30 バタフライ・エフェクト
その日はただの日常の延長だったと思う。
俺の前世はつまらない日常をひたすらに繰り返していた。
家族とは疎遠。
奨学金とバイトやらを駆使してなんとか大学に通いつつ独り暮らし。
働かないと学校に行くのも生活をするのもどうにもならなかったから、ひたすらにバイトを詰め込んでいた。
仕送りなんてものがあるはずもなく、必修単位の講義以外は全て
自分に興味のあることが知りたくて通っていたはずの学校はいつしか単位を取って卒業する為だけの目的に変わっていた。
けれども、どうしても出来てしまった空きコマの時間に通っていた図書館だけは堪らなく面白かったと記憶している。
民俗学の本を読み漁っていたっけ。
専攻は文化人類学だったんだけど、途中で民俗学の方が好きだと気付いちゃったんだよな。
まさかの専攻ミスだ。
どっちにしろ決して就職に強い学部じゃないんだけど。
意味の分からない行動や不思議な言葉が理解できるようになるのが好きだったのだ。
それだけじゃない。
現在の価値観では到底理解できない視点が残されていると知れることも面白かった。
何よりも好きだったのは。
忘れ去られていくものが、そこに在ったのだと記録として確定されることだった。
本当はフィールドワークとかも行きたかったんだけど、悲しいかなバイト三昧でどうにもならなかった。
でも後から悔いると書いて後悔と読むように行っておけばよかったと思う。
俺の前世は呆気なく、意味もなく死んだんだから。
強い雨が降っていた。
バイト明けの夜、傘が飛ばされない様に両手で握りしめて川沿いの道を歩いていると強い衝撃。
走馬灯は流れなかったけど、ゆっくりと身体が宙を舞っていた。
走り去っていくトラックの後ろ姿が見える。
轢き逃げかよ。
ゆっくりと進む時間の中でそんな言葉が出た。
実際には口に出すなんて出来なかったんだけど。
「ぁあ……ぅ、……っ」
声が出ない。身体が動かない。
遅れてじんわりとした痛みがやってきた。
それなのに頭だけは周り続けている。
きっと、実際の痛みはこんなもんじゃないんだろう。
身体の防衛本能か何かで許容量を超えた痛みが弾かれているんだ。
「ヒュ……、っは、ぁ……」
息が上手くできない。
どろりとした水が詰まっているような感じがする。
雨と泥が口に流れ込んでるのか?
泥の匂いに紛れて鉄分を多く含んだ生臭い匂い。
あ、違う。これ血だ。
俺の身体はガードレールを飛び越え、道路より随分と下の河原に投げ飛ばされていた。
突然の衝撃に何を考えている暇もなく。気が付くと真っ暗な空を眺めていた。
唯一動かせる視線で辺りを伺う。
道路は堤防の遥か上。
身体を包み込むように周りには生い茂った低木や蔓みたいな草。
ガードレールには光の反射が見える。
車のヘッドライトだ。
「だ……ぇ、か……」
でも、車が遥か下で倒れている俺なんて気が付く訳もなくて。
どうすることも出来ない中、一抹の希望に縋ってコンクリートの堤防の遥か上を眺める。
ひたすらに人が通るのを待つ。
冷たい雨の中、どれ程の時間が流れただろう。
もしかすると、そんなに長い時間は経っていないのかもしれない。
人影が見えた。
街灯の逆行で顔も性別もわからない。
希望に縋って腕を伸ばす。
「た……す、け……」
腕を伸ばそうとして上がらない。
下に引かれるような感覚。追って、時間差で来る痛み。
落ちた時の衝撃で突き出た枝に腕が縫い付けられていた。
「ぁあ……たすけ……て、……だれ、かっ」
粘りつく口を必死に開けて叫ぶ。
お願いします。気付いてください。
俺はここにいます。
助けてください。
――ほんの一瞬でいい。下を向いてくれ。
ひたすらに願った。
誰かに縋り付くのは初めての経験だ。
「えっ、なに、これ」
かくして奇跡が起きた。
歩いていた人影が何気なしに河原へ視線を流し、そして。
その視線は俺に向けられて止まった。
「誰か倒れてる……?」
気付いてくれたのだ。
たまらない安堵が俺の胸に溢れる。
この歳にして熱い涙が溢れた。
「ぁ、……っ、たす……け」
ガードレールに手を当てて俺を覗き込む人に精一杯の助けを求める。
風雨の音が少しだけ収まっていた。
河原に人が落ちて居て驚いたんだろう。
その人は道で茫然と立っている。
ポケットをごそごそと触っている動きがわかった。
四角い板のようなもの、恐らくスマホ――を取り出す。
取り出して。両手で握りしめて。
「ど、どうしたら……通報、でも、ぁ……」
それからきょろきょろと辺りを伺って。
またポケットに戻した。
「人、じゃないよな。に、人形が捨てられてるだけだよなっ」
違う! 俺は人形なんかじゃ、
なんども繰り返して聞こえた言葉。あれは人形だと。
ぶつぶつと落とされた独り言。
「人なんて居る訳がない。勘違い、た、ただの見間違いに決まってるっ! 不法投棄程度で通報なんてしない方が――」
小走りで走り去る背中。
夜闇に人影が溶けていく。
「っは……ま、って、」
ザァザァと耳に吹き荒れる雨の音。
身体は動かない。声は届かない。助けは来ない。
風と雨の音ばかりが耳に届く。
人影が去ってからは夜も深まり、ヘッドライトの反射光すら稀に見える程度。
そんな時間の中で俺はまだ生きていた。
ここに叩きつけられてから変わったこともなく。
相変わらず身体全身を苛むジクジクとした痛みは続いたままで、思考だけは明瞭なまま。
「……っ、……っは、」
呼吸すらままならない。
それでいてひたすらに寒かった。
ずっと雨水が身体を伝っているんだと思っていたけど、確実に俺自身の血もそれなりに流れているみたいだ。
ゆっくり、じっくりと、身体の先から冷えていく。
だのに意識は残り続けて。
死にながら思う。つまらない人生だったと。
もっと自分の好奇心に歯止めをかけず、突き進んでいたら少しは面白みがあったのだろうか。
目を閉ざしてしまえばそれだけ死に近づくようで、意地で瞼を上げ続けていたけど。
もういいだろう。
全部無駄な労力だ。
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