デフコン3発令
「何故ですか?拠点が奪われているのに取り返せないなんて!」
ホライゾン基地の通信施設、地球のヒューストンと交信を行うハミルトン飛行士は、憤りを露わにしながらそう叫んだ。
私はその剣幕を彼の後ろで見ていた。隣ではエドワード飛行士が同じく怪訝そうな顔で通信の様子を見ている。
すでに私たちの偵察は終了し、基地への帰還が指示された。今は帰還し武器と宇宙服を置いてきた後で、ヒューストンからの通信が入って来たかと思ったらこれだった。
ヒューストン側の責任者の表情は良くない。多少納得できないことがあるのか、頭を掻きながら、合衆国政府からの待機命令を改めて通達する。
『待機は命令だ。まだ奪還の指示は出ていない、勝手に動くな』
「合衆国の領土が奪われているのですよ?見過ごせません、合衆国の権利を共産主義者に割譲するつもりですか?」
ハミルトン飛行士はそう言って、事態の深刻さを訴えかける。
確かにもしこれが地球で起こったのならば、アメリカは即座に鎮圧と奪還に動いただろう。共産主義者に割譲する権利など一ベタもない、少なくとも地球ではそのスタンスのはずだ。
だが相変わらず責任者の表情は優れない。彼らも動くに動けない事情があり、今は対応に手を拱いている。責任者はそのワケを話しはじめた。
『……我々が有する月面領土というのは、完全な領有を主張できるモノではないのだよ』
「それは──」
『そうだ、月協定だ。当該条約において、月面は"いずれの国家の専有にもならない"とある。つまり合衆国が有しているのはただの拠点で、領土ではないという話だ』
事情の説明を受けたハミルトン飛行士は、この難しい国際条約の事情を察してこう言った。
「……つまりソ連は、月協定を盾に侵略を否定しているわけですか」
『そういうことだ』
厭らしく出し抜いて来たな、と。その様子を近くで聞いていた私はそう思った。
確かに通常の環境で言えば、ソ連の行為は明らかな侵略行為。空き巣と言ってもいいだろう、とにかく明確な犯罪行為であるはずだ。
だがここは月面。空き巣を主張する権利どころか、土地の所有権すらない。国際社会が激化する宇宙開発競争を見越し、月面の領有権を敢て曖昧なままにしていたツケがここで合衆国に回って来た形だ。
最悪な状況の中、ヒューストンとの交信は続く。
『彼らとしては"たまたま合衆国の拠点に不時着し、そこに何の効力もない旗を立てた"という言い分なのだろう。確かに月面領土に法的根拠がない以上、侵略という行為は生まれなくなる』
「しかしソ連としては、合衆国をら出し抜いてやったというパフォーマンスにはなると」
『そういう事だ。なにぶん、α-33の採掘権は長年ソ連と揉めてきたからな。一度パフォーマンスをするだけでも、合衆国を揺さぶれると思っているらしい』
それなら今すぐにでも旗を折りに行けばいいじゃないかと、ここにいる誰もが言いたかったが、今は通信に割り込むわけにはいかないので堪えた。
「……合衆国政府は、この事態にどのようにして対応するつもりで?」
改めて、ハミルトン飛行士は語気を強めた。彼としてもこのまま拠点に旗が立てられている状況は見過ごせない。
地球にいる合衆国政府も大統領も、その認識のはずだ。彼は強い対応を求める。
『これが侵略かそうで無いかにせよ、明らかなエスカレーション行為なのは事実だ。地球では既に各地の機動部隊が出動し、警戒体制に移行した。NATOや日本、韓国なども同時にデフコン3体制に移行したそうだ』
「言わんこっちゃない……ソ連は核戦争でも起こすつもりですかね?」
『分からないが、とにかくそちらは待機だ。大統領が腹を括らない限り、我々は動けないからな』
「了解ヒューストン。アウト」
ヒューストンとの通信が終わった。
ハミルトンは深くため息を吐き、後ろにいる私たちを振り返る。
「と、いうわけだ。我々は待機だ」
「一応聞きますが、こちらもデフコン3ですか?」
私は重要事項だったのでそれを聞いた。
ハミルトンはさも当然と言う様に、手を叩いてそれに応えた。
「当たり前だ。これより当基地はデフコン3に移行する。クルーは交代で宇宙服を着用し続けるぞ」
「願わくば、この基地に赤い旗が立てられなければいいですな……」
隣にいたエドワードが突然そう言った。
その場にいる全員の注目が彼に集まる。今のは冗談にしては状況が悪い。ハミルトンも、席を立ち上がって彼の前に歩み寄り、指を指す。
「それは縁起でもないから言うなよ?」
「い、イエッサー……」
ハミルトン飛行士はそう言って、苦笑いでエドワードに釘を刺した。
確かにこんな状況下で赤い旗だなんて縁起でもない。それはこの基地が陥落するか、地球が核兵器で滅んだ時の話だ。それは望まない。
私も同じ気持ちだったので、彼の肩を叩いて無言の圧力を加える。エドワードはたじたじだった。
一方、中央区画にあるプライベートな通信機器はブライアンが使っていた。
基地がデフコン体制に移行する前に、彼は一か月に一度しか許されていない家族との通話を開始した。
「母さん、俺だよ。こっちは元気にやってるよ」
右下に制限時間が設けられた画面の向こうには、ブライアンと同じ肌で黒髪をドレッドヘアーにまとめた、ふくよかな女性が映っていた。ブライアンの母親だ、彼女の方は元気そうである。
だがブライアンの方は顔色が優れない。減圧症からは回復したが、まだ少しばかりふらつくこともある。母もそれを察したのか、彼の体調を気遣う言葉を投げかけた。
『ブライアン……やっぱり顔色悪いんじゃない?一度倒れたって聞いて心配したのよ?』
「それはちょっと、慣れない環境でふらついただけさ。もう大丈夫、メディックからもお墨付きを取れた」
『そう……月でも上手くやれてるようで何よりだわ。上司にも恵まれているそうね』
「ああ、良い人だよ。俺のことも普通に受け入れてくれている」
ブライアンは上司のゴードンのことを話題に出した。一分くらい、彼の話を母親に報告した。良い上司だと受け入れたのか、母の表情は明るかった。
しばらく思い出話をした後、残り一分ほどになり、母親は暗い表情で地球の状況を話題にした。
『……さっき、テレビでデフコン3が出たわ』
「ああ、知っている」
『こっちは核戦争の前夜みたいに、みんな大騒ぎよ……』
「大丈夫、今は大丈夫だよ。きっと政府の人たちがなんとかしてくれる。核戦争なんて、誰も望まないさ」
ブライアンは合衆国政府を信じていた。彼の言うとおり、誰もかく戦争なんて望んでいない。かつてのキューバ危機と同じように、今回のエスカレーションもきっと丸く収まると思っていた。
母親はその言葉を聞き、しばらく黙っていたが、最後にブライアンに笑顔でこう言った。
『……地球に帰ったら、また顔を出して。今度一緒に父さんの墓に行きましょう?』
「ああ……もちろんだよ母さん。っと、そろそろ時間だ」
そこまで話したところで、時間が来てしまった。
ブライアンは母にしばしの別れを告げる。
「またね、母さん」
『ええ、また』
ピー、という電子音と共に通信が途切れた。
ブライアンはプライベート通信室にしばらく残った。次はいつ母のいる地球へ帰れるのか、分からなくなってしまった状況に、ブライアンはため息を吐く。地球にいる母の状況が心配でならなかった。
地球、荒れ狂う海原。
数ある海の中でも、日本海はかなり荒れる。対馬海峡に近いともなれば、海流は海の起伏によって巻き上げられ、さらに白波が立つ。
その白波を掻き分けて、灰色の船が姿を現す。
一万トンの鉄塊が、冷たい海水を押し除けて航行していた。マストには旭日旗がはためき、その輝きを赤で表す。
船体には古めかしい重巡の面影が見受けられ、甲板には、今ではもうこの国でしか見られない砲戦型の連装砲が四基並んでいる。
そして三個目が並びそうなその空間には、単装ミサイル発射機が備え付けられていた。
艦番号は163、護衛艦"いぶき"。
この護衛艦は、かつての戦争を生き残った唯一の重巡洋艦"高雄"を改装した、海上自衛隊随一の大きさを誇る大型艦だった。
「……艦長、ソ連のキエフ級は未だ我がEEZを航行中。間も無く対馬海峡です、いかがいたしますか?」
護衛艦"いぶき"の第一艦橋、すなわち改装直後の古い面影を最も残す空間にて、副長の八重津 篠原三等海佐が艦長に報告を行った。
「引き続き追跡を行う。針路、そのままだ」
「了解です。針路、そのまま!」
八重津の復唱を受け、操舵手が再びそれを復唱。「ヨーソロー」の掛け声と共に、護衛艦"いぶき"は監視任務を続ける。
監視対象は、左斜め前方8km先を航行するソビエト連邦海軍のキエフ級航空巡洋艦"ミンスク"だ。間も無く彼女は対馬海峡に差し掛かる、進路を変える様子は見えない。
ソ連側は、艦隊で行動していた。"ミンスク"の他にもソ連の艦艇がちらほらと見える。このまま対馬海峡を突破し、どこへ行くつもりなのだろうか。
海上自衛隊は西側諸国のデフコン3への移行に伴い、日本海及び太平洋に展開している。ソ連海軍の動向を監視していた。
やはりというべきか、アメリカ海軍の出動に伴いソ連海軍の往来が激しくなっている。国際的に航行可能な対馬海峡へ向かうソ連海軍艦艇が、本日だけで7隻も確認されていた。
海上自衛隊はそれを逐一追跡し、監視している。
"いぶき"の後方5000mでは、たかつき型護衛艦の"たかつき"が単縦陣で追従していた。"いぶき"を見守りつつ、もしもの時は援護できる体制だった。厳戒態勢である。
「まさかあの月で戦争が始まりそうになるとは、な……」
艦長の御堂 善治一等海佐は、秋の空に輝いて見える月を見て、そうボソリと呟いた。
窓は未だに被弾を想定して小さく作ってある。老眼には少々見えにくいが、空が夕刻に近づいている今では、月の輝きがよく目立つ。
「まったくです。宇宙など、我々の手の届かない遠い話かと思っておりました」
ボヤきは八重津に聞かれていたのか、彼はそれに答えた。八重津も遠い空での出来事に踊らされるこの状況には、同じ気持ちでいるらしい。
「もうすぐ月見の季節だというのに……今週の日本人は、満月を不安な眼差しで見る事だろうな」
「日本にとって月といえば、それしかありませんからね。我々はまだあの地を踏み締めていないのに……」
八重津は悔しそうな面持ちで、その月を眺めていた。あの月の表面では、今も水面下でアメリカとソ連のせめぎ合いが起きている。
だが日本は蚊帳の外に近い。月面着陸どころか、有人宇宙飛行を達成してすらいない。そう思うと、我々の手の届かない場所にあるような気がした。
ちょうど、開けてある窓から冷気が吹いて来た。御堂は年老いた手で厚手のコートを摩る。秋という事だが、予想以上に冷えていた。
「……いつかは我々も、あの空に辿り着けるよ」
ちょうど月に伸ばそうと思っていたその手は、皺だらけになっていた。かつて若い頃、戦前から目指したロケット飛行の道は、もう進めそうにない。すでに彼は未来の息子たちに道を託していた。
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