第2話 日常

小学生に上がりたての頃、とても印象深く記憶に残ったドラマがあった。幸か不幸かそのドラマをきっかけに医師になる夢を持ったがそれは両親にとっては当然誇りであり希望そのものだった。

自らの意思で医師という高みを目指そうと言ったのだから。それも小学一年生の息子がだ。


平成の時代を生きる僕の両親はともに昭和の時代を生きてきている。学力こそが全ての時代だ。学力が無い者はふるいにかけられ、職の安定性に大きく関与してしまう時代。

時代背景を考えると当たり前だったのだろうが小学三年生に上がって間もなく有名な中学受験専門の塾へと通わせられることとなった。


朝から夕方までは学校で授業を受けたり休み時間はグラウンドに出て遊んだりする普通の小学生。それが下校時間になると塾へ直行し、そこからおおよそ四時間もの時間を拘束され、帰宅するころにはすでに二十二時手前。

これが毎日のルーティンだった。

早くから勉強に手を付けていた僕は授業のペースに取り残されるだなんてことはなく、常に学年の上位の成績を取り続けていた。両親ともにそれが当然だという「幻覚」を見るようになっていた……


勉強は楽しかった。自主的に行うほどではなかったが、おおよそ趣味の範疇だっただろう。

すくなくとも苦痛は感じていなかった。しかし小学五年生になった頃から軒並み文系科目の成績が下がり始め、それに驚かれることは必至であった。

文系と理系。その区分がちょうどでき始めてしまうタイミングがとてつもなく悪かったのだ。

特に母は所謂「学歴厨」と言われる部類の人間で、志望中学校を決めるのに大切な小学五年生という時期に急に小さくなっていく紙面上の数字が気に食わなかったのだろう。


ある日母は僕に包丁を向けた。


何をどう頑張っても、どう工夫しても、社会という教科だけは暗記ができなかった。当然点数も伸びない。

父が飲み会に出かける日、母と僕は父が帰ってくるまでの時間一問一答をすることが多かった。

一問一答中に何度も同じ場所を間違えていると耐えかねた母が激昂した。

人間できないものはできないのだ。苦手は苦手なのだ。

それでも理想を押し付けてくる母に僕も言い返してしまった。地獄の始まりだった。


それまでは口論があってもなんやかんや二・三時間ほどあれば解決していたのだが、苦手であることを「正当化」してしまったその発言が逆鱗に触れたらしい。

突然椅子から立ち上がりキッチンへ向かう母を横目に問題集へ目を移す。

その瞬間ものすごい殺気とともに大きな足音を立てながら母が近づいてくる。本能で命の危機を察していたのだろうか、脇目も見ずに部屋の隅へ逃げ出した。


ただただ悪手だった。


一番距離をとれる場所であると同時に逃げ場がないことも意味するからだ。


「あんたを殺してあたしも死んでやる…!!」


そう叫びながら少しずつ近づいてくる母。今思えばドラマでしか聞いたことが無いような言葉だったが、当時の僕にはそんな甘いことを考える余裕なんてなかった。


人間は痛みが強すぎると『痛い』だなんて言葉も言えなくなる。


これは誰しもが一度は聞いたことがあるだろう。ただこれは痛みに限らなかった。

ありとあらゆる感覚が人の耐えられる限界に近づく時、出せるのはわずかな吐息だけとなる。そこに声なんて付きまとえない。


『やめて…!!』


そう叫ぼうとしても恐怖で体が動かない。短い人生だったと腹を括ろうとしたその時だった。


……ガチャ


玄関の開く音だ。父が飲み会から帰ってきたのだ。

ただそこに広がるのは円満な家庭でも受験勉強を頑張る息子のたくましい姿でもなく、絵に描いたような地獄絵図だったのだ。


母は怒りのあまり口から唾液の泡を吐きながら自分の息子であるはずの子供に包丁を向けている。

息子はそのあまりの恐怖に涙を流し不安定な呼吸の中、体を震わせながらただただ立っていることしかできない。


こんな崩壊も崩壊した家庭があってたまるだろうか。


だがこれも現実だった。父は一喝した。


「何をしとるんじゃ!!」


その一言で母はほんの少しだけ正気を取り戻したのかもしれない。獣のような目が一瞬人間の目に戻った。


人を拘束するにはどんな方法があると思う?

情を流し、情で服従させるか。

もしくは互いにメリットのある方法を以て納得させるか。


あるいは恐怖という強い感情で覆いつくすか。


生物の根源的な感情は死という存在に対する恐怖だ。その根源的な感情を植え付けられた人はどうなるか。単純な話だ。

生きるために従うのだ。


僕は彼らの息子じゃない。彼らの息子は殺され、代わりに誕生したのは奴隷だった。

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殺したかったんじゃない。殺されたんだ。 しゅう @SyuSHY4328

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