1989年、ケプラー事変
月面基地”ホライゾン”
「月面基地レース?」
「そうだ。我々は月に定住可能な基地を建設する」
「馬鹿じゃないのか?ただでさえ月へ行くのに苦労したのに、こんな基地設備なんて運べるわけがない」
「そこは工夫次第だよ。最初はコアとなるモジュール区画だけ打ち上げて、そこから拡張していくんだ」
「……やれるとしても大統領は首を縦に振らないぞ」
「ソ連は我々と同じ境地に立った。我々はさらに先に進まなければならない。そうだろう?」
真空の空に、銀の砂が舞い落ちる。
月面には空気も風もない。地面を蹴れば、自ずとレゴリスは宙に舞う。舞い上がったレゴリスの砂は、低重力下で滞空しながらゆっくりと落ちてくる。
さながら粉雪のようだった。月面作業で足跡から舞い上がった砂が、太陽の光を反射してちらちらと幻想的に光っている。私は一片の砂を手に取る。砂は粒が小さく、地球の砂よりも輝いて見えた。
飛行士は、改めて周りを見渡す。そこには月面で活動する作業車が、レゴリスを撒いていた。撒いている先は、気密された金属の区画。そこに覆い被せるようにレゴリスを撒き散らしている。
「どうだ?」
『あ、ゴードン分隊長。作業は順調に進行中です。まもなく南側の防護砂丘の構築が完了しますよ』
月面車で作業中のアレックス飛行士が、宇宙服を通して声を私に届ける。
私──ゴードン・アンヴィル宇宙飛行士は、傍らに携えた白い銃から左手を放し、ヘルメットの左耳にある通信ダイアルを捻ってそれに応える。
「よし……みたところ満遍なく被さってそうで何よりだ。これで今日の作業は終了、戻って進捗をヒューストンに報告。そしたら俺たちの分隊は夕食としよう」
『了解です。実はとっておいたピザが幾つかあるんです、振る舞いますよ』
「おお。それは良いな」
私はそれを聞き、どこからそれを引っ張ってきたんだと思いつつ、笑って許した。私も月で冷凍ピザが食べたいからだ。
月面の食事は毎週冷凍で運ばれてくる。無重力空間で食べる食事と違い、ある程度の自由が効くため様々なメニューがある。
ただ彼の言う冷凍ピザは多少のアレンジが入った代物だろう。例えばチーズがマルゲリータに変えられていたりとか。
『おいおい、俺の分もあるのかそれ。ずるいぞ』
通信に別の飛行士が割り込んできた。少しトーンとの明るい陽気な声で言うのは、近くで歩哨警戒中のブライアン飛行士だ。
『心配するな、全員分あるさ』
『お、よっしゃ!マルゲリータピッツァは俺のもんな!予約しておくぜ!』
『はいはい、とんだfoodieだよお前は……』
アレックス飛行士がその食い意地に呆れているのを聞き、私は少し苦笑いする。
だがブライアンも月面での環境に慣れたようで安心した。彼には少し周りと違う事情があったから、心配していたのだ。
「ふぅ……」
私は通信を止め、ふと手元の銃を見た。真っ白に塗装された月面専用の銃だ。ショートリコイルで作動する自動小銃で、セレクターは単発のみ。
熱に強く頑丈な材質なので結構重たいらしいが、月の重力は軽いので、そこまで苦には感じない。操作も地球のM16系のライフルに似せているため、習得も早かった。
なんでこんなものが月面に必要なのかと、最初は思いはした。だがソ連が月面着陸に成功し、また鼻の先で同じように銃を持って駐屯していると聞くと、途端に必要性が増してきた。
身を守るためなら仕方のないこと、なのだろう。
「…………」
私は積み上げられた砂の山を見る。
これも、ある意味身を守るためだ。
もうほとんど覆い隠されているが、これは今日の午前に着陸し、基地と接続した3個目の居住モジュールだ。
せっかく到着した居住区を、窓すら見えなくさせる量の砂で覆ってしまうのは寂しかった。
だが隠すのにも意味ある。これは隕石やデブリなどの衝突から防護するための措置なのだ。
絶対的な防壁ではないが、やるのとやらないのでは効果が大違いらしい。砂丘に小石をぶつけても、大した窪みにならないのと同じだ。
ついでに言えば、これで放射線などの有害電波も遮断できる。長く暮らすことになる居住区画ではこの作業が必須であった。
長く暮らす、という意義では確かに必要だろう。
アメリカ合衆国領、ホライゾン月面基地。
ここはソ連に先駆けてアメリカが建設した、世界初の本格的な月面基地である。
この基地はケプラークレーターの縁の平野に建設され、月面における長期滞在を目的としている。
ソ連が月面着陸に成功し、世界に自分がアメリカと同等の国であると改めてアピールしたソ連は、その後も連続で月面着陸を成功させていた。
宇宙開発におけるアメリカの優位性が崩れる中、その差を開くため新たにスタートしたのが"アポロ発展型計画"、今の月面基地建設計画だった。
最初のモジュールが投下されたのが1979年。それから今日の1989年まで、約十年もの間で相当数のクルーが滞在していた実績がある。ここは名実ともに、世界最高の月面基地であった。
本日の作業を終え、私たちの分隊は基地に戻った。アレックスは即座にキッチンへ向かい、ブライアンもそれの手伝いに行くとか言い出した。大方つまみ食いがしたいのだろう。
というわけで、私は一人になった。一応、今日の作業をレポートにする作業が残っていたので、私は基地の東棟にあるデクスに腰掛ける。
月面基地に最近導入されたという、大きな段ボール箱のようなパーソナルコンピュータを立ち上げる。パーソナルコンピュータの起動にかかるめんどくさい手順を終え、レポートを立ち上げる。
私はデスクワークに熱中した。
電力は基地の地下に小型の原子炉が設けられているため、そこから引いている。電源を気にする必要もなく、私はひたすらレポート作業を進めた。
「あ、ゴードン分隊長。ここにいましたか!」
「ああ……ブライアンか」
声をかけてきたのは、ブライアンだった。浅黒い肌に丸刈りのスキンヘッドが、照明に照らされ輝いている。
シャワーを浴びたあとだろうか、船外活動後のなのに汗の匂いは感じなかった。この様子だと、夕食も食べ終わった頃だろう。
「これ、食べ損ねてましたよ」
ブライアンはそう言って、温かいピザを差し出した。紙皿に乗せられたそれは、アレックスのアレンジでトマトとピクルスが乗せられている。私が食べたかったものだった。
「おお、ありがとう。ちょうど休憩をしようかと思ってたところだ」
「美味しいですよこれ。やっぱアレックスには料理の才能があります」
「お前の食い意地も満足してそうだな」
「はははっ」
ブライアンとそんな冗談を交わしつつ、私はアレンジピザを手に取り、口に運んだ。
生地は冷凍特有の伸びた食感だったが、ソースや新鮮な野菜などが乗っているので、普通に美味しかった。宇宙でこれが食べられるなら贅沢というものだろう。
「ここには慣れたか、ブライアン?」
ふと、二口目を運ぶ前にブライアンにそんなことを聞いてみた。黒い肌のブライアンは、少し言葉を濁した後にそれに答える。
「……大丈夫です。今のところ肌でイジってくる人は居ないので安心して暮らせますよ」
「そうか……まあ、仕事もちゃんとできてるようだし、このまま馴染めそうだな」
ブライアンは見ての通り黒人で、月面に初めて降り立った有色人種の称号も持つ。
だがその肩書きとは裏腹に、本人は幼少期から人種差別に悩まされていた過去を持つため、基地で馴染めるか私も不安ではあった。
今のところ杞憂であるようだが、どのみちホライゾンに勤務している飛行士の中で黒人は彼一人だ。一ヶ月経てばもう一人来るらしいが、それまで有色人種が一人では肩身も狭いのかもしれない。
「家族は心配していました。月に行く事よりも、虐めに遭うことの方を相当気にしてて……」
「今はいい報告ができそうだな。もうすぐだろう、家族との通信」
ホライゾンでは、ホームシックを防ぐために家族との通信は厳しく制限されている。頻度は一ヶ月に一度しか許されず、通話時間は三分だけだ。
そもそもとして、ホライゾンからの通信を受け取れる設備が限られているため、家族は宇宙センターなどに通うしかないのもある。
ブライアンの場合、もうすぐ家族との通話が許可される時期に差し掛かっていた。久しぶりに何か報告するのも良いだろう。
「そうですね。久しぶりに、明るい報告で安心させられそうです」
「君の偉業は、家族の誇りだろう。胸を張ってくれ」
「はい、もちろんです」
そうして会話が終わろうとしていた時、ゴードンの手元の内線電話が鳴った。
ブライアンは突然のことで電話を見て、その後私の顔を見た。何かあったのかと、私もデスクの電話を取る。
「はい、もしもし」
『ゴードンか?中央に集合してくれ、今クルーを全員集めてる』
「クルーを?なんでまた──」
声の先にいる仲間の後ろで、微かにざわつきが聞こえる。かなり切羽詰まった事態のようで、彼は低いトーンの声で事態を説明した。
「緊急事態だ。ソ連が我々の採掘ポイントに不時着した」
「……すぐ行く」
私はデスクワークを中断し、ブライアンを連れてすぐさま中央区画へ向った。
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