幕間1 ある転移者の話
どこまでも広がる青空の下、春が近いというのに未だに冷たい風が吹きすさぶ畑沿いの古びた街道を百人ほどの一団が黙々と南に向かって歩いていた。
彼らの姿を遠くの畑から目撃した農家の男は、行商団か旅芸人の一座だと思い、その存在を気にも留めず仕事に戻った。もしも彼が後十秒ほど彼らの事を観察すれば、お尋ね者として知れ渡っているベルズフート農民団の生き残りだと気づいたかもしれないが、あまりにもくたびれた様子で歩く彼らの姿はほんの2、3秒で農民の興味を失わせ、その考えに至らせることはなかった。
最盛期は隣接するオーベルヴァルト地方で立ち上がったオーベルヴァルト農民団と合わせて一万人以上の農民や市民で構成されたベルズフート農民団であったが、イール河沿いの都市ライバッハ近郊で行われたルーブフェン伯フェルディナント率いる北部諸侯連合軍の前に大敗を喫し二つの農民団は壊滅した。その後の執拗な残党狩りの影響もあって今では百人をわずかに超す程度の傷だらけの農民を多数抱えた流浪の民になり果てていた。
百メートル以上も連なって細長い芋虫のような隊列で進む一団に明確な目的地というものは存在しておらず、今はただ安全な場所を求め一路南に進んでいるだけであった。負傷者を抱えている彼らの速度は遅く、隊列が長くなる要因にもなっていた。それでも彼らは文句の一つも口にせず互いに声をかけ合って励ましながら、懸命に行く当てもない旅路を何カ月も続けていた。
彼らがこうして一人も離反者を出さずに旅を続けることが出来たのは、ある二人の存在があるからだ。一人は隊列の先頭に立って真っすぐ正面を向いて歩く鎧姿の男、元騎士のペーター・フォン・ベーハイムだ。かつてはフェルディナントに仕えた騎士の一人だった。当初農民団は主君の横暴に耐えかねて決起したものの、あくまで話し合いによる交渉を望んでいたが、それに対し配下の傭兵団による情け容赦のない殺戮で応えたフェルディナントにペーターは愛想を尽かし、数名の仲間と共に農民団に加わったのだ。
以来、確かな戦術眼を持つペーターは烏合の衆に過ぎなかった農民団を一人前の軍隊へと鍛え上げ、伯爵の麾下に合った傭兵団を何度も打ち破ったこともあって、いつしか農民団の指導者という立場に祭り上げられていた。だが、彼はそれを嫌な顔一つせず受け入れ、積極的に伯爵との交渉も行っていった。ライバッハの決戦に敗れ、かつての百分の一にまで勢力が衰えた今になっても指導者としての彼の立場が揺るがないのは、それだけペーターが自分の人生を賭けて組織を支えてきたことを誰もが知っているからである。
そしてもう一人、ペーターだけではすでに崩壊していたであろう農民団を支え続けてきたのが、ベルズフートでは珍しい黒髪に、誰も見たことがない日本のブレザー制服に身を包んだ少女、ユイカだ。
彼女は隊列の前から後ろまでくまなく歩いて一人一人に声をかけ、時に励まし、時に叱咤し、農民団から脱落者が出ぬように献身的に動き続けた。ペーターが農民団を軍事的に支えたのであれば、ユイカの存在が農民団を精神的に支えたと言っても過言ではない。彼女の凛とした声と、どんなに危険な戦場であっても前線で人々を鼓舞する姿は農民団に勇気を与え、ライバッハの戦いでの絶望的な状況から農民団が壊滅的な被害を受けつつも組織的な退却を可能にしたのだった。
そのユイカがどこからやってきたのかは農民団の誰もが知らない。彼女が手足の様に扱う特殊な魔法の力の出どころも誰も知る由もなかった。その為に、農民団の人々は彼女が自分達を救済するために天が遣わした天使なのではないかと密かに囁くようになった。何故なら、横暴の君主に虐げられた民衆に、天が乙女の姿をした使いを遣わすという伝説が古くからベルズフートの地に残されているからだ。それを信じる人が多いことも、未だに百人以上の人間が当てもない旅を続けている理由の一つになっている。
他方、自分がそのように思われているとは露とも知らないユイカこと姫島唯華は天の遣わした使いではなく坂崎和夫と同じく日本から転移してきた普通の女子高生であった。
彼女の転移前の最後の記憶はボールを追って路上に飛び出した少年を突き飛ばした自分に向かってくるトラックのヘッドライトの光りだった。その後、真っ白な部屋で目を覚ました彼女は御伽噺に出てくるような老人から不思議な力を授かり、次に目を覚ますとベルズフート地方最大の湖、リリーエン湖の浜辺にたたずんでいた。
そこで知り合った地元漁師の勧めで、彼の住む村で居候を始めた唯華は、戸惑いつつも時が経つにつれこの世界での生活を受け入れるようになっていた。
そうした中で彼女は自分が何故、この世界にやってきたのか考えるようになった。いくら考えても答えが出ずに悩む彼女を村の人々は優しく受け入れ、それが全く見ず知らずの世界に飛ばされた彼女の救いとなった。
しかし、彼女の平穏な生活は長くは続かなかった。ある日、唯華は一人、リリーエン湖に来ていた。それは朝起きた時にただ漠然と自分が初めてこの世界で見た景色が思い浮かんだからであった。そこへ自分を村に連れて行ってくれた老人が一人の少年を伴って走ってきた。彼は今まで見たことがないほど強張った表情で彼女にただ一言「逃げろ」とだけ言った。
その時、唯華は自分が世話になっていた村から火の手が上がるのをはっきりと目にした。この時期は領主の苛烈な税の徴収に耐えかねてベルズフート農民団が結成されてから三か月が経過した頃であり、自分へ歯向かう農民への見せしめとしてフェルディナントの雇った傭兵達の蛮行が始まった時期でもあった。
唯華のいた村はベルズフート農民団に参加しておらず、むしろその存在さえ知らなかった。だが、ただ村を襲う様に指示された傭兵達にとっては関係のない話であった。襲った村で得た物すべてが自分の物になる代わりにはした金で雇われたゴロツキ同然の傭兵達は嬉々として村を焼き、男を殺し、女子供を攫う。
あまりにも突然訪れた最悪の破壊的行為を前に茫然と立ち尽くす唯華を漁師が叱咤し、少年と共に小舟で湖を渡って逃げるように促した。
状況を正しく理解する前に少年と共に小舟に乗せられた唯華が最後に見た漁師の姿は、追ってきた傭兵達から自分達を逃がす為に斧を持って猛然と立ち向かったものの、その斧を奪われ、反対に傭兵の手によって頭蓋を砕かれる姿だった。
操船技術の巧みな自分よりも三つ年下の少年の力によってどうにかリリーエン湖の対岸に着いた。ふらつく足で浜辺に降りた唯華はいつまで経っても自分を逃がしてくれた少年が船から降りないことを不思議に思い、船に近づきギョッとした。少年は逃げる途中に背中に矢を受け、既に事切れていたのだ。漁師の死を目の当たりにして半ば放心状態にあった彼女は浜辺から舟が離れる時に傭兵達が矢を放っていたことに気づいていなかったのだ。
矢傷を負った少年が激痛に耐えながらも、唯華を逃がす為に命を賭して櫂を漕ぎ続けていたことを知った唯華はこの世界に来て初めて心の底から泣いた。見知らぬ世界に飛ばされた事の心細さで泣いた時よりもはるかに大きな声で彼女は泣いたのである。
それは理不尽に命を奪われる人たちへの涙でもあり、命を懸けて自分を逃がしてくれた二人への涙でもあり、何も出来なかった自分の激しい悔恨を込めた涙であった。
そして、ひとしきり泣き終えた唯華は涙をぬぐうと、冷たくなった少年の身体を船から下ろし、動物の近寄らなさそうな場所にその亡骸を埋めた。唯華は自分の立てた簡素な墓の前に一分の黙とうを捧げると、ゆっくりとその場を立ち去った。
彼女の心を蝕んでいた悩みは既に消えていた。唯華は自分の悩みの正体に気づいたのである。それは今までの自分の行いが正しかったかどうかという一点だった。元来、正義感の強かった彼女はクラス内のいじめ問題などにも積極的に関わり、自分なりに解決しようと尽力してきた。だが、彼女の行いがいつも評価されるわけでもなく、お節介、独りよがりという心無い言葉を耳にし、そのことが少しずつ、彼女の気が付かぬうちに心の中のしこりになっていたのである。
そして、転移前の出来事も彼女にとって気がかりであった。道路に飛び足した子供を助けるために突き飛ばしたことが本当に良かったのか? どうしてもその考えが脳裏をよぎってしまう。突き飛ばした子供はその後どうなったのか、その事を知る術がないからである。自分の行いは感謝されたのか? それとも自分の命を顧みない無謀な行いだと非難されたのか? 突き飛ばした子供は怪我を負わなかったのか? 色々なことが頭の中に浮かんでは消える。だが決して答えなどで出ない――出るはずのないことだった。
そうしたことが漠然とした悩みとして表面化し、この世界に飛ばされたことも相まってかつては行動力の化身と呼ばれていたにも関わらず、ぼんやりとした日々をいたずらに過ごすこととなった。
その全てがこの襲撃によって消し飛んだ。考える時間もなく理不尽に吹き飛んだ平和な世界。そして、自分の命を投げうってでも他者を助ける人達。その二つを目撃したからこそ、唯華の決意は固まった。
自分の今までの行いが正しいかどうかは分からない。それでも、自分に大きな力が与えられたのなら、それを自分の思う正しさの為に行使して、人々のささやかな平穏を守るべきであると。その行いが非難されたとしても自分の中の正しい気持ちに従って行動を起こす。唯華の決意は固かった
リリーエン湖を離れた唯華がベルズフート農民団と合流するために離反したペーター達と出会ったのはそのすぐ後の事であった。農民団と出会ったことを彼女は天啓であると感じた。
それは、身一つで闘争に加わり、ライバッハでの敗北を味わってもなお一切変わることはなかった。厳しい寒さにさらされながらも今はただ雌伏の時であると自身に言い聞かせ、彼らが自由を勝ち取るその日まで戦い抜くことを彼女は心に誓ったのだ。
フェルディナント伯の雇った傭兵達の追撃は農民団が組織的な抵抗が出来なくなった今でさえ終わっていない。彼らもまた、農民団の中核であるペーターと唯華の首を取るまで安息の日が訪れないことを知っているのだ。だからこそ、傭兵達は血眼になって彼女達を探し、彼女達もまた、追いつかれないように逃避行を続けている。
ライバッハの戦いからすでに半年が経過しようとしていた。農民団は春の訪れと共に、帝国南部、ディツル地方に足を踏み入れることになる。
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