しかし突きつけられたのは『百八十円』という価格。

 手持ちの小銭で僅か三十円届かない現実。

 

 カゴに入れたお菓子を全て諦めて尚、あの『カップ焼きそば』を手に入れる事は叶わない。


 握りしめていた小銭を床に落とす。

 既に小銭を持つ気力さえ失っていた。


「憎い……物価高が、只々憎い」


 肩を落とすわたしを横目に、おばちゃんは小銭を拾いながら耳元で呟いた。


「咲ちゃんいつも来てくれるから百五十円でいいよ」

「っ!」


 バカなっ! 割引だと!?

 それは悪魔の囁きっ!

 圧倒的、誘惑っ!!


 菊屋のおばちゃんは少し口角を上げてこちらも覗き込むと、背中を優しく、数度叩きレジへと舞い戻っていった。


 今、全てを投げうてば『カップ焼きそば』がわたしの手に。

 しかし、そうすると母へのサプライズは叶わぬものへとなってしまう。


 わたしは揺らいだ。

 まるで世界が回っている感覚に陥った。

 実際店内をぐるぐる回った。


「わたしはどうすればっ!?」


 だが、気づいた時には『カップ焼きそば』を手に家路についていた。


 空腹とは。

 人間の欲望とは、得てして恐ろしいものである。

 わたしは初めて己の欲求に敗北をしたのだ。


 しかし『カップ焼きそば』を食する事出来るという恍惚感がわたしを包んでいたこともまた確かである。


 アパートの階段を駆け上がり、玄関を勢いよく開け、台所に一直線にむかう。

 お湯の沸かし方は知っている。

 もちろん火を扱うという危険性も。

 しかし!

 細心の注意を払いながらであれば、今のわたしならば容易く完遂出来る任務ミッション


 わたしは危なげなく、沸かせたお湯を『カップ焼きそば』に注いだ。

 完成までは三分間を要する。

 それは悠久の時を思わせる百八十秒間だった。

 そしてついにその姿を現した『カップ焼きそば』。

 立ち込める焼きそばの匂いが食欲を刺激する。


「……はっ!」


 そこで初めて気づく。

 お湯を切らなければいけない事に。

 同時に、火薬と共にスパイスも全部入れてしまっていた事に。


 わたしは己の欲を優先し、結果的に全てを失ったのだ。


『カップ焼きそば』も、なけなしの小銭も。

 母の喜ぶ笑顔さえも——。


◇◇◇


 今のリルの瞳。

 それはきっと『カップ焼きそば事変』のわたしと同じ。

 絶望に満ちた、そして悲哀に満ちた憂いの瞳。


 でもね、きっと大丈夫。

 リルなら乗り越えられる。

 だってわたしが乗り越えることが出来たんだから。

 


 いい子の皆はお母さんと一緒に『カップ焼きそば』作ってね!

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