第38話 獣車に揺られて

 この世界における初めての旅ということもあって、出発してからの数時間は目に映るありとあらゆるものが輝いて見えたものだ。


 空を飛ぶ美しい羽根を持つ鳥や、風に揺れるつぼみが咲き始めた木々、その全てが初めて目にする異世界の姿だからだ。無粋なことを言ってしまえば、その大半をスキルによって俺はその存在を“知って”はいたが、頭で知っている事と直接“目”で見る事には大きな違いがある。


 『フォレストスライム』にボコボコにされ、目が覚めた時から今に至るまでマリエンブルクの街しか知らなかった俺にとっては何よりも楽しい数時間だった。


 ……しかし、獣車に揺られる日々が三日も経つと、楽しい旅を過ごしているなんて気分ではなくなってしまった。初めの頃は外の景色に夢中で気にもしなかったことだが、獣車というものは非常に乗り心地が悪い。獣車にはちゃんとした座席が設置されているわけでもなく、板張りの床に腰を下ろしているだけということもあって、一日が終わるころには尻が痛くなってくる。


 しかも、見た目からは想像できなかったが、長毛種のアルマはそのずんぐりむっくりした見た目に反してかなり速く走ることが出来き、街道といってもあまり整備されてない道をその短い足でかっ飛ばすのだ。そのせいでガタガタと揺れる獣車の中でジッとしているとかなり酔うのだ。


 自分の想像以上だった獣車の劣悪な環境に居続けると、外を見る余裕はなくなり、襲い来る吐き気と尻の痛みに耐えながらひたすら虚空を見つめる時間が続くようになってきた。

 

 誰かに助けを求めたかったけど、キリアンさんは一日目の昼から一つ前の馬車に移ってしまったし、御者はいつもしかめっ面をしていて話しかける雰囲気に無かった。


 おまけにトゥルフゼフスさんがコルツベルクまでの日程をかなり詰めたみたいで、二日目はほぼ休みなく走りっぱなしで誰にも話しかける余裕はなく、一人寂しく荷台で耐え続けるほかなかった。


 そして迎えた三日目、この日の朝は久しぶりに長めの休憩を取ったこともあってキリアンさんがこっちの馬車に顔を出してくれた。


 この時、気持ち悪さで青白い顔をしている俺に気づいたキリアンさんが、特製の酔い止め薬をくれた。


 感謝の言葉と共にグイッと飲むと、俺の身体を蝕んでいた酔いはすぐに治まった。ただ、気持ち悪さがなくなると、その分余計に尻が痛いことが気になってしまった。


 数分後、薬が効いたかどうかキリアンさんが訊いてきたので、そのことを話したら「共に街まで頑張ろう」と言われてしまった。その表情から、キリアンさんも俺と同じ悩みを抱えていることを瞬時に悟った……まぁ、吐き気よりはマシだと思うしかないだろう。これから先、まだまだ旅が続くと思うと俺の尻が持つか心配だ。


 ……なんてことも一時は考えたが、それから更に十一日が過ぎ、マリエンブルクを発ってから二週間もすれば案外、獣車での旅にも慣れてくるものである。


 心配していた尻の痛みも、座り方を工夫すれば案外平気なもので、薬に頼らなければやっていけないほどの酔いも、今では身体の方が揺れに対応し、薬を飲まなくても酔いを感じることはなくなった。それどころか今では、のんびりと師匠が出発前にくれた本を読む余裕があるほどだ。


 しかし、今度は心配事とは別にどのように対処して良いのか分からない出来事が一つ起きるようになった。


 それは先ほどから荷台に差し込む太陽光を遮るカーテンの様に天井から垂れ下がってユラユラと揺れている赤い髪の存在だ。


 ほんの少し視線を上にあげれば赤い髪の持ち主であるベアトリスさんと目が合う。ここ数日、何故か彼女は荷台の上に座ったまま(もしかしたらうつぶせに寝そべっているかもしれないけど)荷台の端からこちらを覗き込んでいるのだ。


 「……何か用ですか?」


 「ううん、別に」


 「そうですか……」


 そして彼女がのぞき込む度にこの会話を繰り返している。そう、尻の痛みの代わりにやってきた新たな悩みの種とはベアトリスさんの存在だ。


 ここ数日、特に用があるわけでもないのに何故か荷台の上から顔だけを覗かせて俺の事を見てくる。こちらから要件がないか尋ねても「別に」以外の回答を得られない。まぁ、俺も「何か用ですか」かそれに近い事しか口にしてないからそれが問題なのかもしれいないけど……


 よし、ならこっちから何か聞いてみよう!


 そう決意してベアトリスさんに口を開こうとした瞬間、意外なことに彼女が「別に」以外の言葉を発した。


 「うーん、別に面白くはないわねぇ」


 それにはガッカリしているという落胆の気持ちが多分に含まれていた。なんだ、俺は気づかぬうちに退屈なヤツ判定されていたのか?


 「それはどういう意味です?」


 「師匠があなたの事を変わった奴だって言ってたからどんなもんかと思ったけど、ずっと本読んでるだけだし、アタシの行動にツッコミも入れないし……」


 あっ、それツッコミ待ちだったの?


  「……アランさんが僕の事をどんな風に紹介したのかは気になりますけど、まずこれだけは言っておきます。御覧の通り僕は何か面白いところがあるわけではありません」


 「うん、それは見て分かった」


 「はっきり言いますね」


 「でも、アタシが知らない面白さがどこかにあるかもしれないわね」


 「ここ数日ずっと僕を観察して面白くないって判断したのにですか?」


 「だって、あの滅多に他人の事を話さない師匠があなたの事を変なヤツって言ってたのよ? だったら何かあると思うでしょ」


 「なんですか、それ?」


 アランさん、そんな風に思ってたの? ……いや、そう思われても不思議ではない、か?


 「まぁ、僕の話はさておいて、ベアトリスさんは僕の事を見ていて良いんですか? あなたは前方の守りを任されたと思うんですけど」


 コルツベルクへ向かう七台の獣車の内、先頭と最後方の獣車には護衛を任されている冒険者たちが乗っていて、ベアトリスさんは先頭の獣車に乗っていたはずだ。


 「あら、そんなこと?」


 「そんなことって、怒られても知りませんよ?」


 「あたしは別にサボっているわけじゃないわよ? こうやってても周囲の状況は把握しているもの」


 そう言うと彼女は猫のようにしなやかな動きで俺の前にするりと降りてくると、自分の耳を指さした。


 「あたしの耳なら何かがこの車列に近づいたのを見なくたって察知できるわ。今だって、周囲に何もいないことを分かっているうえでこうやってあなたの所に来てるのだから」


 「そうですか?」


 俺は手に持っていた本を閉じながらそう言った。


 「信用してないみたいね」


 「信用も何もそう言われただけですぐに、ハイそうですかって納得できるものでもないですよ。それに……」


 俺は荷台の外に顔を出す。俺の視界には見渡す限り何処までも続くような平原が広がっている。


 「どう見ても身を隠すことが出来ないこんな場所なら誰だって近づいてくる奴の存在に気づきますよ」


 「言うわね……まあいいわ。なら、あの木が見える?」


 ベアトリスさんは数百メートル先に見える一本の木を指さした。


 「見えますけど」


 「あたしにはあの木の枝に止まっている小鳥の姿が見えるけど、あなたはどう?」


 「……見えませんね」


 「ねっ、凄いでしょ? あたしはこの耳と目で周囲の状況を見ているのよ。だから、先頭の獣車にいなくても仕事は出来るってわけ……何、その疑り深い目は」


 「ベアトリスさん、僕に見えなくてあなたに見えたのなら凄いかもしれませんが、今の流れじゃそれを証明することは出来ないじゃないですか」


 「……それもそうね」


 「それに、そんなに立派な視力があったとしても僕の事を見ていたのなら意味がないのでは?」


 「……まっ、まぁ? あたしにはこれもあるから!」


 今度は自分の鼻を「フンッ!」と鳴らした。


 「あたしの鼻は常人の十倍以上の範囲の匂いを一瞬で嗅ぎ分けることが出来るのよ! だから、目や耳が使えなくてもこれで周囲の状況が分かるってわけ? どう、これなら文句ないでしょ」


 「文句はありませんが、それだって別に証明できないじゃないですか?」


 「そんなことはないわ。何なら、ここにある物を全部嗅ぎ分けることだって……オェッ! ゴホッ、ゴホッ……」


  ベアトリスさんは再度鼻を鳴らした瞬間、顔をしかめて咳き込んだ。


  「……ここ、いろんな薬草やポーションを積んでますから、そんなに鼻が敏感ならきついですよ?」


  「……先に言いなさいよ」


  「いや、あなたが勝手に乗り込んでそのまま匂いを嗅いだんじゃないですか?」


  「……それもそうね」


  そう言うと黙り込んだベアトリスさんは、俺の顔をジッと見てきた。


  「今度は何です」


 俺は彼女の大きな青い瞳を見ながらそう言った。すると、ベアトリスさんはケラケラと笑い出した……ローラさんに似たタイプの人だな、これ。


 「さっきの言葉は撤回……いえ、ある意味では正しかったのかしら。あなた、最初の印象よりは面白いわよ」


 「それはどうも」


 「あら、これは嘘じゃないわよ?」


 「ってことはさっきまでの言葉は嘘ですか?」


 「それも本当よ」


 なんだそりゃ、っと口になりそうになったが飲み込むことにする、彼女のペースに飲まれたまま話すと変な感じになるな。


 「ねぇ、どうして今日まで話しかけてくれなかったの?」


 「話すとは?」


 「だってこんなに会話できるのに、何か用ですか以外口にしてくれなかったじゃない」


 「あなたも用があるって言ってくれないじゃないですか」


 「それはあなたを見るのが“用”だったから、ほかに無いって意味よ」


 「あ、そうですか……」


 彼女の渾名の一部の意味が、ここまでの会話で分かった気がする。それと、絶対にベアトリスさんはローラさんタイプだ。これは推測じゃない、確信だ。


 そんなことを考えているとまた「スンッ」と彼女は鼻を鳴らした。


 「そろそろ、湖ね」


 「湖?」


 「次の休憩場所のネーカー湖よ。今朝、トゥルフゼフスが言ってたでしょ?」


 そう言えば、そんなことを言っていた気がする。確か、この辺りじゃかなり大きな湖だとか。


 俺は荷台から顔を出して先頭の方を見るが、まだ湖は見えてこない。


 「まだ見えないじゃないですか?」


 「それはそうよ。まだ四十分はかかるんじゃないかしら?」


 「?」


 俺が首をかしげると彼女は少し笑った。


 「だから言ったでしょ。匂いよ、匂い。この鼻で嗅いだのよ。だからまだ見えるほどは近づいてないわよ」


 「そうですか」


 その時の俺は彼女の言うことに半信半疑だったが、二十分後、遠くに湖が視認できたことでようやく信じることが出来た。


 「へー、凄い鼻ですね」


 思わずそう言うと彼女は不満が三割、喜びが七割混じった顔で言った。


 「あら、今度は素直に褒めるのね?」


 だから俺はこう言った。


 「目や耳と違って証拠を提示されたので」


 すると彼女は俺の頭を「スパーン!」と叩いた。きっと、彼女としてはスキンシップに近い、それこそツッコミのようなものだったのだろう。だが、俺の視界には無数の星が瞬く結果となった。


 ……うん、流石にちょっと言い過ぎたかな。ふらつく頭で俺はそう思った。

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