第2話 乗り込む人ばかり

 Hさんは歩くことが好きだった。

 きれいな歩き方をする女性がぼくは好きだったし、彼女の足の運び方は規則正しく、柔軟だった。

「私ね、家に帰ってもちっとも面白くないの」

 ぼくは彼女を車道側に立たせていることに、少なからず気をつけくてはいけなかった。

 彼女はリズミカルにアスファルトを踏みしめ、まるで飛行しているみたいに先へ進む。 

「おばあちゃんしかいないもの」

「ご両親は?」

「よくわからない。二人は物心ついたときには、どこかへ行ってしまったあとで、私には定期的に必要十分なお金が振り込まれる口座と、無口でマメなおばあちゃんが残された」

「連絡はないんだ」

「あっても今更よ。ひとつ上の肉親がいなくても大丈夫なように、心を小さく保って生きていたのよ」、そう言って彼女は、バス停の前に立ち止まった。「乗り物も好きなんだ」

 ぼくたちはバスがやってくるのを黙って待った。

 強い風が吹いた。数年前からふとした拍子に、自分が季節と季節の間にいることに気がつくことがあった。  

 そこでは音が地面に沈み込み、空気があたりを柔らかく包み込んだ。

 人々は喋ることをやめ、日常の中で過ぎ去ったことを、無意識に偲んでいるように感じられた。

 そして新たな季節が訪れ、ぼくたちは再び口を開き、やがて過ぎ去る生活の中に身を浸す。

 ぼくたちが何も口にしなかったのは、たまたまその時秋が始まろうとしていたからかもしれない。

 バスは二分遅れて到着し、二人は何も言わないまま一番うしろの席に座った。

 運転手は太っていて、客は殆どいなかった。急速に暗くなり、帰途につく車たちがにぎやかに感じられた。

「今日こうして誘ったのは、あなたがきっと私を好きだろうと思ったから」

 どう反応を返していいか分からず、黙って遠く離れたフロントガラスに目を向けたままでいた。

 Hさんはこちら見つめて、「違っていた?」と尋ねた。

「違わないよ」と答えた。

「あなたはよく恋をするの?」

「そんなに頻繁にはしない。でも特定の期間に誰か一人を好きになることが多いと思う」

「そして、私がその一人になった」

 ぼくはうなずいた。

 バスが停まり、幼児が一人と、その母親が乗車した。彼らはぼくたちの四つ前の席に並んで座り、バスはまた次の停留所を目指して走り出した。 

「私は自分に向けられる好意にとても敏感なの。何人かの男の子たちが確かに私を好きになってきた。そういうのってね、大体あとになって風のうわさになって聞こえてくるの。でもあなたのことは誰も噂しなかった」

「そういうふうに気をつけてるんだ」

「どうやって?」

「毎日外に出る前に瞑想をする。たっぶりと時間を使ってね」

 Hさんは少し考えてから話した。「無欲になるわけ?」

「それも一つだね」

「とにかくあなたは朝早くに座って、深く規則的に呼吸をする。そうすると大体の人はあなたについて語る気が失せる」

 ぼくは小さくうなずいた。「そもそも誰それに恋したってことを話の種にしたことはないんだけどね」

 ふうん、と言って彼女はつまらなそうに頬杖をついた。

「まあいいわ、とにかくあなたには知ってもらわなくちゃいけないことがあるの。だからこうしてバスに乗って、あなたを自宅とは全く別のところに連れ回している」

「勝手についてきたんだ」

「事実上、私がここに引き止めているの」。そして彼女はバッグからいちごのキャンディを取り出した。「これは手間賃。私から与えられるのはこれくらい」

 キャンディの包みは安っぽく、かえって小気味よかった。味も貧相で、期待を裏切らない。ぼくは包装を小さく固く丸め込んだ。

「でも今のところ男の子とお付き合いをしたことはないの。そういうのって、まだ私の身体には早い気がして」

「一緒に散歩するくらいの関係でもいいと思うけど」

「そういう問題じゃないのよ。私にとって男の子の横に立つことそれ自体が、なんだかまだ早い気がして」

「気持ちが間に合ってないのかな?」

 彼女は首を横に振った。「間違いなく身体の問題よ。まるで男の子から熱波が発されているみたい。私のお肉全部がそのせいで柔らかくなっちゃう感じ。私、まだもう少しこの時代で成長してから、次の段階に進みたいの。取りこぼしは嫌」

 とても真面目だと思った。堅実に人生を積み重ね、彼女はそこで得られるものを十分に得てから、次のステップへ進む。それは同時に欲張りでもあった。

「気持ちはわかるよ。ぼくも似たような感覚がある。多分欲張りなんだと思う」

「そうだとしたら、私がもし他のパートナーを持っているとして、あなたは妬んだりする?」

「強く嫉妬すると思う」

 Hさんは車窓に顔を向けた。

「でもきっと忘れてしまうわ。十年が経って、あなたは誰かいい人を見つける。運がよかったらお付き合いだってしているかもしれない。頭の中はその女の子でいっぱいなの。ひょんな事で私を好きだったことを思い出しても、きっと何かを取りこぼしたような苦しさは感じないはずだわ。欲望は何層にも積み重なっていく。新たな女の子が現れ、Hはその子に覆い隠される。記憶は風化する」

 そう言って彼女はぼくとの間に置いていたスクールバッグを膝の上に乗せる。

「少し間を空けてもらえる?」

 バスが次の停留所に到着する。降りる者はおらず、乗り込む人ばかりが増える。ぼくたちの空間が少しずつ損なわれていく。

 そして、U先生がごく自然な動作で、Hさんとぼくとの間に座ったのは、それから三駅後のことだった。


 

 
















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掌篇 運命よりも幻想 @bise0131

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