ソユーズ着陸船~中編~
今日のモスクワは、澱んでいるように感じた。
七月の短い夏の気候の中、行き交う人々は薄手の格好。街の景色はまだ綺麗さを保っており、商業施設もそれなりに人がいる。
夕方になり、私がいる大衆食堂にも人がそれなりに入って来た。店は繁盛しているように見える。店の雰囲気も崩れてはいない。店主と看板娘は元気そうだしちゃんと働いている。
店のカウンターに座る私は、店主が淹れた紅茶を楽しみながら、店の雰囲気を眺めていた。
けれど、どこか客たちに何か暗い雰囲気が感じられる。やはり幻覚ではないのかもしれない。
大衆食堂に座る男性たちの中に、皆怪訝そうな顔をしているグループがいた。表面に何が書いてあるかは大体予想できる。『アポロ11号、月に降り立つ』と。
「こりゃ、アポロは今頃帰路に向かった頃だろうな」
「なんて日だ。俺はロケットに夢があると思って追ってきたが、これじゃあ月は資本主義に汚されちまう」
「月は我らが祖国が一番乗りするべきだった」
労働者たちはよく喋る。それを端から聞いていた私も、彼らと同じ気持ちだったが、同時に好き放題言ってくれる彼らに少し苛立ちを覚えてきた。
流石にこれ以上聞くのは気分が害される。私は彼らを意識するのをやめ、カウンターに向き直る。
澱んで見えるのは、街や店の雰囲気でも、祖国の経済的な問題でもない。人々の気分だ。
我が祖国ソ連には、人類初の人工衛星や有人宇宙飛行など、宇宙開発に関する華々しい成果がある。
今日までその記録と技術は確かなものであり、誰もが祖国の優位性を信じて疑わなかった。
その初記録が、先日初めて資本主義の総本山であるアメリカに抜かされたのだ。
アポロ11号による、人類初の月面着陸。
ソ連に抜かれた宇宙開発の記録を奪うべく、彼らはサターンVとかいう巨大なロケットを用いて飛行士を月へ送った。
結果、無事に着陸した。
なぜ我が祖国はそれが出来なかったのか。
ソ連人民の誰もが落胆している。
私は少しぬるくなった紅茶を飲み干し、店主を呼んで勘定を払った。ここにいたらその義憤に駆られてしまいそうだったから、店を後にする。
今日一日はずっと休みだった。私の勤めている宇宙局は、打ちひしがれた技術者や飛行士たちを労うために特別休暇を与えてくれた。たまには心身のリフレッシュが必要、という事なのだろう。
私はその大衆食堂を後にした。ドアを開け、外の空気に肌を晒す。モスクワの短い夏の空気が肌を撫でる。
「今に見ていろ」
私──アレクセイ・レオーノフ宇宙飛行士は小さくそう呟いた。今日の屈辱と、月へのリベンジを胸に。
空には目標の月が浮かんでいた。もう夕方だ、今日一日は失意に溺れて何もしていなかった。
だが、そういう日があっても良いだろう。
どのみち明日からは地獄の訓練だ。月面着陸船に見立てたヘリコプターを、危険な飛行でタッチダウンさせなければならない。
それでも良い。
この際二番手でも良い。
二番目に成功したならば多少マシなはずだ。成功しなかった、と後世で笑われるよりは遥かに良い。そのはずだ。
ソ連においても、月面着陸計画が着々と進行していた。
「ソユーズ」と呼ばれるその計画は、アメリカのアポロ計画から遅れた1964年に承認された有人宇宙船計画である。
あまり表で言えないことだが、ソ連の宇宙計画は「五カ年計画」という政府の経済計画と結びつきがため、1961年に始まったアメリカのアポロ計画に対応することが困難だったのだ。
なぜなら次の五カ年計画は1964年まで待たなければならないからだ。
その間、アメリカはアポロシリーズの月面着陸を繰り返し、月の地表を星条旗で固めている。
これはソ連としては由々しき事態だ。
資本主義国家に月の覇権を握らせてはならない。
政府は莫大な人員と予算を費やし、アメリカのアポロ計画に追いつこうとしている。
『まもなく打ち上げ最終フェイズ。地上要員は手元のマニュアルを再読せよ』
1975年7月、バイコヌール宇宙基地。
本日の空はほぼ快晴。気候もカザフの乾いた風が吹き、少し暑いが不快なほどではない。
私は宇宙飛行士として、発射台のエレベーターを登っていた。相当な高さまで上がるので、少し時間がかかる。
鋼鉄の柵だけで区切られたエレベーターには、私の他に宇宙飛行士が一人。
そして護衛の兵士と空軍の将校が、我々の周りを固めている。不測のテロに備えるため、との事だ。
「いよいよだな、レオーノフ」
私の左隣に立つ操縦士のパベル・ベリャーエフが話しかけて来た。
パベルとはボストーク2号の時からの付き合いで、今回の計画にも当然のように選ばれていた。
彼はエレベーター内が無言なのが耐えられなかったのだろう、にこやかに笑いながら私を見てそう言った。
「俺たちはアメリカより優れた技術で月に行く」
「ああ、その通りだ。計画がここまで来てよかった」
「……今度は、勝手に宇宙服を弄らないでくださいよ」
「大丈夫だ!」
パベルは私にそんな生意気な冗談をかまし、そして笑った。それに釣られて私も笑う。しかし、しばらくするとすぐ真顔になった。
だがエレベータ内の空気が少し和らぐ。私も個の無言の空間が嫌だったので助かった。
「まあ、今回の宇宙服は宇宙船もろとも改良されているので大丈夫だろう。祖国の技術を信じよう」
そう言うパベルの表情は明るく、これから世話になる宇宙服やロケットの技術をよほど信頼しているのか、不安など一切ないといった顔立ちだ。
むしろアトラクションに乗る前の子供のように見える。何かワクワクすることが起きる前の表情だ。
「……ああ、きっとな」
私はパベルの事は信頼していたが、技術的なことを疑うのはまずかったのでそんな言葉でお茶を濁す。
本当なら初期に4回にも及ぶ打ち上げ失敗を繰り返したロケットに、多少の不信感があったのだが、それを口に出して背後の将校に聞かれでもしたら、政府に目を付けられそうだ。この国はアメリカとは違うのだ。いろいろな意味で。
最上階にたどり着き、エレベーターが止まった。兵士が金属の柵を開け、飛行士たちを送り出す。最上階から見ても、ロケットの全容はまだ太く見える。その巨大さに私はため息を漏らした。
N-1Fロケット。
この巨大な方舟は、ソ連が飛行士を月へと運ぶために作られた怪物級のロケットだ。
全高は105m越え、総重量は2700t以上、ペイロードは最大80t。
過去のモデルでは30基ものエンジンを搭載していたが、これが構造を複雑にしていた為、このN-1Fでは18基のNK-33エンジンに改め構造を簡素化している。
これにより安定して打ち上げられるようになった……とは言うが、その信頼性には一抹の不安が残ったままだ。宇宙船の自動航法も含め、だが。
打ち上げまではまだ二時間ほどある。
私たちはソユーズLOK宇宙船の中に乗り込む。ハッチから中に侵入し、二人乗りのコックピットに搭乗した。
そう、二人乗りだ。アメリカのアポロ着陸船では合計三人乗りだったのに対し、こちらは二人しかいない。
内部も非常に狭かった。改良されているとはいえ、N-1ロケットのペイロードはアメリカのサターンVと比べて80%ほど。そうなれば着陸船の容積を減らすのは致し方なかった。
打ち上げまでの間、私たちは計器を起動し、チェックリストをこなす。
とは言っても、ソユーズLOKは完全無人操縦だ。適切な軌道とタイミングを計算し自動で加減速を行い、自動で目標地点に着陸する。
人間が手で操縦するのは緊急時以外NGだ。起動と動作テスト以降は基本触らない。
じゃあなんで人間が乗り込むんだという疑問もある。政府は自国の技術による無人制御での安全な着陸をアピールしたいのだろう。ソユーズLOKは人を月に送り込むための方舟に過ぎないのだ。
我々はアメリカよりも安全に飛行士を月に送ったぞ、と。
全てのチェックが終了し、制御が無人制御に移行した。後はやることがない。のんびりと座席に座っていれば良い。
しかしそうすると流石に暇だ。私は周囲の景色を見渡した。
ソユーズLOKに窓はあるが、まだ外の光景は見えない。空力防御シェルが機体を覆っているため、外の景色が見れるのはこれを分離した後になる。
左にはパベルが横並びに乗っている。狭い船内で二人は窮屈だが、まあこれも一週間の我慢だろう。
宇宙船の天頂部には、計器の他にハッチが備えてある。これは逆さに備えられたLK着陸船に続くハッチで、向こう側も与圧されている。だが重力空間で移動するのは困難だ、乗るとしたら着陸する時だけだ。
いよいよ打ち上げ数分前になった。私は目を開けて打ち上げの時を待つ。
私は計器を見た。自動操縦には万が一のこともある。常に人間が計器を見ておくのだ。何かあれば管制に報告をする。
「いよいよだ」
二人の表情が強張る。
打ち上げ四分前。
機体が少しずつ揺れてくる。メインエンジンの試運転をして状態を確かめている。
「アメリカ人め、今から追いつくぞ」
打ち上げ二分前。
少しずつ揺れが大きくなる。いよいよ打ち上げの最終シーケンス、ここから先は引き返せない。
『10……9……8……7……6……』
カウントダウンが読み上げられる。
女性の声だ、予め取っておいた音声テープだろう、打ち上げ前だというのに感情の高ぶりが見えない。
ここにいないなんて可哀想な奴だと思った。私達はこんなにも緊張しつつ、興奮しているというのに。
『5……4……3……2……1……発射!』
第一段エンジンが、一斉に点火された。
機体が轟音を上げて、ゆっくりと持ち上がる。
「поехали!!」
さあ行くぞ、と私は言った。
初めて地球を眺めた飛行士に倣い、私はこの時も伝統としてそう言った。管制は音声を記録していることだろう。
ロケットは凄まじい加速を生み出す。体が座席に押し付けられ、それでも足りぬとGが体を押し込もうとする。
ロケットは加速していく。私は体が押し付けられる感覚が心地よく、自然と笑みが溢れた。
「すごい加速です!」
パベルが言った。
高度はぐんぐんと上がっている。もしも爆発したら終わりだ。
「ああ、これなら月まで行ける!」
私はそう言った。
打ち上げから50秒が経ったが、まだ爆発はしていない。祖国の技術はアタリだった。
「行きましょう!」
「そうだ、行くんだ!そうでなきゃ何も始まらん!!」
私とパベルはそう言った。月面への思いを新たに、私たちは地球を脱出する凄まじい速度で加速していく。
間も無く、第一段を切り離す衝撃が機体に響いた。即座に次のエンジンが点火され、機体がまたさらに加速していく。
エンジンは少なくなったが、機体が軽い分加速は凄まじかった。二段目の洗礼を私たちは受ける。
ここまで来ると、二人の表情にもはや不安などなかった。
文字通り月まで一直線だった。
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