Octet 6 ホーミング
palomino4th
Octet 6 ホーミング
頭の奥が痺れて思い出せない。
月明かりのない闇夜、砂地の上をゆっくりと這いながら僕は波打際に進んでいる。
身体を起こすことが出来ない。
僕の身体は直立をやめてしまった。
脚を失ってしまったか、赤子に戻ったかのようだ。
事故や暴力で手脚を使えなくされたのだろうか。
いや、そういう痛みはない。
今の痛みは慣れない
砂に這ったおかげで顎や腹あたりは砂だらけになっているだろうが、気にならない。
海の中へ還りたい気持ちの方がどうしても大きいのだ。
海の中。
入水したら当然呼吸など出来ない、溺れるじゃないか。
常識的に考えれば自裁に向かってる場面だ。
頭の中に訪れる冷たく暗い水への恐怖が波打っている。
でもそれが半分なのだ。
もう半分にはまるで別の感情が渦巻いている。
常識では測れない、狂気としか言えない思いが。
思い出せば。
母親の顔の記憶が無い。
物心ついた頃にはほぼ祖父母の顔だけだった。
地方の片田舎の農家で、乳幼児の頃、祖母に世話をしてもらっていたのだと思うが、立ち上がり動き回るようになったあたりで祖母は亡くなった。
老いながらもまだ
祖父母の元で育てられている時に時々顔を見せる男がいたのだが、長じてそれが実父だと知った。
仕事の関係上、一人では育児ができないところを実家に委ねた、というのが外向けの理由ではあったけれど、どうも
それだけではないようだった。
祖父は僕を本当の名前で呼ばず、奇妙な呼び名を投げかけてきた。
「トリあえず」
幼い時に耳にして、半ばそれを自分の名前のように自然なものと思ったいたが、もちろんおかしい。
「とりあえず」は「さしあたって」と言う意味で使う言葉というのは分かるようになっていくが、祖父が書きちらしたメモなどで僕のことを『トリあえず』とわざわざかいているのを見つけて不思議に思った。
平仮名だけでもカタカナだけでもない。
そういう表記にしたことに意味があるものなのか、と。
中学生の頃、祖父の健康も陰りが見えて、僕はいよいよ父と暮らすことになった。
ある程度、自分のことは自分でできるので、同じ屋根の下に住んではいるけれど、必要以外の交流はほとんどなかった。
父は細身で小柄、いつも何かに怯えたような男だったのだが、僕は幼少の時代から父に
話しかけても返事を返してもらえない。
ある時、どうしても知りたくて、父に母のことを訊いたことがあった。
父の反応は……異常なほどに
何の答えもないまま、以後は尋ねることも出来なかった。
多分、母に関するものは全て破棄されていたのだと思う。
どれだけ探しても母につながるものは何も出てこない。
成長し、高校までは通い卒業してすぐに家を出た。
父のことは好きになれなかったのだが、憎しみにはならなかった。
どうしたわけか、僕のことを非常に恐れ、それはもう神経症になるまでに悪化しており、お互いのために距離をとる他なかった。
だけど遅かったのかどうか、父は既に精神を病み、ほどなく自宅で
父を弔った後、遺品の整理をしつつ何か過去を知るものがないのかを探したが、写真や書き物などほとんど無く徒労に終わった。
僕の過去はプッツリと途切れてしまった。
日々の生活をただ過ごし歳を重ねた頃、ふと思い立ち休日を使い実家のあった集落を訪ねた。
階段を上がり山門をくぐると、過疎気味の割にはしっかりと手入れのされた境内があり、寺を守る若い住職もいた。
ちょうど表に立っていた住職に挨拶をし、かつてここで育った者であり、昔のことを知りたいというのを話すと、若い住職は先代の老住職に取り次いでくれた。
通された客間でお茶を出され、こちらの素性を話すとすぐに祖父のことを思い出した。
「お爺さまとわたくしとは同級でした。檀家さんではありましたが、それだけでなく一緒にお酒もいただいたり大変親しくしておりましたが」
先代は懐かしげに話しながら、時折憂い顔に言葉をとぎらせることがあった。
「実は祖父は僕のことをずっと変な呼び名で読んでいたんです。「トリあえず」と」
「「とりあえず」?おかしなお名前ですね……いえごめんなさい。どういう意味でしょうか」
「僕もそれが知りたいのですが……そうですか、
先代から思いつく限りの思い出話から少しづつ祖父と父の関わり、母の手がかりを得ようと茶をいただきながら話を引き伸ばした。
「お爺さまはお父さまについて」と父のことで思い出したことがあったようだ。「『自分のせいで嫁が出て行ってしまった』ととても気に病んで、それで罪悪感のようなものを抱いていたようです」
「待ってください、母は出て行ったんですか」
早世したものとばかり思っていたのであまりに意外だった。
「昔の話を蒸し返すのは本意ではないのですが、もうじきわたくしも「お迎え」ですから、この機会に話すべきことはお話ししておきましょう」
やや居住まいを正して語り始めた。
「お爺さまは、お嫁さんの何か秘密を見、知ってしまった。それであなたを残して姿を消してしまったので、という風に言っておりました。亡くなるまでその事はとても悔やんでおられました」
父はともかく、母の方は寺とはほとんど接点もなく、祖父の話以外に知るところはない。
母が家を出た後の消息は一切分からずそれ以上の収穫はなさそうだった。
ご馳走と話のお礼を述べ、帰るために山門に向かい歩く僕を送りながら、先代住職は取り留めなく集落の昔話をしていた。
「昔はここから見える下の一面に何軒もの家が建っておりましてね、屋根が」
と言いながら話が途切れたので先代住職の顔を見た。
「屋根が
「ずいぶん略しましたね」苦笑しつつ答えた。「長い名前ですから略すのも無理ありませんが」
「
その話を聴いてから夜の海のイメージが頭に浮かぶようになった。
夢に見たりするだけで無く、気がつくとそのことばかり考えるようになり……
今、波に向かって這っているこの夜が夢なのか現実なのか、僕には分からない。
ただそこに母がいる、自分の本当の故郷が海底にあるのだ、という本能に動かされるままに……。
Octet 6 ホーミング palomino4th @palomino4th
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