妖精のお姉さん

雨の粥

妖精のお姉さん

 わたしがまだ小学生だった頃。

 いつもそばに小さな妖精がいたのを覚えている。

 大きさはちょうど、大人になった今のわたしの掌ぐらい。

 妖精というとティンカーベルみたいな少女のイメージがあるけれど、わたしのところにいたのは大人のお姉さんだった。

 大人のお姉さんがそのまま、掌サイズに縮小されているのだ。

 お姉さんのことは「お姉さん」と呼んでいた。

 今にして思えば人間でいうと30代半ばぐらいで、そこそこ美人の部類に入る顔だち。妖艶な雰囲気を醸していて幼心に憧れだった。

 背中に羽はなかった。

 羽はなくても短いあいだなら、ふわりと浮かぶことができた。身体が軽いせいかもしれない。だが浮かぶことはできても、その後浮かんだままでいることはできなかった。時間が経つにつれ、ゆっくりと沈んできた。

 空はとべなくても、本棚の上にのぼったりするのには十分だった。

「猫みたいね」わたしは言った。

「猫は嫌。追いかけてくるから苦手なの。あの子たちったら、小鳥か何かとまちがえてるのよ。私はとべないのに」

 とべないのに、というところに笑ってしまった。浮かぶことまではできるので、口惜しいのだろうと思った。

 お姉さんはいろんなことを教えてくれた。とても物知りで、知らないことなんて何もなさそうだった。身体のこととか、人間の大人だったら口を濁すような、際どい疑問にもあけすけに答えてくれた。

 その他、秘密の手遊びやおまじない、妖精族の不思議な踊りも教えてくれた。

 学校の宿題の答えでも、聞けば答えてくれた。

 そんなお姉さんの関心ごとはわたしが毎日通っている、「学校」なる場所だった。

「学校って、わたしも通ってみたいわ」

「お姉さんには退屈だと思うけど」

 提案してみるとテストの当日に、パーカーのフードに隠れて学校についてきてくれた。わたしはテストの答えをこっそり教えてもらえてご満悦だった。

 お姉さんが見つかって騒ぎになる、なんてことはなかった。魔法で透明になったりできるわけでは決してないのだけど、堂々と机の上に座っているのに、なぜか先生にもクラスメイトにも気づかれないのだった。

「堂々としてればいいのよ。これが普通ですって顔をしていれば」

 お姉さんは甘いものに目がなかった。給食のプリンをこっそり食べてしまい、一人分足りなかった時には、さすがにちょっとした騒ぎになった。

 その後もたまに学校までついてくるようになったのは、給食のデザートが目当てだったのかもしれない。


 お姉さんは秘密の場所を持っていた。

 案内なしには見つけることができない不思議な場所だった。

 わたしはその場所を「妖精の国」と呼んでいた。

 お姉さんは真夜中にこっそりわたしを誘いに来た。

 妖精の国でお泊り会。今夜はパーティーナイト。奇妙な音楽に合わせて踊り狂い、一晩かかっても食べきれないぐらい大量のケーキをふたりでほおばった。

 虹色の紅茶を口に含むと、わたしの頭はボーっとなった。

「誰にも内緒だからね。ここに来るのは香月ちゃんだけよ」

 お姉さんはわたしの名前を口にした。胸がきゅんとなって、顔から火が出そうだった。秘密を共有している高揚感を感じた。

 妖精の国を訪れる度に、お姉さんとの結びつきがより強くなっていくのを感じるのだった。

 春休みのある日のできごとだった。

 新学期が始まるので、部屋の片づけをしていた。

 前年までの教科書をクローゼットにしまったりだとか、机や本棚をあちこちひっくり返していた。クローゼットで見つけたのは、段ボール箱に詰められた大量の水風船だった。

 そんなものを買った覚えも、もらった覚えもなかった。

 一つや二つなら、子供だましのつまらない玩具だ。だけど、ほんとうに大量にあったので、わたしは嬉しくなってしまった。勝手に自分のものにしてはいけないかもしれない。だが、これだけあれば少しぐらい減っても分からないだろう、と考えた。

 両親は喫茶店をやっていた。日曜日は休業日だった。

 シャッターの下りた店内で勉強したり、本を読んだりするのをわたしは習慣にしていた。緊張と弛緩のほどよいバランスのせいだろうか、店内で勉強すると妙にはかどるのだった。

 妖精の国がお姉さんの場所だとしたら、日曜日の店内はわたしの秘密の場所だった。

 日曜日、両親はだいたいいつも出かけていて留守だった。

 波や水玉の模様が入った色とりどりの水風船を、初めはただふくらませて遊んでいた。だんだんエスカレートして、壁に掛かったチープな絵画をめがけて投げたりし始めた。いけないことをしている背徳感がわたしをハイにしていた。

 時々、古い壁面から飛び出ている釘の先に水風船が触れると、ボウ! と音をたてて割れた。その音を聞くたびにわたしの胸は高鳴った。

 そこにお姉さんがやって来た。お姉さんは彼女にとっては巨大な果物ナイフを、全身で抱えていた。刃はよく研がれていて鋭かった。

「これで突いちゃったら」

「えーっ、それはマズいよぉ……」

 初めはさすがに抵抗があったが、甘い囁きには抗えず、一度禁を犯してしまうと、刃の先が触れたときのプツンという感触が癖になった。ゴムが弾ける感触があって、中に満たされた液体がどっと迸る。

 わたしはいくつもいくつも、水風船をふくらませ並べておいて、手当たりしだいにナイフで切り裂いた。

 水しぶきがかかると、わたしは嬌声をあげた。

 箱の中の水風船は目に見えて減っていった。片づけのことなんて考えることなしに、わたしは風船をふくらませては並べ、ナイフで刺し貫いていった。

 店内のキッチンの水道管は老朽化していて、水の出が悪かった。

 とぎれることなく風船をふくらませたいのだけど、ひとつふくらませるのに永遠に思えるほど時間がかかった。水は出しっぱなしにしていた。

 わたしは焦らされている気分になってきた。

 出しっぱなしなので意味はないのだけど、何度も何度も蛇口をひねった。水の勢いは変わらない。

 そのうちグラグラし始めたかと思うと、根元からぽきりと折れてしまった。

 ものすごい勢いで水しぶきが迸った。

 慌てて管を塞ごうとして服が水浸しになった。

 わたしはパニックになって泣いてしまった。

 すぐにお姉さんがとんで来てくれた。

「ここはわたしが何とかするから、服を着替えてらっしゃい」

 わたしは涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら頷いた。涙で滲んだ視界の中にお姉さんの姿が映っていた。

 それが彼女を見た最後になった。

 戻って来ると、水道管は元通りになっていた。

 お姉さんの姿はどこにもなかった。それからどこを探してもお姉さんはいなかったし、いつまで待ってももう会うことができなかった。初めからいなかったかのように消えてしまった。


 後になって分かったことがいくつかある。

 両親の家業について、わたしは記憶ちがいをしていたようだ。

 両親がやっていたのは喫茶店ではなく下宿だった。同じ屋根の下で暮らしている下宿人の存在は認識していたけれど、子供時代のわたしは、家というものはよその人も一緒に住んでいるのが当然だと思っていた。

 お姉さんについては一つ興味深い事実がある。

 わたしに執着していた下宿人の女が、逮捕されたという事件があったらしい。結構大きなニュースになっている。

 この下宿人の女がお姉さんの原型なのかもしれない。

 ただ、女の写真を見たけれど、ピンと来なかった。わたしが記憶しているお姉さんの顔とはちがっていた。お姉さんと異なり、女は平凡な顔立ちだった。もっとも、これも記憶ちがいかもしれない。

 わたしに執着していた、というのは他の人から聞いた表現で、わたし自身は可愛がってもらっているという認識だった。だけど夜中に小学生を連れ歩くというのは、まぁ、何とも……。

 おかしなこと、辻褄が合わない点は他にも残っている。

 わたしが日曜日の時間を過ごしていた喫茶店は、どこに消えてしまったのか。

 妖精の国は女の部屋か、そうでなくても別の誰かの部屋だろう。溜まり場のような場所だったのは想像に難くない。夜のことだし、わたしも興奮状態だったので、具体的な場所はあやふやだが、不審な点はない。

 だけども女とも関係が薄く、わたしが長い時間を過ごしていたはずの喫茶店が、跡形もなく消えてしまったのはおかしい。下宿には該当しそうな部屋はない。両親にも訊いてみたけれど、かつてそういう部屋があったのでもなさそうだ。

 まだ何か重要なことを忘れてしまっているのではないかと思う。

 あの水風船も謎だ。ナイフで水風船を割るなんて、わたしは一体何をさせられていたのだろう。プツンという感触は今でも手に残っている。

 お姉さんが小さな妖精だったというのも、記憶ちがいで片づけることはできる。

 記憶にあるのは掌に乗る大きさの妖精なのに、実際にいたのは人間だったなんて、記憶って不思議だなと思う。それなら、パーカーのフードに隠れて学校にまでついてきたのは、何だったというのだろう。

 いくつかのことは空想なのだとしても、中には真実も含まれているのではないか。わたしはそう睨んでいる。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

妖精のお姉さん 雨の粥 @amenokayu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ