第22話

 やけに、その綺麗な顔が近い気がする。貸出机の縁に腰を押しつけられて、ともすれば今にも体が重なりそうで、シキアはそっとその胸を押し返す。

「あの、何の話を、それと、近いですけど」

「友人の初恋の結末と共に弟子の恋が成就するところも見ておきたいぞ」

「はあ、あの、さっきから本当に何の話を、近いですって」

「少し茶番に付き合ってもらうぞ」

 切れ長の綺麗な眼が、近い。こんな間近でその目をのぞいたことがなくて、やっぱり綺麗な緑色だなと思う。サコットの青とは違う薄い色。サコットの青はまるで空のようで、もしこんな近くで見つめてしまったら吸い込まれるんじゃないだろうか。なにかにつけサコットのことを考えてしまうたび、顔が熱くなる。

「顔が赤いな」

「いやこれは」

 サコット様を思い出して、なんて、言えない。

 瞬間、

「ヒアミックっ!」

 鋭い声と同時にヒアミックの体がシキアから離れる。正確には伸びてきた大きな手でシキアから引きはがされた、とでも言うのかもしれない。

 サコットだった。でも、見たことがないくらい怖い顔をしている。

「何してるんだ」

 責める声は鋭く、シキアは思わず身を震わせた。ヒアミックは何食わぬかおで笑っている。ここで笑うのかよ、と思ったが、それはサコットも思ったようだった。

「なに笑ってる」

「いいや。別に弟子と触れ合っていただけだ、お前は何を怒っている」

「怒って……、だって、お前がシキアに、く、口づけているように見えて」

「ちがいますちがいます絶対そんなことないです!」

 とんでもない誤解やめて欲しい。

(先生とそんなこと、ありえない、絶対にありえない)

 そうでなくともヒアミックはスキンシップの激しい方ではないので、こんなに近づいたのも珍しいくらいだ。それなのにヒアミックがまるで煽るように口を開く。

「だいたい私がシキアと口づけて何がいけないのだ?」

 いやあんた何言ってんだ!と叫びたい。

「何がって! そんなの、だって」

 サコットがちらとシキアを見て、何か言いたそうに口を開いたが、言葉にできなかったのかそのまま閉じた。

 この茶番の意味がだんだんと分かってきた。これを茶番と分からないサコットは、本当に恋愛に疎いのかもしれない。

(初恋って、ほんとうに?)

 だって、それって、つまり。

 またサコットと視線が絡んで、また顔が熱くなる。あの細く見えるけどたくましい腕で抱きしめられる熱を、知っている。耳のすぐそばで囁かれる名前が震えるくらい優しく響くことも。

(でも、そんなこと、ありえるのか?)

 だって、ヒアミックの言い分なら、サコットの初恋がまるで――

(オレ、とか?)

 そんなことあり得るのだろうか。少し話をするくらいで、少し側にいたくらいで、そんな都合のよい夢のようなことがおこっていいんだろうか。でも、ヒアミックは適当にそんなことを言う人ではない。心臓が壊れそうなくらい早く強く脈打って倒れそう。

「そう嫉妬するな」

 ヒアミックが小さく笑って

「っ、だって、俺は」

 サコットがうつむいた。

 何とも言えない空気になったところで、ヒアミックが口を開く。

「では私は用事があるので失礼する」

 あんたこの空気どうしてくれるんだ、と救いを求めて視線を投げたが薄情な先生はさっさと図書館から出て行った。

 残されたシキアとサコットは顔を見合わせて、同時に目をそらす。

 嫉妬してくれたなんて、嬉しすぎて熱がでそう。

「あーもう!」

 サコットは金の髪をぐしゃとかき乱してから、心細そうな目でシキアを見つめた。

「ごめん、もう俺、最近おかしくて」

 青い目がシキアを見つめる。さっきヒアミックの目を見た距離でこの青を見つめたら、自分はどうなるんだろうと思う。オレなんてサコット様に不釣り合いだ、そう思う理性がどこかへ飛んでいく。だって、見つめてくれるサコットの目には確かに熱が乗っているのだから。

「あいつに笑われるくらい、この間からずっと、シキアの事ばかり考えてる……君の言葉が頭から離れないんだ、格好悪いよな」

「そ、んなこと、ないです」

「君をもう一度、抱きしめたい」

 まっすぐ、そんなことを言われて頭がくらくらした。これは夢なのかな、だとすれば、もう、好きにしていいんじゃないだろうか。

(いいよな、夢、なんだから)

「サコット様、あの、オレも、」

 サコットの袖の端を掴んだら、そのまま抱きしめられた。

「ごめん、いや、じゃない?」

「うれしい、です」

「本当?」

「あの、本当に先生は先生で、恩人です」

「う、ん」

「サコット様にしか、抱きしめられたことないです」

「っ」

 抱きしめてくれる力が強くなる。

「はつこいって、本当ですか」

「あいつ、何喋ってんだ!」

「嬉しいです、こんなに嬉しいこと、ない」

 サコットの肩口に額を乗せると、勝手に涙があふれてくる。どうせ夢なら、素直でいよう。

「シキア、泣いてる」

「いい夢すぎて」

 サコットの指が目のふちをなぞって、青い目が近づいてくる。近くでみたら想像したとおり吸い込まれそうだった。鼻が触れたところでサコットがはっとしたように顔を離したから、シキアから顔を寄せた。吸い込まれそうな青、もっと、近くで見たい。もっと、近くへ。

「シキ、アっ」

 呻くような声と共に、唇が触れた。

「んっ」

ただ触れるだけの口づけは、それでもシキアの身体中から力を奪ってしまう。抱きしめられていなければ立っていることもできない。ただ触れるだけの口づけは数度続いて、あとは強く抱きしめらる。シキアも精一杯の力で抱きしめ返して、なんていい夢なんだろうとぼんやり思った。


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