【連載】声の海 ~声優になりたいと強く願う俺が、オタクの巣窟の八天春学園ラジオ放送同好会に入会した件について~

岡崎 剛柔(おかざき・ごうじゅう)

第1話    声優オーディション

 二月も半ばを過ぎたというのに、未だ陽気な春の訪れは感じられない。


 窓ガラスの向こうには暗色の雲から降り続く粉雪が見て取れた。


 今頃、通りを行き交う人間たちは肌寒さを堪えながら足を動かしているだろう。


 今日の気温は天気予報によればマイナス四度。


 中には用事もないのに暖房がついた店へ入ってしまう人間もいるかもしれない。


 それほど今日の寒さは一段と凄まじかった。


 しかし、ここ東京は神田にあるイベント・ホールの会議室は違う。


 十人しかいない会議室の中は、外とは打って変わった異質な熱気に支配されていた。


 それは暖房がかかって快適な温度になっているからではない。


 たった十人の男女の身体からは並々ならぬ迫力が発せられていたからである。


 いや、それは不安や動揺の表れだったのかもしれない。


 あるいはジェットコースターに乗る前のようなスリルに対する興奮だったのだろうか。


 とにかく会議室で待たされていた十代から二十代半ばまでと年齢が様々な男女は、これからゲーム会社のスタッフはもちろんのこと、声優関連の雑誌記者やゲスト審査員として招かれたプロの声優、そして抽選に当たった約百人の観客の前で自分の演技を披露しなくてはならない。


 今年で十六歳になる朝霧夜一あさぎり・よいちもその中の一人だった。


 部屋の隅で静かに胡坐を掻いていた夜一は、美少年とまでは言えないが目鼻立ちは悪くない精悍な相貌の少年だ。


 墨汁で染めたような黒髪は綺麗に切り整えられており、着ている服も白地のプリントTシャツの上からチャコール・グレーのショート・ブルゾンを重ね着したカジュアルな服装だった。


 穿いていたズボンも色落ちしたジーンズではなく、後ろ姿からも存在感をアピールできるような黒のバッグつきパンツである。


 細かな傷や色落ちなど微塵もない。


 なぜなら上から下まで――それこそ靴下や履いているスニーカーまですべて昨日購入した新品だったからだ。


 最初は普段から着慣れした格好でアテレコに望もうと考えていたのだが、やはり第一印象も大事だと思うようになって結局は服装をすべて新品に買い揃えた。


(落ち着け、夜一……ノーシンキン、ノーシンキンだ)


 などと夜一は先ほどから自分に言い聞かせていたが、ノーシンキン(考えるな)という言葉を浮かべるたびに体内の奥から言い知れぬ恐怖が込み上げてくる。


 無理もなかった。


 夜一は劇団で演劇を学んでいるわけでもなく、声優の養成所や専門学校に通っているわけでもない。


 正真正銘の素人だ。


 それが三百人近い応募者の中から書類審査やキャラに声をあてたテープにより合否を決められるテープ審査を乗り越え、実際に録音スタジオで演技をして合否を決められるスタジオ審査などの振るいに振るいをかけられた末に最終審査の十人に残った。


 だからこそ、夜一の心身を蝕んでいた負の感情は他の九人よりも一入だった。


 確実に他の九人は演技に関して素人ではない。


 少なくとも劇団や養成所、あるいは学校で演劇部に所属している人間たちだろう。


 堂に入った発声練習を行う者、自分で用意してきた早口言葉を滑舌よく練習する者、台本に書かれた台詞を何度も声に出して頭に叩き込んでいる者など、素人の夜一には聞いているだけで勉強になる部分が多々あった。


 だが、九人とも誰一人として夜一のことなど気にしてはいなかった。


 唯一、気にしているのは会議室に置かれていたテレビの映像だったに違いない。


 夜一も緊張という名の鎖に身体を縛られながら何度もテレビをちら見する。


 テレビには観客が集まっているホールが映っており、一番奥には百インチ相当の巨大なモニターと数本のマイクが置かれていた。


 これから実際にゲームキャラのアテレコをするホールの映像だ。


 夜一は無論のこと最終審査に残った九人が気にならないわけがない。


 当然である。


 最終審査である公開オーディションに見事合格すれば、プロの声優としての道がいち早く開けるのだ。


(ノーシンキン……ノーシンキン……)


 しばらくして夜一は余計な雑念に囚われないようテレビの画面から顔を背けた。


 やや丸まった背筋を再び伸ばし、両膝に左右の手を置いて複式呼吸を繰り返す。


 昨日はよく眠れた。


 今日の朝食はしっかり取った。


 自分が声をあてるキャラの台詞はカラオケボックスで毎日のように練習して完璧に覚えた。


 それでも先ほどから心臓の動悸は治まることを知らなかった。


 特に会議室に通されてからは面白いように心臓が暴れ回り、よもすれば口から勢いよく飛び出してくるような気がする。


 夜一は心中で激しく首を横に振った。


 それでは駄目だ。


 心臓の動悸が早まっているということは、酸素が大幅に消費されて血液中の二酸化炭素が急激に増加されたことを意味している。


 つまり恐ろしいほどに緊張しているのだ。


 そして緊張が行き過ぎると、ホルモンのバランスが乱れて精神的に不安定になってしまう。


 そうなっては普段の半分の力も出せない。


 十五年間で初めて味わう大舞台なのだから無理もないと言えば無理もなかったが、せっかく最終審査に残ったのだ。


 普段の力も出せずに不合格だけは絶対になりたくなかった。


 合格不合格にかかわらず、朝霧夜一という人間の全力の演技を見てほしい。


 そのためには緊張という鎖を断ち切り、心身ともにリラックスすることが必要不可欠。


 それ故に夜一は脳裏に素潜りの名人だった一人の男のことを思い浮かべた。


 世界的に有名だった素潜りの名人も、どんな海に入るときも念入りな柔軟体操とヨガの呼吸を行ったという。


 それは些細なことが死に繋がる海において、精神と肉体を完全に融合させなければ深海の恐怖に耐えられないことを素潜りの名人は知っていたのだ。


 では、この素潜りの名人はなぜ恐怖と闘いながらも海に潜り続けたのだろう。


 理由は至って簡単だ。


 海に潜ることが楽しくて仕方なかったからに他ならない。


 一歩間違えば海の藻屑と消え行くことの恐怖よりも何十倍も何百倍も何千倍も――。


 会議室に案内されてから何十分が経過しただろう。


 各自それぞれアテレコへのモチベーションを高めている中、一人のスタッフが微笑を浮かべながら会議室に入ってきた。


 十人の意識と視線が一斉にスタッフへと集中する。


「大変お待たせしました。そろそろスタンバイお願いします」


 夜一はテレビの画面に目を投げた。


 先ほどはまばらだった観客席がいつの間にか九割ほど埋まっている。


 二十代後半と思しきスタッフの男は全員を見渡すと、持っていた紙に視線を落とした。


「え~と……それでは先ほど説明した通りにこれから皆さんにはホールで男女一人ずつアテレコをしてもらいますが、今になって急に体調が悪くなったという人はいませんか?」


 スタッフの質問に夜一は首を振って否定した。他の九人も同様である。


「結構です。ではエントリーナンバー一番の朝霧夜一さんと、エントリーナンバー六番の新田麻美子さんのお二人からアテレコをしてもらうので私についてきてください。あ、それと携帯電話は万が一のことも考えてこちらで丁重にお預かりしておきます。貴重品だけ肌身離さず持っていてくださいね」


 快活な声で返事をした新田麻美子とは違い、夜一は隣に置いていた台本を持って静かに立ち上がった。


 もはや心身の自由を奪っていた緊張の鎖は解かれている。


(怖がるな、夜一。むしろ、この状況を思う存分と楽しめ)


 よし、と夜一は自分を勇気づけるなり大きく右足を一歩前に踏み出した。


 子供の頃から憧れた、声優の世界に入るための第一歩を。

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