第36話   廃部の危機

 朝霧夜一は日直の掃除を終わらせると、帰り支度を済ませて教室を出た。


 一年A組の教室があった本校舎を飛び出し、疾風の如き速さでグラウンドの横に設けられていた歩道を駆け抜ける。


 やがて見えてきたのは文化系サークル棟の裏手にあった林だ。


 六月中旬の乾いた微風を受けて樹木の枝葉が踊るように揺れ動いている。


 しかし夜一は脇目も振らずにラジオ放送部の部室へとダッシュ。


 瞬く間に部室に到着した夜一は出入り口の扉を盛大に開け放つ。


「名護先輩、ライン見ました! 売り上げの結果が出たんですって!」


 肩で呼吸しながら夜一は室内を見回す。


 すでに他の部員は全員揃っており、各々が長机の席に座っていた。


「もう駄目だ! この世の終わりだああああ――っ!」


 不意につんざくような悲鳴が夜一の耳朶を打った。


 声の発生源に顔を向けると、自分の頭を両手で押さえながら絶望のふちに沈んでいた秋彦の姿が飛び込んで来た。


「まさか、DVDがまったく売れなかったんですか?」


 武琉からラインが届いたのは、六時間目の授業が終わった数分後だった。


 DVDの売り上げが判明したから部室に来いという内容に夜一はすぐにでも飛んで行きたかったが、さすがに担任が見張っている中で日直の掃除をサボることはできなかった。


 なので急ピッチで掃除を終わらせ、担任やクラスメイトの女子に対する挨拶もそこそこに部室に足を運んだのだが。


「やっぱり世の中そんな甘くないですよね。ちょっと人気声優をゲストに呼んだからって、百万円も稼げるDVDが作れるはずがない」


 そう夜一が溜息混じりに呟いたときだ。


「朝霧、何か勘違いしてないか? 秋彦の嘆きとDVDの売り上げは関係ないぞ」


 夜一は「え?」と頓狂な声を発して武琉を見据えた。


「こいつフラー(馬鹿)だから調子に乗り過ぎたのさ。あれほど自作自演は気をつけろと念を押していたのに、ワン(俺)の忠告を無視して各動画サイトに書き込みを続けていたら荒らしと間違われてアカウントを停止されたんだと」


「一ヶ月もアクセスできないなんて拷問だ! それに何だよ早急にアカウントを復活させたかったら管理人に書類を提出って! めちゃくちゃ面倒臭えっつうの!」


 夜一は子供のように長机を叩き始めた秋彦に歩み寄ると、秋彦の左耳に口を近づけて腹の底から声を振り絞った。


「紛らわしい真似しないでください! 本気でビビったじゃないですか!」


 日頃から喉を鍛えている夜一の声量はかなりのものだ。そんな夜一に耳元で大声を上げられたら恐るべき耳鳴りに侵されるだろう。


 現に秋彦は「耳閉感が! 耳閉感が!」と叫びながら椅子から転げ落ちてしまった。


 そんな秋彦を完全に無視して夜一は武琉に話を振る。


「で? 肝心の売り上げはどうなったんです。赤字? それとも黒字ですか?」


「どちらかと言えばトントンだ。お前たちも手伝ってくれたお陰で予想以上にネットで口コミが広がってな。全部で千四百枚弱は売れたんじゃないか」


「千四百枚! 凄いじゃないですか。それなら九頭竜先輩から新たに借りた借金と合わせても十万円も差がない。四人で分割すれば一人頭二万五千円で借金がチャラになりますよ」


「いや、実はそれが……」


 武琉はこめかみを人差し指で掻きながら難しい顔で言った。


「どうやら君夜に負った借金には利子がついていたらしくてな」


「利子?」


 嫌な予感が夜一の背筋を全速力で走り抜けたとき、先ほどから無言を貫いていた君夜が堰を切ったように言葉を吐き出した。


「そうよ。借金を負う場合は必ず利子が発生する。今回、あなたたちが私に負った借金は二十一万円。それに未返済だった百万円を足した百二十一万円の利子を払ってもらう。大丈夫、一日一割のカラス金なんて言わないから。十日で一割のトイチでいいわ」


「と、十日で一割!」


 夜一が驚くのも無理はなかった。


 今日は番外編をDVDとして販売すると決めた日からちょうど一ヵ月後。


 つまり君夜から新たな借金を重ねた日から三十日が経過しており、百二十一万円にトイチの利子が加わっていた場合、三十日が経っていた現在では約百六十万円にまで借金が膨らんでしまっている。


 これではDVDの売り上げを差し引いても約五十万円の赤字だ。


「そんな馬鹿な。だってあのとき、九頭竜先輩は借金に利子がつくなんて一言も言わなかったじゃないですか」


「聞かれなかったからね」


「ふざけるな!」


 君夜の物言いに夜一は完全にブチ切れた。


 渾身の力を込めて長机に掌を叩きつける。


「いい加減にしろよ! 黙って聞いていれば好き勝手なことをベラベラと! トイチの利子なんて典型的な闇金の手口じゃないか!」


 長机を叩いただけでは怒りが治まらず、ついに夜一は左手で君夜の胸倉を掴んだ。


 右手は固く握り込んで弓矢を番えるように後方に引く。


「アカン! 夜一君、それだけはアカンて!」


 極限まで引いた右拳を君夜の顔面に放とうとした瞬間、横から奈津美に抱きつかれた。


 そのせいで夜一は君夜を殴るタイミングを完全に逃してしまった。


「離せ、奈津美! この女は一発殴らないと気がすまない!」


「嫌や! 絶対に離さへん! 男は女の子を殴ったら駄目なんやで! それに君夜ちゃんだけは絶対に刺激したらアカンのや!」


「それはこの女がヤクザの娘だからか!」


 夜一は身体に抱きついていた奈津美を引き離し、君夜に人差し指を差し向けた。


「あんたらは平気なのかよ! あれだけ苦労して収録した番組じゃないか! それを売って借金が返せると分かった途端にこの女は十日で一割なんて馬鹿げた利子を言ってきた! こんな横暴が許せる訳ないだろ!」


「朝霧、とりあえず落ち着け」


 夜一は射抜くような視線を武琉に向ける。


「落ち着け? これが落ち着いていられるか! せっかくDVDが売れたのにまた五十万円の借金ができたんだぞ! 名護先輩、あんたは平気なのかよ! 今回の収録で誰よりも苦労したのは先輩だろ!」


「分かったから一先ず落ち着けって。頭に血が上ったらまともに話せん」


「だから落ち着いてなんて」


 唾を飛ばすほど武琉に反抗した直後だった。


「はあ……仲間にだけは手を上げたくなかったんだがな」


 武琉は椅子を踏み台にして長机を一気に飛び越えると、夜一の目の前に颯爽と降り立った。


 それだけではない。夜一の腹部にノーモーションから拳打を放ったのだ。


 素人である夜一は何も抵抗できなかった。


 武琉の右拳が緩みきっていた腹部に深々と突き刺さったとき、内臓全体が見えない手で掻き回されるような衝撃を受けて膝から崩れ落ちた。


「う……があ……ぐうう……うえええ……」


 夜一は堪えきれずに胃液をぶち撒けた。


 部室の一角に酸鼻たる匂いが充満する。


「すまん、朝霧。こうでもしないとお前の気を静められないと思ってな」


 武琉は目眉をひそめて苦悶している夜一に視線を落とす。


「何するんや、自分! 夜一君を殴ったってしゃあないやないか!」


「一緒だ。あのままだったら確実に朝霧は君夜を殴っていた」


「せやけど!」


「お前も落ち着くんだ、奈津美。お前まで取り乱したら本当に話が進まん」


「話?」


「ああ、君夜との大事な話だ」


 夜一は何度か咳き込んだ末に顔を上げる。


 そこには君夜と対峙している武琉がいた。


「君夜、朝霧が来る前にも訊いたがトイチの利子は本当なんだな?」


「ええ、本当よ。ですが私も鬼ではありません。トイチの利子は元金である百万円の分さえ返してくれれば帳消しにしてあげます」


「それでもワン(俺)たちには五十万の借金が残る」


「ですね。でも、すぐに返せなんて言いません。前と同じ気長に少しずつ返してくだされば結構です。そうだ。来年も綾園動画コンテストに作品を応募するというのはどうでしょう? 武琉君なら今度もきっといい台本が書けますよ」


「いや、悪いが来年はない」 


 武琉は落ち着き払った声で言った。


「ワン(俺)は今日でラジオ放送部を辞める」


 夜一が口元に付着した胃液を手の甲で拭うと、傍に立っていた君夜も声を漏らした。


「うちも辞めるわ。借金を返済するために部活するなんてこりごりや」


「ジャストモーメンツ! お前ら、俺の許可なく部を辞めるなんて許さねえぞ!」


 いきなり会話に入り込んできたのは武彦だ。


 ずっと無視されて辛かったのだろうか。


 よりにもよって長机の上に飛び乗って大声を上げた。


「許すも許さないもない。ワン(俺)も本音を言えば奈津美と同じさ。どうして借金を返済するために部活をしないといけないんだ」


 武琉は空いていた椅子に腰を下ろした。


「秋彦、お前も建前じゃなくて本音を言ってみろ。こんな馬鹿げた状況に陥ってまでラジオ放送部を続ける価値があるのか?」


「それもそうだな」


 秋彦はまったく答えに窮しなかった。


「構成作家とパーソナリティが抜けたらラジオ番組なんて作れねえ。こんな時期から新入部員なんて期待できねえ。借金も返す当てがねえ。ねえねえねえ尽くしだからな……いっそのことラジオ放送部は今日を持ってお開きにするか」


 意外な展開だと夜一は目を丸くさせた。


 てっきり秋彦なら二人を説得すると思ったのに。


「ちょっと待って! 今日で部を解散するなんて嘘でしょう?」


 だが三人の退部に一番戸惑いを見せたのは君夜だった。


「嘘じゃない。どちらにせよ二人もメンバーが抜けたら廃部は決定だ」


 秋彦は長机の上に胡坐を掻いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る