第3話
そんなある日の事、アルバイト中にふいに男性から声をかけられた。
「あれ、もしかして、ショウ・・・君?」
お客と廊下ですれ違う時は、いつの間にか目線が下に行くようになってしまい、自分の事を知っているのであろう声の主を怯えるように見上げるのだった。
誰だかさっぱりわからなかった。
男性は少々戸惑いながらも笑顔で、
「そうだよね?いやー久しぶりじゃん。俺だよ、ユキトだよ。高校以来だから何年ぶりだろう」
と上から下まで、まるで品定めでもするように見渡す。
(ユキト?誰だ?ああ、たぶん高校の同級生か)
辞めた高校の同級生の顔など、とうの昔に忘れていた。
「ずいぶん雰囲気変わったじゃん。痩せた?そういえば、どう、バンドまだやってるの?」
「いや、もうやめたよ」
「そっか。俺はあのバンドの音よりもさ、ショウ君のあの喋りの上手さ、会場の盛り上げ方が忘れられないよ」
そんなことあったろうかと、頭の中を巡らせ、思い返してみてもすぐには浮かんでこなかった。
「またやんなよ。絶対最高だって。あ、じゃあ俺戻るから、頑張って」
そう言うと皆が待つ部屋に戻っていった。
ふざけるな!と心の中で叫んだ。
抑えきれないほどの怒りが湧きあがり、奥歯を噛みしめ堪えようとしても、到底無理で、気づけば顔面が引き攣っていた。
そんなことをしている場合ではないのが見てわからないのか?
できないのをわかっていながら、わざと言っているのか?
何もかもうまくいき、人生を謳歌している自分の姿を、哀れな貧乏人に見せつけて楽しんでいるのか?
とめどなく溢れてくる怒りを鎮めるためトイレの個室に入った。
壁を殴りつけたい気持ちを必死で堪えていた。
許せない気持ちが自分を支配していく。
あいつの部屋に乗り込んで胸ぐら掴んでやろうかと、できもしないことが次々と浮かんでくるのだった。
ふいに、子供の顔が浮かんだ。
どうしようもないやりきれない気持ちに襲われ、気づけば嗚咽が漏れていた。
惨めだった。
はじめて今の自分は惨めだと知ったような感覚だった。
なんでこんなことになってしまったのだろうか。
こんなにも必死に頑張っているのに、どこまでもどこまでも、抜け出せない蟻地獄の巣の中に落ちたような感覚だった。
悔しいがこれが現実だった。
毎日家族が生きていくために、誰かが落としていくわずかな小銭を見落とさないよう地面ばかり見て生きていく。
上を見上げても、天から降ってくるのは食えないものばかりだった。
トイレの個室に籠っていると仕事をサボっていると思われるので、トイレットペーパーで鼻をかむとトイレから出た。
何も変えられない、何も変わるはずがない。
余計な事を考えるのを止めようと、また感情を押し殺して無機質なロボットに戻って仕事に戻るのだった。
また、そんなある日、ある部屋に飲み物を運んでいった時だった。
その部屋には若い男が3人で歌いにきていた。
飲み物を持って入るとたいがい歌うのを止めて、気まずい雰囲気が立ち込め、すぐに部屋を出なきゃとなるのだが、今マイクを持っている男はそんなことを気にせず、歌の内容とは関係ないマイクパフォーマンスをしていた。
(・・・上手いな)
なんだか盗み聞きしてるように思われるのが嫌で、いつもは何も聞こえないロボットに徹していたが、今回は耳に残ってしかたがなかった。
部屋から出ると少し立ち止まって客のマイクパフォーマンスを聞いた。
それを聞いていると、何かが、良くわからないけど、体の奥の底から湧き上がってくる何かがあった。
とうの昔に消し去った、楽しくなるような、ワクワクしてくるような、そう、生きていると実感できる何かが心の奥底にあることに気づかされる感覚だった。
楽しい気持ちになると同時に、あの憎たらしい同級生の言葉も浮かんできていた。
ーーショウ君のあの喋りの上手さ、会場の盛り上げ方が忘れられないよーー
(ふん。何が喋りが上手いだ。何が盛り上げ方が忘れられないだ。何も知らないくせに)
悪態をついてはみたものの、あの時ほどの憎しみは湧いてこなかった。
それよりも、自分はそんなに上手かったのだろうか、こんな自分が、人前でそんなことできていたのだろうかと信じられない気持ちの中に、それはほんの小さな光であったが、もしかしたらという思いが芽吹いているのが感じられるのだった。
やめよう。
余計な事を考えれば苦しくなる。
希望など望めば望むほど堕ちていくだけだ。
夢を語れば惨めになっていくだけだ。
ただ、毎日生きていくために目の前の事をこなしていくだけでいい。
そうすれば、誰にも迷惑をかけず何とか生きていけるのだから。
でも、そうわかっていても、何かが心の奥底で動いた感覚が消えようとはしなかった。
このままでは何も変わらない。
生活はいつまでも苦しいままだ。
どこかで何かを変えなければいけないとの思いが、今回はしつこいほど頭から離れなかった。
それが何なのかわからず苦しくて仕方がなかった。
何ができるんだ。
何をどうすればいい。
俺は何をしたいんだ。
わからなくて、もどかしくて、どうしようもない感情がいつまでもいつまでも消えることはなかった。
仕事が終わり、保育園までの帰り道、何気なしに見上げた空に月がぽっかりと浮いていた。
思いがけず、情けない姿の男は見つめた月に向かって、この思いをぶつけていた。
(また、できるならやりたいな。あの頃の自分のように、みんなの前に立って)
届かぬ願いと分かっていたものの、気づけば自然とそう願っていた。
疲れ果てた男を見つめるように、月明かりはいつまでも優しく照らすのだった。
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