第35話 初期費用の捻出
奈津美の意見は正論だった。
人気声優である上里円清をゲストに招いたラジオ番組が一部で話題になっている事実は知ったが、それが借金を返済できる有効な手立てとは思えない。
しかし、武琉はまったく表情を崩さず言葉を続ける。
「確かに百万円分の売り上げを稼ぐのは非常に辛い。アニラジなんかのDJCDも最近は売り上げが芳しくないと言われているしな。でも、それはCDを作る過程で様々な経費がかかっているからだ。声優のギャラ、番組スタッフの人件費、宣伝費。じゃあ、ここで皆さんに問題です。仮にこれらの経費をかけずにCDが販売できたらどうなるでしょう?」
「経費がかかるのはCDのプレスとパッケージの印刷代や包装費のみ。残りはすべて売り上げになる?」
真っ先に答えを導き出したのは秋彦であった。
「その通り。これは言わば発行元を持たない個人商売だ。そして俺たちは映像つきラジオ番組を収録した際、実際にかかった経費は上里さんに支払ったギャラだけ」
「あ……本当だ」
ここまで聞いて夜一はようやく得心した。
武琉の言った通り、番外編を収録したときには円清に支払ったギャラ以外に費用がまったくかかっていない。
当たり前と言えば当たり前である。
自分たちは放送局に勤めている会社員ではない。
単なる高校生なのだ。
番組を一本作るに当たって人件費などかかるはずがなかった。
「つまり、売れたら売れた分だけワン(俺)たちは個人商売の分だけ得をする。無論、売れなかったら在庫が余って最悪の事態になりかねない。ただ、ネットの口コミやメールの反響なんかを鑑みても相応の売れ行きは確保できると思う。何せ人気声優の上里円清が、全国では無名に近い一高校の放送部が作った番組に出演したんだぞ。ユーチューブやSNSで情報を発信するだけでも十分に話題性がある」
「今のご時世、そんな簡単にはいかないでしょう。それにうちはただの放送部じゃなくて〝ラジオ放送部〟ですしね」
「確かに話題性は抜群やんな。うちでもユーチューブやSNSで〈人気声優が高校のラジオ放送部にゲスト出演〉なんて記事を見つけたら詳細を知りたくなるわ」
「そうだろう? 現に漫研やアニ研の連中が金を払ってでも観たいと言ってきたんだ。これからもっとネットの口コミで広がれば必ず買いたい人間が出てくるはず」
「そんなに上手くいきますかね? だってそうでしょう? 俺たちが百万円の利益を得るためには相当の枚数のDVDを作って売らないといけないんですよ」
「そうやな。きっと十枚や二十枚では利かへんで。大体、一枚幾らで売る気なんや?」
武琉はふんと鼻を鳴らし、顔を液晶モニターに向き直した。
マウスを動かしてラジオ放送部のホームページから別のページへ飛ぶ。
「本来なら安ければ安いほどいいが、あまり安すぎると逆に客足が遠ざかる場合がある。安かろう悪かろうってな。だから価格は一枚につき千円。そしてDVDのプレスは専用の会社に任せる。夜一が電話をかけている間に色々と調べてみたが、どうやらここの会社が一番安い」
液晶モニターには〈映像制作ムービー・アート〉というページが表示された。
「この会社はDVDプレス、プラスチックケース、ジャケットデザインまでがセット料金で依頼できる。他にもサービス内容にはナレーションや編集作業もあったが、価格が高くなるしワン(俺)たちの番組にそもそもナレーションや編集は必要ない。ジャケットのデザインもこの際だから除外した。ジングル用に作った画像をDVDの盤面に印刷してもらう。これだけでも相当の金が浮く」
「それで何枚プレスするんだ? 百枚か? 二百枚か?」
秋彦の問いに武琉は右手で人差し指を一本、左手に至っては五本全部を開いた。
「千五百枚だ!」
「千」と秋彦。
「五」と夜一。
「百」と奈津美。
「枚」と君夜。
「そう、千五百枚。〈映像制作ムービー・アート〉のDVDコピー単価は一枚六十円。千五百枚コピーを頼んだとしても九万円。プラスチックケースも五十枚セット千五百円を三十個で四万五千円。盤面カラーが一枚百円で千五百枚だから十五万円。だが五百枚を超えると半額になるから七万五千円。すると合計で二十一万円だな」
「つうことは百九十円で一枚のDVDができるわけだ。そんで販売価格の千円から百九十円を引いた八百十円が俺たちの得る利益になる。それを千五百枚売ると……」
「単純計算で百二十一万五千円。まあ、千五百枚すべて完売したらの話だがな」
すると最低でも千二百枚以上は売らないと借金は返せないということか。
夜一は複雑な方程式を前にしたような心境に陥った。
「だからこそ、DVDは業者に任せてワン(俺)たちはワン(俺)たちの仕事をする」
「具体的に何をするんです?」
「知れたこと。ネットの口コミを増やすんだ。たとえば夜一、お前はネットに詳しいか?」
「普通にサイトを見るぐらいなら」
「だったらお前と奈津美は色々な掲示板に書き込め。人気声優の上里円清が無名の高校生たちが作ったラジオ番組にゲスト出演したことをな。他にもアニメ、声優、漫画、小説が好きな人間のブログにも書き込んどけ。ただ、あまりにも詳細に書くなよ。あくまでも噂程度が一番いいんだ。口コミが広がりやすい」
「待てよ、武琉。じゃあ俺たちは一体何をするんだ?」
「ワン(俺)と秋彦は各動画サイトに番外編の映像を流す。噂が噂で終わらず真実だったことも広げないと駄目だからな」
「映像を流すって全部か?」
「フラー(馬鹿)! どこの世界にこれから売る商品の映像を全部流す奴がいる。あくまでもオープニングの五分間だけだ」
「なるほど、まあやるだけやるしかないな」
にやりと笑った秋彦が左手の掌に右拳を叩きつけたときだ。
「武琉君、ちょっと訊きたいことがあるんだけどいい?」
両腕を緩く組んだ君夜が意見した。
「待て待て。お前の言わんとすることは分かる。DVDの作成費のことだろ?」
「ご明察。約二十万円の出費は誰が出すのかしら?」
借金のことばかりに気を取られて忘れていた。
番外編を商品にするためには二十一万円もの大金が初期費用としてかかるのだ。
「君夜!」
突如、武琉は椅子から降りて絨毯の上に両膝をついた。
それだけではない。何と武琉は額を絨毯につけて土下座したのだ。
これには全員が瞠目した。
特に土下座された君夜は視線を左右に泳がせる。
「頼む。二十一万円をワン(俺)たちに貸してくれ。いや、貸してくれるのはワン(俺)だけでいい。万が一、赤字になってもDVDの作成費の負担は全部ワン(俺)一人で持つ。だから頼む。この通りだ!」
「名護先輩……」
漫画やアニメなどでは何度か見たことあるが、こうしてリアルに他人の土下座を見るのは初めてだった。
さすがにリアルな土下座は他人だろうと心が痛む。
「どうして? どうして、そこまでできるの? たかが……たかが部活動じゃない」
「ワン(俺)も最初はそう思っていた。だが実際に部員が揃って初めて分かった。ゲストを招いて一本のラジオ番組を収録して初めて分かった。ラジオ放送部はワン(俺)の青春を懸けるだけの価値があるって。だからワン(俺)はこれからも構成作家として腕を振るいたい。このメンバーで新しい番組を録ってみたいんだ」
「君夜ちゃん、うちからも頼むわ! うちらにお金を貸したってください! うちもこれからパーソナリティとして番組をしてみたいんや」
続いて奈津美が君夜に土下座した。
「あ~あ、俺はこういうキャラじゃないんだけどな」
仕方ないか、と今度は秋彦が君夜に対して土下座する。
三人の土下座を前に耐えられなくなったのだろう。
君夜は明らかに狼狽した顔で夜一に顔を向けてきた。
助けてくれと目線で訴えている。
「九頭竜先輩」
そんな君夜の期待を夜一は裏切った。両膝を絨毯につけて大きく頭を下げる。
「俺からもお願いします。ぜひ俺たちに金を貸してください。名護先輩の言葉が本当なら今が借金を全額返済できる千載一遇のチャンスです。だから――」
「もういい!」
部室内に君夜の叫び声が響き渡る。
「あなたたちの土下座なんて見たくない。私はこれで帰らせてもらうわ」
駄目だったか、と夜一が顔を上げたときだ。
「でも声優の凄さを見せてもらったしね」
君夜は小さく呟くと、財布から一枚のカードを取り出して長机の上に置いた。
「暗証番号は私の誕生日だから。あとは勝手にやってちょうだい」
それだけ言うと、君夜は自分の学生鞄を手に部室を出て行ってしまった。
夜一たちは両膝に付着した埃を落としつつ立ち上がる。
「キャッシュカードだけ置いて退散か……お嬢らしい粋な計らいだな」
秋彦は有名銀行のキャッシュカードを見つめて苦笑する。
「せやけど君夜ちゃんの誕生日っていつやったっけ?」
「その点は安心しろ。ワン(俺)が覚えている。それよりも」
武琉はキャッシュカードを手に取った。
「一円しか入ってなかったらどうする?」
「お前、一円って預金口座を作る際の最低必要金額じゃねえか」
「大丈夫ですよ。だって九頭竜先輩の実家は資産家なんでしょう?」
「資産家って言えば資産家だけど……」
「じゃあ、安心じゃないですか。大丈夫、きっとDVDの作成費を賄えるほどの金額は入っていますよ。根拠はまったく無いですけどね」
「ないのかよ!」
その後、四人は君夜のキャッシュカードを持って銀行のATMへ向かった。
期待や不安などの感情を胸の内に潜めながら――。
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