第一章 望まれた翠玉の君
(1)
逸る気持ちに逆らわず、馬車を駆け下り足早に廊下を進む。ついてきているシトリンが後ろからお小言を言ってくるが、聞こえないふりをした。
「お姉さま!」
勝手知ったる王妃宮の中を一目散に進み、応接室へ滑り込む。既にソファへ座っていたお姉さまは、一瞬だけ眉を潜めた後に笑顔になった。
「相変わらず元気そうで安心したわ」
「せっかくお姉さまに呼ばれたんだもの! 怪我だって風邪だって気合いで治すわ!」
「……貴女まであの方みたいな事を言わないで頂戴」
盛大な溜息をついているお姉さまの隣に、遠慮なく座り込む。貴女は来客なんだから向かいに座りなさいと叱られたが、気にせずに居座った。
「もう十六になったでしょ? 聞き分けなさい」
「他の方相手ならちゃんとするから良いの。私とお姉さまの仲じゃない」
「私はランウェイを出てもう八年になるのよ」
「血の繋がりは一生消えないもん」
「それはそうだけど……はぁ、仕方ないわね」
根負けしたお姉さまに気づかれないように、小さくガッツポーズする。シトリンからの視線は痛いので、これは帰ってからお説教コースだろう……とはいえ、貴重な機会を逃す訳にもいかないから仕方ない。
「それで? どうして私を呼んだの? お茶会のお誘い?」
「それなら手紙だけで良いでしょ。わざわざここまで呼ばないわ」
「じゃあ、直接伝えないといけない事?」
「そうね。事が事だから、そうした方が良いだろうって」
「そんなに重要な事なの?」
「重要ね。貴女の人生に関わる事よ」
「私の人生に?」
「ええ」
そう言って頷いたお姉さまの赤い髪がさらりと揺れた。ハーフアップの結び目に付けられているのは、先日エメ兄さまがお姉さまの誕生日に贈っていたバレッタだ。城外の公務の時につけてらっしゃる物よりも可愛い雰囲気だが、はめ込まれているのは大小さまざま色とりどりの宝石達なので、お値段は可愛くなさそうである。
「貴女にね、結婚の申し入れがあったの」
「結婚の申し入れ……つまり、私に求婚?」
「そう」
結婚の申し入れ。確かに、私は十六だし公爵令嬢だし、そういう話が色々来ているとは聞いた事がある。でも、そういう話って基本的には親に行くものではなかろうか。
「どうしてお姉さまの方へ話が来たの? こういうのって、大抵はお父さまの方にいかないかしら」
「正確に言えば、私ではなくて陛下……エメラルド様に話が来たの。求婚なさってきた相手は皇族の方だから、ランウェイの家に言うより言い易かったんじゃないかしら」
「皇族の方って事は外国の方? どなた?」
「ええと、この前の戴冠式に来賓として来られていた方で……」
「そこからは俺から話そう。入るぞ」
部屋の外から、そんな言葉が聞こえてきた。間髪入れずにドアが開いて、義兄でありこの国の国王でもあるエメ兄さまが入ってくる。
「……どうしてマリガーネットがそっちに座っているんだ」
「私とお姉さまの仲ですもの」
「王妃の隣は夫である王と相場が決まっている。退くんだ」
「なかなか会えない姉妹の数少ない機会を邪魔しないで下さらない?」
売り言葉に買い言葉で、私とエメ兄さまの間にばちばちと火花が散る。無理に入って来られないよう、お姉さまの右腕に腕を回してがっちりと抱き着いた。
エメ兄さまの緑の瞳が更に険しくなるが、負けてなるものかと臍の辺りに気合いを入れて睨み返す。数分後、恨めし気な表情のエメ兄さまは私達の向かいに座った。
「戴冠式に来ていた月晶帝国の劉蒼玉を覚えているか?」
「蒼玉様……あの、青い髪に紺碧の瞳をしていた綺麗な人ですか?」
「青い髪に紺碧の瞳をした、帝国の民族衣装を着ていた男だ」
「月晶帝国の民族衣装……上下分かれていて、上が前開きの羽織みたいな形状、下がゆったりしたズボンみたいな形をしていましたよね?」
「そうだ」
「その方なら、はい。覚えています」
当時の彼の姿を思い出しながら返事した。私の周りにはいない珍しいタイプの男性だったから、印象的でよく覚えている。
「お前に求婚してきたのは、その蒼玉殿だ。自分の妻……皇太子妃に迎えたいんだと」
「皇太子妃……って、この国だと王子妃に当たる立場ですか?」
「ああ。つい先日までスピネルがそうだったやつだ」
今のスピネルは王妃だがな。やたらと王妃という部分を強調して言われたが、まるっと無視して浮かんだ疑問を口にした。
「蒼玉様は、どうして私を皇太子妃に迎えたいとおっしゃっているのですか?」
月晶帝国は東大陸の中でも有数の大国だと聞いている。わざわざ、西大陸のエスメラルダという遠く離れた国から妻を迎えなくても良さそうな気がするのだが。
「最初は近隣を当たったそうだが、適当な年頃の王女や皇女が居なかったらしい。それでもう少し範囲を広げてみようとなった際に、同盟国であるうちが候補に挙がったんだと」
「なるほど」
「同盟国とは言うが物理的距離のせいであまり交流は出来ていないし、これを機に関係性を深められればこちらとしても有難いと思ってな。だから、俺の妹のどちらか、或いは俺の従姉妹辺りをと話していたんだ。戴冠式の後にそれぞれ話す機会を設けて、話した上で選んでくれと言っていたんだが……」
「蒼玉様は私を選んだ?」
「ああ」
しかめっ面のエメ兄さまが絞り出すように答えた。一瞬だけ右手が動いたのは、いつもの癖だろう……困った事があると、エメ兄さまはいつもお姉さまを撫で回している。
「蒼玉様は、どうして王女様方よりも私の方を選んだのかしら。理由は何か書いてありましたか?」
「いや、ありきたりな事しか書いてなかったな。戴冠式の後に帰国される際も、特段何も言っていなかったし」
「そうですか……でも、本来候補でなかった人間を、候補者を差し置いてまで選んだ訳ですし。何もないって事は無いと思うんですけれど……」
「まぁ単純な理由だと思うぞ。憶測でしかないが」
「単純な理由? 何ですか?」
「俺の口から言うのも野暮だろう理由だ。本人に直接聞け」
いきなりつっけんどんに返されて、今度はこちらの眉間に皺が寄った。何よそれと私がぼやいている隣で、お姉さまが栗色の瞳を大きく見開いてる。レアな表情を脳裏にしっかり刻むべく、じっとお姉さまのお顔を見つめた。
「貴方にそんな気遣いが出来る日が来るなんて」
「どういう意味だ、スピネル」
「思ったままを言っただけです。貴方自身は、私達の結婚の折に……私に対して、式を挙げるから着替えてこいしか言って下さらなかったですもの」
突如判明した新事実に、驚いて変な声が出そうになった。正面にいるエメ兄さまは、いつも通りのしかめっ面だが目が泳いでいる。
「あ……あれは、非常事態だったから」
「貴方の性格を考えたら、そうでなくとも……きっと気の利いた事は言って頂けなかったと思うわ。手は早いけど口下手ですものね」
「そ、そんな、事は……」
完全にお姉さまがこの場の主導権を握った。しどろもどろのエメ兄さまも、かなりのレアだ……良いものを見た。
「お姉さま、その辺詳しく教えて?」
「ええい後でやれ」
わくわくしながらお姉さまに続きをおねだりしたが、鋭い横槍が入ってしまった。機嫌が悪いのを隠しもしないエメ兄さまへ抗議の視線を向けるが、本題に戻るぞと仕切り直されてしまう。
「蒼玉殿は皇太子としての器も能力もある男だし、身体的にも精神的にも見た感じ問題はないだろう。月晶帝国に関しても、エスメラルダから遠いという点を除けば嫁す国としては申し分ない大国だ」
エメ兄さまの緑の瞳がまっすぐにこちらを向いた。強く鋭い圧を感じる視線に背筋が震え……やはりこの人は王なのだと思い知る。
「だから、こちらとしてもマリガーネットを送り出す事に反対する理由はない。経済的な意味でも政治的な意味でも、東大陸に強い縁が出来るなら願ったり叶ったりだ」
「責任重大ですね」
「重大だな。だが、スピネルを手本として長年研鑽を積んできたお前になら、十分務まるだろうと思っている」
「エメ兄さまは私に期待して下さっているの?」
「無論だ。それに関しては……スピネルも同意見だ」
「お姉さまも期待してくれているの!?」
勢いよくお姉さまを見上げると、お姉さまの綺麗な栗色と目が合った。ええ、と柔らかく微笑まれ、お姉さまの細い指が私の髪を梳いていく。ぽんぽんと頭を撫でられ温かな眼差しを浴びて、私の覚悟は一瞬で決まった。
「分かりました。精一杯務めさせて頂きます!」
「引き受けてくれるか」
「はい!」
力いっぱい返事をすると、エメ兄さまの目が一瞬だけ柔らかくなった。そして、話は終わったとばかりに腰を浮かし始める。もう少しはお姉さまとくっついていたかったので、足止めのためエメ兄さまに質問を投げかけた。
「もし今回のお話がなければ、私は国内の貴族に嫁ぐ事になっていたのでしょうか?」
「そうだろうな……具体的な行先は公爵に一任しただろうが、あの公爵が好き好んでお前を外国にやるとは思えん」
「では、今回の件に関してお父様は何と?」
「ひたすら嘆いていたな。何とか断ってくれないか、あの子の方を外国にやるなんて、あの子の方がエスメラルダの王家には相応しい筈だ……としつこく粘られたが、もう王子も王女もいるのに何を今更、他国の次期皇帝に望まれたんだから名誉な事だろうと告げたら大仰に睨まれた」
「……お父様相変わらずね」
「本当にね」
そう呟いたお姉さまの声が冷たくて、表情も氷のようだった。思わずお姉さまのドレスの袖を引っ張ると、御免なさいねと言われて頭を撫でられる。
「スピネルはもう国民の間でも王妃として立場を確立したし、次期公爵のルベライトも成人した。マリガーネットも、父親の事は気にせず蒼玉殿の元へ嫁ぐといい」
「はい」
「公爵の事は私達が注意しておくから」
「ありがとう、お姉さま」
「それじゃあ決まりだな。日程等の詳細が決まったらまた連絡する」
「分かりました」
返事をすると、今度こそと言う感じでエメ兄さまは立ち上がった。こちらに近づいてくる気配は感じていたが、お姉さまから視線を外さずに口を開く。
「お姉さま、時々は会いに来て下さる?」
「ええ。理由はいくらでも作れるし」
「その時はお姉さまとお供の皆だけでいらっしゃる?」
「それはその時の情勢と状況次第かしら。往復だけで二か月かかるし」
「なら、お姉さまが私と会う為に月晶帝国へ来て下さる際、エメ兄さまは二か月以上一人になるのね」
そう呟いた瞬間、目の前が一気に陰った。一応顔を上げて前を確認したが、予想通り眉間に深い皺を刻んでいるエメ兄さまが仁王立ちしていたので、必死に笑いを堪える。
「お前は何を言っているんだ」
「どういう事ですか?」
「そんなに長い間スピネルと離れていられる訳がないだろう。スピネルが月晶帝国に行くなら、俺も毎回一緒に行くが?」
「…………そうですか」
至極当然のように言われて、まともに返事をする気も失せてしまった。一方のお姉さまは、表情こそいつも通りだが頬が淡く染まってどことなく嬉しそうだ。お姉さまの事は大好きだけど夫婦に当てられる趣味はないので、もうそろそろ退散するとしよう。
「それでは、私は今から王立図書館へ行ってきます。月晶帝国や東大陸に関わる文献や書籍を片っ端から借りていっても良いですか?」
「良いぞ。貸出手続きはしろよ」
「はい」
返事をして部屋のドアへと向かうと、お姉さまに呼び止められた。振り返った先のお姉さまは、もうエメ兄さまにがっちりと腰を抱かれている。
「貴女には近々王妃宮の方へ移ってもらわないといけないから、そのつもりでいてね」
「それはむしろ大歓迎だけど……どうして?」
「貴女は月晶帝国の皇族の仲間入りをする訳だから。お妃教育が必要でしょう」
「……つまり、お姉さま自ら私のために直々に王妃宮でお妃教育をしてくれて、四六時中ずっと一緒にいられるって事?」
「公務もあるし、そんなにべったり一緒ではないわよ。教育係は他にも呼ぶし」
「それでも、今よりは格段に一緒にいられるって事よね?」
「まぁそう……ね」
「分かったわ! エメ兄さまなんて入る隙間がないくらい、姉妹水入らずで一緒に仲良く過ごすの楽しみにしてるから!」
どうせこの後は二人で仲良くするつもりなのだろうし。このくらいの意趣返しはしたって許されるだろう。
そんな訳で、それだけ言って少しだけ溜飲を下げ、眉間の皺が更に深くなっているエメ兄さまからの追撃を受ける前に退散した。
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