掌篇

運命よりも幻想

第1話 Hさん

 そもそもどうやって小説を書くべきなのか、よくわからない。

「小説」というと仰々しくて、精一杯何かを演じようとするような恥ずかしさがあるから、「物語をつくる」といったほうが少しはましになるかと思う。


 Hさんはぼくの同級生だった。学生たちはHさんのことを今ではすっかり忘れているかもしれない。

 彼女は特別勉強ができるわけじゃなかったし、習い事をやっていて、どこかで目立つような女の子でもなかった。

 大抵のクラスメートは、自分の持ち場をもっていた。ある学生は、クラシックギターを習っていて、時折頭から黒いギターケースをのぞかせて、学校が終わってからの秘密めいた練習の風景を、みんなに想像させた。彼はよく演奏をせがまれたけれど、そうやすやすとはギターを取り出さなかった。

 それでも、ふとした時(なんの脈略もなく)、彼は演奏を始める。そして、学生たちが高揚してしまわないように強く注意して、テンポの遅い音楽を弾いた。

 演奏が始まると、クラスメートたちはTの方を一瞥し、そして各々のやらなくてはいけない物事の方に意識を戻した。

 けれど、彼の音が届く範囲の人々は全員、そのギターの音色をごく自然に受け入れていた。

 演奏が終わり、ギターケースのジッパーを上げる。

 そして学生たちは、もう一度Tの方を見つめ、またやるべきことの方に戻っていった。


 Tと同じくらいささやかだとしても、各々が必ず自分の領分を持っていた。

 その範囲でできる限り、自分自身が特別であることに誇りを持ち、表立っては誰の邪魔もしないように努め、その不安定な時期を通過していった。


 Hさんはよくぼくを見つめた。

 これまでの人生で、そういったたぐいの視線をよこす人が、男女問わずぼくの周りにはいた。それはなんの意図も感じさせなかったし、あくまでその空っぽの時間を、ぼくを見つめることで得られるような、ちょっとした休息に似た静けさを感じさせた。

 だからぼくが彼女を好きになってしまったとき、彼女が必要としている時間を奪ってしまったような、申し訳なさがあった。

 恋をした相手に見つめられて、平然としていられるほど、ぼくは強くはなかった。


「たとえば、みんなが縄跳びをしているとき、あなたならどんな気持ちになる?」とHさんはぼくに尋ねた。 

 彼女が誰かに特別たくさん話しかけることはなかったし、かと言って社交性に欠けているというわけでもなかった。

 交友関係においても、彼女はここに記せるほどの特徴を持たなかった。 

「特別に何かを思うということはないんじゃないかな」とぼくは答えた。

 ふうん、と彼女はいった。

 ぼくたちは石灰の混じった灰色のグラウンドの片隅で、二人並んでしゃがみこんでいた。

「ころんだね」とぼくは言う。縄跳びの練習をしている児童たちの方を指差し、立ち上がれないでいる少女のことを見守った。まだ短い脚が砂をつけ、健康的な赤い血が露出していた。

「じゃあ私ならどう感じるかわかる?」と彼女は尋ねた。視線は涙を流し始めた女の子のほうを向いている。

 ぼくは考えた。彼女の質問の意図を探ろうとした。

 縄跳びをする学生たち。そこには縄を跳ぶために、一様に緊張や目的を抱えた、十代の少年と少女たちがいる。

 ぼくはHさんが軽やかに縄を越えるのを見つめ、Hさんはぼくがひっそりと縄を跳ぶのを見つめる。そこにはあの休息めいた眼差しがあった。

 しかし、次にぼくの番が来たときには、Hさんは自分のランニングシューズを熱心に観察していた。

 同じことをぼくたちは繰り返す。

 何人かのクラスメートが失敗し、跳んだ回数が0にリセットされた。

 そこではHさんは何も感じていなかった。

 跳んだ回数を増やすことに躍起になった生徒たちに混じって、彼女は静かに自分の番を待ち、そして機械的に縄を跳び越える。

 一度もミスはしない。


「きっと何かを感じるというのはないんじゃないかな」とぼくは答えた。そして、もう一度木の枝で、地面を小さく削っていく。「想像する限りでは」

 Hさんは微笑んだ。

 彼女の腕は見るたびに驚いてしまうくらい細い。肌はぼくよりもずっと繊細で、なめらかな質感をしていた。きっと多くの少女の身体は、Hさんとそう大差ないに違いなかった。

 けれど、ぼくはHさんを通して、女性の不思議さに気がつくことがほとんどだった。

 彼女は立ち上がり、こちらに手を差し出す。

「散歩をしましょうよ」

 ぼくは木の枝を置き、地面を削っていた方とは反対の手で、彼女の手を掴んだ。

 その手のひらは、自分のものと同じくらい柔らかかった。それはその日初めて知ったことの一つだった。







 










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