ソユーズ着陸船~後編~
無限に広がる暗黒。
真っ暗で酸素もない、重力すら感じない宇宙空間。
眼下には月が映る。灰色の砂と硬いクレーターに囲まれた、最も身近でそれなりに遠い星。
ソユーズLOKは、その月の上を航行していた。対地高度120.000m、軌道は危難の海へ被る高い傾斜角。
現在ソユーズLOKは月面周回速度を保ちつつ、着陸態勢に移行しようとしている。
私は先ほど、宇宙服を着て船外からLK着陸船に乗り込んだ。直接は乗り移れないのでこのような方式しかない。
一方の司令船にはパベルが残っている。帰りの際に彼が残っていなければ地球に帰れなくなる。重要な役割だった。
『管制よりソユーズ。まもなく貴船は月面着陸シーケンスに入る』
「了解。こちらソユーズ、乗員の移乗は完了している」
私は切り離しに備え、LK着陸船で待機していた。
着用しているのは、ソユーズ用に新規開発されたソコル宇宙服。月面での活動に必要な機材もこれに搭載されている。船外活動も命綱無しで自由に可能だった。
LK着陸船の中は司令船よりも狭い。なにせ一人分の空間しかないのだ。やはり打ち上げペイロードの余裕がないのが伺える。
私は切り離しまでの間、ひたすら天井に見えるランプを見ていた。今は赤だが、これが緑になれば着陸シーケンスが開始される。私にはその様子を報告する役割がある。
しばらく待つ。ランプが緑に切り替わった。着陸シークエンスの開始だ。
「自動航法、着陸体制に移行を確認」
『行ってこい!』
司令船のパベルの言葉と同時に、ソユーズは工場に接続されていたLK着陸船を切り離した。
グラっとする鈍い衝撃と共に、機体が軽くなる。LK着陸船が切り離されたことで、少しづつ司令船と距離が離れる。
「着陸船、分離確認」
自動操縦は次の手順に入る。
機体の減速。地表への降下の為、機体を適切に調節して逆噴射に備える。
降下のため、軌道速度を落とすのだ。速度が落ちれば物体は自ずと月へ落下する。あとは着陸のため、それをゆっくりと制御するだけである。
LK着陸船に搭載されたリアクションホイールにより、反作用で機体がぐるりと回転する。機体が適切な方向と角度へ転換する。
体が外側に引っ張られて目が回る。少々荒っぽい回転だった。
「機体反転……確認」
自動操縦が時々行うキツイ運転に、アレクセイは乾いた顔で笑うしかなかった。
ちょっとばかし不安だが、全ては自動操縦に任せるしかない。大丈夫だろう、祖国の技術はきっと私を月へ連れて行ってくれる。
進入角度を調節し、取り付けられた推進装置を点火。逆噴射を開始した。機体がゆっくりと振動し、減速方向に体が引っ張られる。
「5……4……3……2……1……燃焼終了」
燃焼が終了した頃には、司令船の姿は見えなくなっていた。司令船は常に動き続けているため、減速により引き離されたのだ。
「自動操縦に問題なし」
今のところ、自動操縦に問題はない。計画通りに着陸シーケンスが進んでいる。不明なエラーやインシデントも発生していない。
機体が月に対して水直に移行する。着陸確認用に設けられた丸い窓から、月面の地表が弧を描いて見えている。
「対地高度100.000m、現在本船は目標へ向け順調に降下中」
自動操縦はしっかりと機能している。
目標の着陸地点には、先んじて無人降下した予備の着陸船と無人ローバーが待機している。その機体が放つビーコンを辿って、この機体は月面に降下するのだ。
機体がゆっくりと地表に近づく。ビーコンの電波を探知したのだろう、LK着陸船は少しづつスラスターRCSを吹かし、軌道を調節していた。
「10.000m……」
降下のため、時々推進装置が噴射される。対地速度が速すぎないよう、着陸船が自動で調節している。
「1000……」
その高度で、ガタンという音がした。
後部の大型推進機が切り離された音だ。大型の推進機を外した後は、着陸船本体の推進機を用いて降下速度を調節する。
「500……」
噴射の回数が増えてきた。
スラスターRCSも絶え間なく吹かされている。
「100……」
地表が窓を覆っていた。
夢の月面が手の届く場所まで近づいている。
対地速度も一定で、今のところ安全だった。着陸脚も展開が完了し、万全な着陸体制のままLK着陸船は降下する。
「60……50……」
私は無意識に、操縦桿に手を伸ばした。
ここまで連れてきてくれた自動操縦を信頼していないわけではないが、万が一のこともある。
「40…30…20…」
だが、残り高度10mのところで私は何かに気づいた。
「くそ──ッ」
その瞬間、私は操縦桿を引いた。
直後、鈍い衝撃が機体を包む。
地上管制では、突然の出来事にその場が凍りついていた。
「……こちらHQ、ソユーズ着陸船応答せよ」
『…………』
「ソユーズ着陸船、レオーノフ船長、応答せよ!」
地上管制官が叫ぶ。
しかし、LK着陸船から返信は届かない。砂嵐のような雑音が、虚しく響き渡るだけだった。
管制官は後ろにいる設計局長を見た。ヴァシーリー・ミシン、今回の月面着陸計画における責任者だ。彼の表情は硬く、不安を滲ませている。
「通信、途絶えました」
「……何が起きた?」
「分かりません。しかし、直前の音声に衝撃音があったのは確実です」
「クソッ……着陸は失敗したのか?」
「まだ現時点では断定できません」
着陸に失敗したのか、それとも通信が復旧しないだけか。とにかく、ミシンは即座に周囲に命令した。
「管制要員を集めろ、通信の復旧を試みる!」
「了解!」
その言葉と共に、管制官たちが慌ただしく動き始める。バックアップの通信網で呼びかけたり、あるいは周波数を変えたりした。
それでも、LK着陸船からの交信はなかった。
そのまま、一時間が経過する。
その間、管制官たちは必死であらゆる手段を尽くした。各地の天文台に危難の海にあるはずのソユーズ着陸船を探させた。
海軍にも協力を依頼して、ウラジオストックから弾道弾監視船で通信を拾えないかも確かめた。
「はぁ……」
「こりゃ、ダメかもしれんな」
だが、全て試しても状況は変わらなかった。
LK着陸船からの返信はなかった。それの事実が管制官たちの心情に重くのしかかる。
「かれこれ一時間です。通信は未だ復旧しません、着陸船の生存は絶望的かと……」
「そう、か……」
ミシンは失意の表情で頭を抱え、壁にもたれかかっていた。
彼にとって、今回の計画は相当苦労して導いた計画だった。彼には政治的発言権が薄く、他の設計局との対立もある中での月面着陸計画。進めるだけでも相当な苦労だった。
最初のソユーズ宇宙船は帰還に失敗し、飛行士を死亡させた。
それでもめげずに進めていた月面着陸は、アポロ11号に先を越された。
そして、着陸まで漕ぎ付けたところでこの通信途絶。彼がめげそうになるのも分からなくはない。彼も政治や名声に関係なく、計画の成功を第一に考えていた人物だ。
「司令船のパベルはどうだ?」
「何も言わなくなりました。通信は開いていますが、何も喋りません」
「……彼はもう帰って来ないかもな」
パベル飛行士は会話を閉ざしていた。
管制は彼の司令船に帰還を考えるように伝えたが、彼はそれを拒否して月面軌道に残ると言い始めたのだ。
アレクセイと関係が深く、名誉も重んじる律儀な人物だ。仲間の戻らない司令船には意味がない、という事なのだろう。説得は難しかった。
「ちょっと、困ります。まだ通信の復旧中でして──」
「どいてくれ」
通信途絶から一時間10分ほどになったところで、誰かが管制室に入ってきた。管制官たちの視線が、その集団に集まる。
入ってきたのは数人の兵士と将校だった。ただし、普通の兵士ではなさそうだ。つばの広い帽子と青い制服、そして顔を隠す目出し帽を被っている。
彼らの胸元には腕章がまかれている。ソ連国家保安員──KGBの腕章だった。
「……何かご用でして?」
「ミシン局長、残念ながら貴方を責任者として拘束する」
KGBの将校は、そう言ってミシンを拘束する要件を話した。その言葉には、流石のミシンも困惑した。おそらく今回の着陸失敗の件であろうが、いくらなんでも急すぎる。
「……まだ失敗と決まったわけでは」
「いいや、目に見えた失敗だ。着陸船は通信途絶、三時間以上も連絡が取れない。状況から見るに、船は大破したと見るべきだ」
KGB将校の言葉には感情がこもっていなかった。おそらく話が政府の方にまで回ったので、失敗を隠蔽するための措置だろう。
だが、さすがに無関係な部署から割り込まれて責任者を拘束されたらたまったもんじゃない。すかさず他の管制官たちが反論を投じた。
「待ってください!通信が途絶えただけで、まだ──」
「無理だよ。どう考えてもこれは失態、着陸に失敗したことは国の汚名となる。よって、責任者を拘束するのは当然の帰結だ」
「…………」
「既に政府からの命令が下っている。事故の真相が判明するまで、局長の身柄は一時的に監視下に置かせてもらう!」
そう言ってKGBの兵士たちは、ミシンの周りを固めて彼を拘束し始める。ミシンは管制官たちを巻き込まないよう、仕方なく抵抗をやめて拘束を受け入れた。
その様子に、管制官たちは動揺を隠せなかった。まだ通信は復旧していないし、ここで責任者が不在になるのも不味かった。誰か止められないのか。
「くそっ……どうすれば」
『……ザザッ……ザザザッ』
ミシンが連れていかれそうになった時、通信担当の管制官の手元から何かの雑音が聞こえた。その管制官は、すぐに思わず手元の管制機器を見る。
計器には緑色のランプが光っていた。これは、LK着陸船から呼びかけられていることを表す合図だった。
「こ、こちらHQ!ソユーズ着陸船、応答せよ!」
『こちら……ザザッ着陸……月……到達した!』
その音声を聞き、ミシンを連れて行こうとしたKGB将校達も止まる。
通信の中には、聞き覚えのある声が含まれていた。一同の注目が通信に集まる。
「感度を調節しろ」
「はい!」
拘束されながらも、ミシンはそう命令した。
すかさず管制官はダイアルを回し、通信の感度を調節した。届いているのは弱々しい通信だったが、この管制センターのアンテナならば通信を拾うことはできる。
そのうちに、音声が鮮明になる。ソユーズ着陸船からの音声は、確かに地球に届いていた。
『こちら……ソユーズ着陸船。管制へ、私は月面に立ってる。驚いたか?』
「やった!!」
通信の向こうにいるアレクセイ船長の言葉を聞き、誰かが喜びをあらわにした。その言葉に釣られ、管制室がわっと湧き立つ。
ここにいる誰もが、その声を待ち侘びていた。間違いなくアレクセイ船長の声だった。
「ああ、聞こえる、聞こえるぞ!そっちはどうだ?」
『私は無事だ。今、月面にいる。たった今祖国の旗を掲げたところだ』
アレクセイはそう言って、LK着陸船からの映像を中継で流した。届けられた映像には、月面ではためくソ連の赤い国旗が、明瞭に映っていた。
管制室がさらに湧き立ち、大きな歓声に包まれる。その様子を見て、拘束されていたミシンもホッと一息ついた。
KGBの将校も、流石にこれは成功だと確信したのか、苦笑いで上官に報告するしかなかった。将校の一人はミシンと喜びを分かち合って肩を抱いていた。
ここにいる誰もが、ソ連初の月面着陸の偉業に沸き立っていた。皆成功を喜ぶ気持ちは同じだった。
『見ろ、青い地球が頭上にある』
月にいるアレクセイ船長は、カメラを上に持ち上げる。白黒だったが、そこには確かに地球が映っていた。
『我々の冒険はここから始まるんだ』
アレクセイ船長は、月に降り立った自分の言葉をそう締め括った。
ソ連、そして人類が来る新たな宇宙開拓時代の到来を告げるその着陸船が、月に横たわっていた。
実は、アレクセイ船長は着陸直前にLK着陸船を手動でコントロールしていた。
着陸地点に事前の偵察で確認できなかった大岩が存在し、自動操縦はそれを判別できていなかったため、アレクセイ船長が手動でそれを避けたのだ。
しかし、避けた先で地面に引っかかり、着陸船は横転。これによりアンテナが損傷、通信が途絶。アレクセイ船長が船外に出て、手元の機材で復旧させるまで一時間を要した、ということだった。
その後、アレクセイ船長は予定のミッションに戻った。月のサンプルを持ち帰り、あらかじめビーコンとして機能していたローバーを用いて移動。着陸地点から2km離れていたLK着陸船の試験機に搭乗し帰還した。これは予め月面自動着陸の確認を行った機体で、バックアップとして残されていたものだ。ソ連のバックアップ体制が功を奏した形である。
月からの離陸は問題なく行われ、彼は月を後にした。空気のない地表ではためく祖国の旗と、横倒しの着陸船に見送られながら。
軌道上でソユーズLOK宇宙船とドッキングすると、待ちわびていたパベルに歓迎された。彼は船長の帰還を泣いて喜んでいたという。
後世では、この月面着陸と通信回復は奇跡だと語り継がれている。
アレクセイ船長の独断が無ければ、着陸船は大破していたかもしれない。横転で済んだのはまさしく奇跡だった。
そして、二人が地球へ無事帰還した後、宇宙開発の歴史は大きく動くこととなる。
アメリカもこの出来事に対抗心を燃やした。
ソ連も負けじと、さらなる宇宙開発と月面着陸を繰りかえす。
冷戦と共に200年以上繰り広げられた、宇宙開拓時代の幕開けだ。
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