第2話 運命の再会
下萌ゆと 思ひそめたる 一日かな
明治から昭和の時代までを生きた俳人――松本たかしの春を詠った俳句を心中で呟きたくなるほど今日の天気は晴々としていた。
春は温度の変化だけではなく、動植物も大いに変化する季節だ。
それまで枯れていた草木が新しい芽を吹き、若干の青みを帯びてきた地面の色が春の到来を感じさせてくれる。
高校生活も同じだ。
春は思春期の中学生が苦難の受験を乗り越え、新たな学校生活に不安と興奮が入り混じった感情を覚える季節でもあった。
それは私立八天春学園に入学した新入生たちも同様だ。
校門から昇降口の並木道には立派な桜の木々が何本も植えられており、ピンク色の雪が暖かな微風に乗って学生の頭上を通り過ぎていく。
「本当にクラブ活動が盛んな学校だな」
八天春学園指定であるモスグリーンのブレザーを纏っていた夜一は、校門から昇降口までの並木道の中に張られている無数のテントを見渡す。
祭りの出店のようなテントを張り、一人でも多くの新入生を獲得しようと躍起になっている学生たちは運動部の連中だ。
クラブ活動のときに着用する様々な衣服で勧誘に励んでいる。
だが文化系のクラブ活動に入ろうとしていた夜一には関係のないことだった。
夜一は先ほど自販機で購入したジュースの空き缶をゴミ箱に捨てると、文化系クラブの部室がひしめいているサークル棟へと足を動かす。
校舎から専用通路を抜けて文化系のサークル棟へと入り、隅々まで綺麗に清掃が行き届いたリノリウムの廊下を進む。
そして多くの生徒たちと擦れ違いながら、L字型の曲がり角に差しかかったときだ。
「うおっ!」
夜一は曲がり角の奥から出現した物体と激しく衝突した。
あまりの衝撃に夜一の身体が見えない糸に引っ張られたように後方へ吹き飛ぶ。
幸い頭を打つことはなかったものの、背中から廊下に落ちた夜一は柔道の大外刈りをまともに受けたときのような激痛と息苦しさを覚えた。
(曲がり角を曲がるときぐらい速度を落とせ、馬鹿!)
周囲の友人たちから温厚な人間と称されていた夜一でも怒りを覚えた。
それほど曲がり角の奥から飛び出してきた人間の突進力には目を見張るものがあったからだ。
だからこそ、夜一は一言文句を言わなければ気がすまなかった。
颯爽と上半身を起こして立ち上がると、ぶつかってきた相手に目眉を吊り上げて睨みつける。
しかし――。
夜一は口を半開きにしたまま呆然とぶつかってきた相手を見据えた。
ぶつかってきた相手は髪を三つ編みにした少女だった。
背丈は身長百六十五センチの夜一よりも頭一つ分は低く、シルバーフレームの眼鏡をかけている。
愛嬌のある猫顔に滑々とした卵肌。
無駄な贅肉のないほっそりとした半身は、未だリノリウムの廊下に預けている。
小動物のような外見の少女を認識すればするほど、夜一の奥底から燃え上がった怒りの炎は沈静化していった。
女に対して怒声を浴びせるほど落ちぶれてはいない。
たとえそれがアメフト部顔負けの凄まじいタックルを見せた少女だったとしてもだ。
夜一は険しかった表情を崩し、背中の鈍痛を無視して眼鏡少女に歩み寄った。
「ど、どこか痛むところはないか? 何だったら保健室までつき添うけど……」
夜一は艶かしい姿のまま硬直している眼鏡少女に手を伸ばす。
「嫌、うちに触らんとって!」
一拍の間を置いた後、眼鏡少女は桃色の唇を震わせながら第一声を発した。
「自分、女を突き飛ばしただけやなくセクハラしようなんて虫がよすぎんで!」
コンマ数秒後、夜一の脳内で電光石火の如き思考能力が働いた。
そして夜一は眼鏡少女の口から吐き出された言葉の意味を、一言一句漏らさずに解読する。
「おい、誤解するな。俺はそんな気持ちはまったくない。それに突き飛ばしたって言われても俺だって被害者なんだ。飛ばされたときに背中を盛大に打ったんだから」
「え、あ、そ、そうやね……言われてみればこれってどっちが悪いとかの話ちゃうやんな」
眼鏡少女は関西の生まれなのだろう。
こちらの不満をぶつけるなり、「どないしよう……部長は大丈夫って言うてたけど、これってやっぱりうちのほうが思いっきり悪者やんか」と掠れるような声でぶつぶつと言い始めた。
「まあ、いいや。どうやら目立った怪我もないようだから俺はこれで」
そんな眼鏡少女の態度を見て、夜一は取り敢えず彼女に大きな怪我はないと判断。
何やら背筋に悪寒も走り始めたので足早にここから立ち去ろうとする。
「あ、ちょい待って。いや、ほんの少しだけ待ってください」
振り向いた直後、眼鏡少女に両腕で右手を掴まれた。
それほど強い力ではなかったが、眼鏡少女の両腕からは力の代わりに何やら強い意志のようなものが伝わってくる。
「悪いけど手を離してくれないか。俺は今から行くところがあるんだ」
「うちもそうや。うちも行くところがあんねん」
「じゃあ、レディーファースト。お先にどうぞ」
「ちゃうねん。君が一緒におらんとあかんのや。せやないと作戦が成功せえへん」
「は? 君は一体何を言っているんだ?」
と、渋面のまま訊き返したときだ。
「おいおい、真っ昼間から学園内で不順異性交遊を行うとは大胆不敵な奴らだな!」
夜一と眼鏡少女は同時に声が聞こえてきた場所へ顔を向けた。
声を発した人間は二階から一階へと続く階段の踊り場に佇んでいた。
夜一よりも頭一つ分は背が高い細身の男だ。
シャギーがかった髪に適度な高さを誇る鼻梁。
顎の先端に向かうほど鋭角になっていく顔のラインは同じ男とはとても思えない。
それこそ、ティーンズ雑誌のモデルを務めても違和感がないほど整った顔立ちをしていた。
また新入生の夜一とは違って二年生の証である青のネクタイを緩く締め、ブレザーに至ってはボタンを留めずに着崩している。
「やや、よく見ると曲がり角での接触事故じゃないか。入学早々、古典的なギャルゲーのイベントシーンを生身で見られるなんてラッキー」
「……誰だ、あんた?」
「あんた呼ばわりとは聞き捨てならねえな。仮にも俺は二年だぜ。学生のうちに年上を敬う癖をつけとかないと社会に出たときに困るぞ」
唇の端を吊り上げた優男は、自分自身に親指を突きつける。
「何て初対面の相手から説教されても仕方ねえよな。よっしゃあ、こんなところで遭ったのも何かの縁だ。特別に俺の名前を教えてやる。俺は二年C組工業科の円能寺秋彦。気安く円能寺様とでも呼んでくれ。ただし円ちゃんや秋ちゃんと呼ぶことだけは勘弁な」
(やっぱり春よりも夏だな夏。さすがに夏にはこういう輩も少なくなるだろうから)
夜一は秋彦を無視して踵を返した。
「ヘイ、狭い日本のさらに狭い八天春学園のサークル棟。そんなに急いでどこへ行く?」
「あなたには関係ないでしょう」
「思うか思わないかはこちらが決めることだ。なあ、奈津美」
階下まで降りてきた秋彦は関西弁の眼鏡少女――奈津美にウインクする。
「君とぶつかった女は門前奈津美といって俺と同じクラブに籍を置く大事な女だ。そんな身内同然の仲間が、男に突き飛ばされたままハイサヨナラじゃ俺の腹の虫が治まらねえ」
「この場で土下座でもしろと言いたいんですか?」
「いやいや、さすがの俺も新入生相手にそこまでしろとは言わねえよ。ただ、俺の質問に正直に答えてほしくてね」
「質問?」
「そうだ。わざわざ文化系のサークル棟にまで足を運んだってことは、君が文化系のクラブに入部する腹積りだってのは分かる。だが、君がどのクラブに入部するのかまでは分からない。是非ともそこを教えてほしくてね」
「別にどのクラブに入ろうと俺の勝手です」
「そう邪険にすんなって。よし、だったら俺が当ててやろう……軽音部!」
「違います」
「ほう、そうか。ちなみにうちの軽音部は全員男だ。じゃあ次……華道部!」
「それも違います」
「これも違うか。あ、ちなみにうちの華道部に喧嘩魔王はいねえ。次……美術部!」
「NOです」
「NOだと! ついに否定の言葉が日本語でもなくなったか。ちなみにうちの美術部に姉妹でアイドルの神様はいねえ。一人もな! じゃあ、今度こそ当ててやる……写真部!」
「写真部って具体的に何をする部活なんです」
「さあ、実のところ俺もよく分からん。ちなみに俺の知り合いの話によると、いかにもな廃墟に古いカメラを持って「除霊!」と叫びながら侵入するそうだ」
「写真部の人たちが全員呪われることを心から願っています」
秋彦と奈津美に軽く頭を垂れた夜一は、再び振り返って歩き出した。
「待った待った。じゃあ、次で確実に当ててやる。ずばり君は演劇部に入るつもりだろう!」
その瞬間、夜一の足がぴたりと止まった。
「ふふ~ん、どうやら図星だったようだな。ただ忠告しておくぞ。この学園の演劇部に入るのは止めたほうがいい。何てったって……」
得意気に鼻を鳴らした秋彦だったが、顔だけを振り返らせた夜一は言い放った。
「何か誤解されているようですけど、俺は演劇部に入るつもりはありませんよ」
「え?」と奈津美。
「ちょ、嘘だろう。だって君は……」と秋彦。
過剰な驚きの反応を見せた二人に夜一は「もう用がないなら話しかけないでください」と若干の怒気を含ませた声で忠告した。
にもかかわらず、秋彦は途端に驚きの表情からにこやかな笑みを浮かべた。
「軽音部でもない。華道部でもない。美術部でもない。写真部でもない。ましてや演劇部でもないと来た。ならば君の入りたいクラブが今度こそはっきりと分かったぜ」
秋彦は二段飛ばしで階下まで降りると、夜一に近づいて強引に握手を求めた。
「ようこそ。俺が…………放送部部長の円能寺秋彦だ」
「あなたが放送部の部長!」
「いかにも。仲間からはディレクターとも呼ばれている」
「それって勝手に呼ばせてるだけじゃ……」
「やかましい! パーソナリティがディレクターに意見するな!」
「ひゃう。すんまへん。ほんまにすんまへん」
奈津美は非常に臆病な性格なのだろう。
秋彦に一喝されるなり、その場で両膝を曲げて顔を両手で覆い隠してしまった。
「奈津美、その無闇やたらに謝る癖は直せと何度も……おっと、すまない。え~と、朝霧夜一君だったね。少し話が脱線してしまったがそういうことだ。君が俺たちのクラブに興味があるなら部室まで案内するがどうだい?」
「待ってください。どうしてあなたが俺の名前を知っているんです?」
「そりゃあ知っているさ。昨日の新入生代表の挨拶は素晴らしかった。ただ大きく声を張り上げるだけでなく、一言一句噛まずにあれほど滑らかに挨拶の内容を読むことは難しい」
「あ、ありがとう……ございます」
「そんなに畏まるな。これはお世辞じゃない。言うならば忌憚ない意見ってやつだ。それでどうだ? 俺たちのクラブを見学して行くか?」
「はい!」
夜一に断る理由はなかった。
なぜなら、夜一は放送部に入部することが目的で文化系のサークル棟まで足を運んだのだから。
「よし、そうと決まれば善は急げだ。俺の後について来い」
そう言うと秋彦は二階ではなく、サークル棟の正面玄関に向かって足を動かしていく。
「円能寺先輩、どこへ行くんですか? 確か放送部の部室はここの三階でしょう?」
「そう焦りなさんな。君には俺たちのとっておきを見せてやる」
意味深な台詞に首を傾げたものの、すでに夜一の両足は秋彦の背中を追っていた。
自分の高校生活は演劇部ではなく放送部から始まる。
八天春学園に合格したときから決めていた夜一の足取りは、通常よりも足早で軽やかだった。
そう、このときまでは――。
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